第2話:入社試験

 to:田中様へ

 この度は弊社の入社試験にご参加いただきありがとうございます。

 弊社ではお客様を安全に運ぶことのできるドライバーを育成するために入社試験の際に簡易的な実地試験がございます。予めご了承ください。


 モラトリアムを使い果たしてしまった彼に届いた1通の電子メール。画面をスクロールしていくが、そこには必要な持ち物や試験日が箇条書きで書かれているだけで適性試験の詳細については記されていなかった。

 だが、持ち物に運転免許証と書かれていたので教習所のようなところで軽く車を運転するのだろうと思った。

「変わった会社だな」と彼は思ったが、就職難という荒波に例外なく彼ももまれていたため、もう後に引き返すことはできなかった。それに普段から旅行などで長距離運転する彼にとって唯一の特技を生かせるこの試験はまたとないチャンスでもあった。


 翌日、彼は連日の就職活動ですっかりくたくたになったリクルートスーツを羽織り、カバンに必要書類を入れたか、財布に免許証は入っているかを入念に確認して目的地へ向かった。


 控室に通されて緊張を鎮めるため深呼吸をしながらその場で待っていると、彼の前に男が現れる。整髪料できっちり七三に分けられていて、身なりもドライバーの誠実さを表すには少々逸脱しているかのように見える。タクシードライバーというよりかはまるでホテルマンのようだ。そんな男が彼の前に立って茶封筒を渡す。


「君が田中君か」


「はい、そうです」


「田中君、封筒の中にある用紙を見てくれ」


 茶封筒の中を漁り、一枚の用紙を取り出す。そこには見知らぬ人物の名前、年齢など簡単なプロフィールが黒枠の中に記載されており、枠の外には数字が印字されていた。


「そこの右上に書いてある番号が君の乗り込む車だからさっそく出発してくれたまえ」

 用件のみを簡潔に伝え終えた男はさっさと背を向け控室を出ていこうとする。

 入社試験において言い訳や余計な質問は無用だからな、と大学教授から彼は耳に胼胝ができるほど教わっていたし、就職セミナーの講師も口を酸っぱくして言っていたが、あまりに状況が呑み込めず彼は思わず口をはさんでしまった。


「ちょっ……ちょっと待ってください。僕はこの紙をもらって一体何をすれば宜しいのですか」

 眼鏡の奥から切れ長の眼が彼を刺す。セミナー講師の言っていたことを彼は身をもって学習した。緊張で銅像になった彼に男は冷ややかに告げる。


「そのプロフィール用紙に記載されている住所に従ってお宅へ出向き、お客様を目的地までお運びするだけです。私からお伝えすることは以上。以後質問は受け付けないのでそのつもりで」

 言い終わった後、男はドアを閉めてその場を立ち去った。

 仕方なく茶封筒ともに渡された制服に身を通し、金の天使のエンブレムが目立つ黒の制帽を被って彼は目的地へ向かった。


 城ほど立派に聳え立つ豪邸の前で彼はタクシーを止める。


「ここで合ってる……よな? 」


 白のレンガで堅牢に築き上げられた門は、じっと眺める彼を威圧するかのような威厳を放っている。まるで門が関所の前でにらみを利かせる兵士みたいだ。これから乗せる客の年齢を考えると、まるで自分が誘拐の片棒をあの会社に担がされているではないか、と彼は思う。


 しばらく待つと一人の少年が入り口から出てきた。


「どちらまでですか」


「お金なら払うからさっさと出してよ」

 

 子供の純真さとはかけ離れた返しに『すれた少年だな』と彼は胸の内で少し腹を立てた。後部座席に腰を下ろした少年に聞えないように彼は小さく溜め息をつき、仕方なしにエンジンキーを回して車を走らせる。道中、少年と彼には会話がなく、その沈黙の中でポータブルゲームの音だけが虚しく響いていた。


 あらかじめ渡された地図に沿って車を走らせていくと、車窓から燃え上がる炎のように輝く夕陽に染まった海が見えた。


「海、きれいですね」


「……」

 返答はなかったが、ポータブルゲーム機の音は鳴り止んでいた。バックミラーから後部座席を覗くと少年はゲーム機から手を放し、燃え上がる太陽が沈み、鎮火されていく様子をじっと眺めていた。


 それから彼はしばらくタクシーを走らせて、丘の上に立つ灯台の前で止まった。運転席脇にあるスイッチで後部座席のドアを開ける。しかし、少年は降りようとしない。


「降りないのかい? 」


「迎えが来るからそれまでここにいさせて」


「そうか」


 彼は車内に明かりをつけ、窓の外へ視線を向ける。目的地についた頃には太陽はすっかり沈み、代わりに上がった満月が海を照らしている。光は水面に反射して、その光景はまるで群青の闇に白銀の橋がかかっているように見えた。


「夕暮れの海もいいが、夜はまた格別だな」

 あまりにも景色が美しく、彼は独り言を漏らす。


「そうだね」

 バックミラーに映る少年もじっとその景色を見つめ続けている。どうやら美しい光景に魅せられたのは彼だけではなかったようだ。


「お兄さんさ、未練ってある? 」

 少し考えてから彼は答える。


「沢山あるよ……君は? 」


「僕は今の瞬間までないと思ってた」


「どうゆうことだい? 」

 訝しむ彼はバックミラー越しに少年を見る。少年の視線は相変わらず夜の海に映る月の橋に固定されたままだ。少年は小雨のようにぽつぽつと自分ことを語りだした。


「生まれてから裕福だった僕は欲しいものがあれば何でも手に入ったんだ。それはお城だったり、時に海だったりね」


「欲しいものが手に入る人生だったら、未練なんかないんじゃないか? 」

 少年は首を小さく横に振った。


「お兄さんにはわからないかもしれないけど、『欲しければ手に入る』決していいことじゃない。ある上限を超えると喜びもなくなり、手に入れたものは価値がなくなっちゃうんだ。だから僕はすぐに毎日が退屈になった」


「へぇ……裕福な奴には裕福なりの悩みがあるんだな」


「そう言ってもらえるなんて初めてだよ」

 皮肉を少々混ぜたつもりだったが、バックミラーに映る少年は存外、笑顔だった。


「後悔なんてないと思ったのに……今日のせいで、少しこの世界に未練が出来ちゃったよ」

 彼の瞳には少年の笑った横顔が儚げに映る。頬に涙が通った後の筋が車内灯によって照らされ、光っていた。屈託のない、というのはきっとこういう顔のことなんだろうかと、彼は思った。


「———え」


「迎えが来たみたい。さよなら」


 そのとき彼は夜空に浮かんだ翼の生えた少年少女たちの幻影を見た。何かを察した彼は首をねじ切る勢いで後部座席の方へ振り返った。

 しかしそこに少年の姿はなく、少年さえも幻影だったのではないか、と錯覚してしまうぐらい不思議な夜を彼は越えた。


 この後、彼は就職試験に合格し、死者を天使のもとへ運ぶという奇異な役割を背負い、『送り屋』の一員として働くことになった。

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