Short Film
野凪 爽
第1話:床屋にて
新生活を迎えるために男は心機一転と近くの床屋へ向かう。
店に入ると先客で理容師が埋まっていた。しょうがないと本棚から漫画雑誌を取り出して男は長椅子に座る。
「こちらへどうぞ」
表紙をめくった途端に声をかけられ、男は慌てて本棚に雑誌をしまった。
「荷物はこちらに」
頬皺は目立つが、涼やかな瞳をしていて、落ち着いたトーンでしゃべる女性はこの理髪店の店長だ。
男は来ていた紺のジャケットと肩掛けのバックを店長に預け席につく。慣れた手つきで髪を濡らし、理容師は梳きばさみの音を耳元で軽快に奏でていく。ほどなくして席の向こうで来店を知らせるメロディが鳴った。
「今日も頼むね」
「はいはい」
男の髪を梳きながら理容師は慣れた様子で常連客をあしらう。もともと男は短髪のためすぐに散髪が終わり、理容師は男に眼鏡をかけさせる。
「全体的に短くして、軽めにしておいたんですが後ろとか耳周りとかどうですか?」
頭が毬栗になった男は満足そうに「ありがとうございます」と伝え、切ったばかりの髪を何度も撫でていた。
「シャンプー、顔剃りは?」
「お願いします」
「はい」
そう言って理容師は素早くヘアカットクロスを取り去った後、隣で先ほど入ってきた常連客の頭を洗っていた女性スタッフに交代を告げた。
理容師は常連客のカットへ向かう。女性スタッフは「はい」と短く返事をして男の後ろに立った。
「お子さん高校受験どうだったんですか?」
「いやぁーそれが難関っていわれた高校に受かっちゃってね。トンビがタカを生むってこのことだよ」
「そうですか。おめでとうございます」
理容師は常連客と取り留めのない話を交えながらそつなく業務をこなしていく。やがて梳きばさみが髪を梳いていく音が男の横で鳴り始める。
「娘は短大に今年から入学だし金がかかるばかりだよ」
「でもよかったですね」
「そうだね。俺なんか高校行ってないし、バカだから本当に驚いた」
「そうなんですか。意外です」
「昔は喧嘩ばかりしてたし、荒れたたからな」
「へぇ」
理容師が抑揚のない相槌を打ったのにもかかわらず、常連客は自分の武勇伝を語るのをやめなかった。
「喧嘩すのにもよぉ、俺にはひとつポリシーってのがあんだよ。なんだと思う?」
知らねーよそんなの。なんて男は心の中でつぶやきながら、隣りに耳を傾ける。かゆいところはないか、と訊かれ、少し遅れて男は、ないですと答える。
「なんですか?」
また抑揚のない相槌が返ってきた。
「それは、俺より小さな体の奴は殴らねぇってことと、女には絶対手出さないってことだ」
‘‘絶対‘‘にわざわざアクセントをつけて常連客は言いきった。
「お疲れさまでした」
理容師がドライヤーを終え、男が掛けていた椅子の背もたれがモーター音とともに上がる。改めて鏡に毬栗が映り、男はまた自分の髪を撫でた。
席を立ちレジに向かう途中、隣りの客の顔を覗くと目尻の垂れ下がった冴えない顔の中年が男の両目に映った。視線をずらすと客の体躯はほっそりとしていて貧相であった。てっきり筋骨隆々の男性を想像していた男は一瞬目を見張った。
「またくるよ」
理容師と女性スタッフが抑揚のない声で「あぁしたー」と頭を下げる。
「あの人より体の小さい奴といえば子供ぐらいだろうな」レジで会計を済ませながら男はぼんやりそう思った。
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