第6話:訪問者と乖離
アリアとシェイナは霧雨に濡れながら市場へと戻ってきた。
彼女達の体温は濡れた衣服に奪われ、走ってきたのに指先は赤くなり感覚が鈍くなっていた。
自宅は市場からまだ先にあるのでもう暫くこの寒さに耐えなければならない。
流石に疲れた2人が掌に息を吹きかけながら歩いていると、店先に出ていたラインが2人に気づいた。
「おう、アリアちゃんシェイナちゃんどこいってたんだい」
アリア達は店の屋根の下に入ったが雨粒は風に乗って2人の足を濡らし続けた。服についた雫を払いながらアリアが答える。
「畑がある方に行ってきたんだよ。そしたら降ってきちゃって」
「こんな天気で出掛けたら、そりゃあ降られるよな」
ラインは笑いながら「何か温かいものでも飲んでいくか」と誘ったが、2人はこれ以上雨脚が強まらない内に家へ帰ることにした。
そうして店を出て行こうとした時ラインが呼び留めた。
「そういえばさっき、2人を訪ねに来てた人達がいたけど。ありゃあ科学派の連中じゃないかな。家に行ってるかもしれないよ」
ラインの言葉にシェイナの表情が一瞬強張ったのをアリアは見逃さなかった。
だがすぐにシェイナはいつもの表情に戻って「じゃあ早く帰らないとね」と、ラインに知らせてくれたお礼を残して2人は帰路を急いだ。
雨水を吸いきれなくなった地面にはいくつも小さな水たまりが目立っている。
霧雨は次第に粒を大きくしていき、地面に当たったり草木に当たったりする様々な雨音が町を支配し始めていた。
家が見える程近くまで来るとぬかるんだ地面にボコボコとした轍がついていた。
ラインが言っていた尋ね人の乗ってきた車だろうか。それはレールのように彼女達の家まで途切れること無く伸びていた。
玄関前に1台の見慣れない軍用車が停まっている。
艶消しの施された深緑色の四角い車体は周囲を自然に囲まれた中で不気味な存在感を放っている。
アリア達が近づくと車の扉が開いて、女性1人と武器を携帯した3人の男達が降りてきた。
シェイナは立ち止まり、降りてきた女性の顔を射るように見つめる。
アリアには服装や武器から魔法派の人間ではないのは明らかであるのに彼らからは不思議と敵意は感じられなかった。
それは長い髪を後ろで束ねたリーダーとみられる女性が懐かしむような優しい微笑みで近づいてきたからかもしれない。
「こんにちは、お二人さん」
背筋を伸ばし悠然とした佇まいの女性は雨の中でも自信に満ちている。
髪の毛先から落ちる雫も彼女を惹き立てる装飾品のようだ。
シェイナは彼女の言葉を無視し素通りして家の玄関に鍵をさす。
彼女の後ろ姿は突然の訪問者達に対して露骨に嫌悪感を見せる。
一方アリアは軽く挨拶をして、家の中に入っていってしまったシェイナの後から「どうぞ」と女性達を家へ招き入れた。
家に入ったアリアはすぐ走ってタオルを持ってきた。髪を束ねた女性は笑顔でそれを手に取る。
「ありがとう。私はトリストラム。新科学開発研究所の武装協力団第3部隊隊長よ」
突然長い肩書きを説明され、アリアは口を半分ぽかんと開けた間抜けな顔になってしまったが、すぐに「アリアです」と名乗った。
アリアはその名前を初めて聞くはずなのに、トリストラムの容姿や雰囲気は以前から知っていたような既視感をアリアに持たせた。
トリストラムは家の中を見回し納得したように頷く。
するとトリストラムの背後に立っていた部下が彼女に耳打ちした。部下の言葉を聞いたトリストラムは思い出したというような顔になる。
「そうそう、話をしに来たんだ」トリストラムは首を伸ばしてアリアの後ろでソファに座ってるシェイナに声をかける。「シェイナ、あなたにね」
頭を拭いていたシェイナはトリストラムを一瞥しスクッと立ち上がる。
湿った髪の隙間から見える彼女の横顔はあまりにも静かで感情を押さえ込んでいるようにみえる。
シェイナが振り向きアリアに顔を向けた時には、その不気味な静けさは薄まりアリアがいつも見る彼女の表情に戻っていた。
「じゃあ、お姉ちゃんは雨で冷えちゃったしシャワー浴びてきたら」
自分をこの場から追い払うようなシェイナの提案にアリアが反論しようと口を開きかけた時、トリストラムが間髪入れず「そうね、風邪ひいたら辛いわ」と後押しした。
2人に追い込まれアリアは小さく頷いて風呂場へと向かうしかなかった。
「じゃあ2階の私の部屋に来て」
シェイナが淡々とした口調でトリストラムに言い階段へと歩きだす。
トリストラムは部下にリビングで待機しているように告げ、シェイナの後ろについて階段を上る。2人が階段を踏むたびにギイギイと床が軋んだ。
シェイナの部屋の前まで来ると彼女は濡れた服を着替えるためトリストラムに部屋の前で少し待っているように言った。
トリストラムはなんとなく奥に見える部屋を眺める。アリアと名札の掛かった部屋ともう一つ先に扉が見えた。
灯りの届かない薄闇の中にある扉は、トリストラムをじっと見つめているようだ。
すると突然シェイナの部屋の扉が開いた。シェイナは扉を開けるだけですぐに自分のベッドに腰掛ける。彼女の脱いだ服がタオルに包まれて部屋の隅に放られていた。
「殺風景ね」と部屋に入りながらトリストラムが呟く。「昔からシェイナは女の子女の子したの苦手だもんね」
トリストラムは遠慮なく机の下に納められていた椅子を引き出し足を組んで深く座った。
僅かに口を開き肺に大きく空気を入れ細く吐き出す。彼女は何もない部屋をじろじろ見回した。
痺れを切らしたシェイナがぶっきらぼうに尋ねる。
「裏切り者が何しに来たの」
氷のようなシェイナの声にトリストラムが彼女に顔を向ける。シェイナは今にもトリストラに斬りかかりそうな雰囲気で睨む。
「裏切り者って、酷いなあ」
トリストラムはあしらうように軽い口調で答える。
「私達を見捨てたくせに……」
シェイナは地面に視線を落とし、その言葉は責めるようでも怒りに満ちているようでもなかった。
トリストラムはおどけて肩をすくめる。
濃霧のような沈黙が部屋に充満した。
沈黙は家具の隙間に入り込み、窓や扉から今にも溢れ出そうだそうとする。
沈黙の霧で満たされたこの部屋は、水風船のように少しの刺激で簡単に弾け散りそうだった。
膨れ上がった沈黙を払うようにトリストラムが話し始める。
「今その話は置いといてさ、今日私が来たのは専らあんたのことなんだけど」
シェイナの視線が再びトリストラムに戻る。
「シェイナ最近私達のとこに勝手にお邪魔してたりする?」
トリストラムの表情は先程までのからかうものではなく、真剣な眼差しをしている。
二人の目線が互いに探り合うように交わる。
「私達のとこって?」
シェイナが落ち着いた声で聞き返す。
「私達の研究所」
「私はあなたにわざわざ会いに行ったりなんかしない」
「私に会わなくても、私達が持っている情報には興味があるんじゃないの」
「もしその情報を盗みに言ったところで私に何が出来るの」
「シェイナにできなくても他の人に情報を流すことで利益を生み出せるかもしれない」
「私はお姉ちゃんを守らないといけない。なのに自分から危険を呼び込むようなこと、すると思うの」
「私達科学側の人間が、あなた達魔法使い達を大量虐殺する兵器を開発しているとか、そういう噂を鵜呑みにしたら多少の危険を冒してでも真相を突き止めようとするんじゃない。将来的な危険を回避するために」
「そんな大仰な噂がエリケに伝わるまで広まってたら、もっと大きな動きが社会的に見られておかしくないはずでしょ。それこそ私が動くまでもないほどにさ」
「ここエリケに優秀な魔法使いがいるらしい、て噂は結構広まっているのよ。危険だからこそ確実にこなせる人を求めて、その噂を聞きつけた誰かが潜入依頼をふっかけてきてもおかしくないと思うけど」
「優秀なのはお姉ちゃんで私じゃない」
「彼女の面目を保つためにシェイナが奮闘する姿が私の目にはありありと浮かぶけど」
「それでも私にはお姉ちゃんと、この生活の安全を守る責任がある。私がいなくなればその責任を果たせなくなるのに、目の前にある火に飛び込むほどバカじゃない」
シェイナの抵抗を受けてトリストラムは小さくため息をつく。
言葉の応酬が止まり、トリストラムは脚を組み直して改めて訊く。
「じゃあ、シェイナは侵入していないの?」
「最初からそう言ってるつもりだけど」
シェイナはずっとトリストラムから視線を外さず、トリストラムも彼女から逸したりはしなかった。
再び部屋の時間が停まったような沈黙が姿を現す。
絶え間なく窓に打ち付ける冷たい雨が停滞した部屋にノイズを響かせた。
「コンコン」
扉をノックする音がノイズに割り込み、時間の動きを元に戻す。
トリストラムが振り返り「どうぞ」と返事をした。
蝶番が嫌味な音を立てトリストラムと一緒に来ていたセルテスが顔を覗かせる。
「隊長。雨脚が相当強まってきました。これ以上酷くなると帰りが厳しくなります」
「了解」
トリストラムは立ち上がり腕を突き上げ体を伸ばしながらシェイナに背を向ける。
扉の前まで来て思い出したようにトリストラムはシェイナに振り返り尋ねた。
「アリアはまだ戻ってきていないの?」
シェイナは顔を曇らせ視線を下げたが、すぐに意地悪な顔になって言った。
「あんたに会いたくないんじゃない」
その憎まれ口にトリストラムの表情がほころぶ。
そして軽く手を振って「それじゃあ、またね」と言って部屋を出ていこうとするトリストラムをセルテスが引き止めた。
「え、このままでいいんですか。連行とか」
トリストラムはセルテスの肩に手を置いて優しい表情で言う。
「彼女は来てないって。人違いだったみたいよ」
トリストラムはそれだけ告げて行ってしまった。
セルテスはシェイナを見てどうするべきか一瞬悩んだが、結局彼にはどうすることもできなかった。
リビングにはソファで紅茶をすするアリアと玄関の両側に近衛兵の如く立つ2人の男達がいた。
世間話をしたりすることもなく、時計の秒針が規則正しく進む音が妙にはっきりと聞こえる。
そこに階段を踏むひずんだ音が響いた。
アリアが階段のほうを見るとトリストラムとその後ろを男が一緒に降りてきた。
アリアが立ち上がるとトリストラムも気づいて手を挙げる。
「アリアちゃん、私達今日はもう帰るね。雨も強くなってきたみたいだし」
「あの!」玄関に向かって歩くトリストラムにアリアが慌てて声をかける。「私、以前にトリストラムさんとお会いしたことありますか?」
その疑問はアリアがトリストラムの姿を見たときから、彼女の心にささくれのように引っかかっていたものだった。
おぼろげに記憶があるわけでもないのに、トリストラムの姿や雰囲気はアリアの記憶の底にある何かを刺激して止まない。
しかしトリストラムはアリアと初めて会うかのように自己紹介をしたので、アリアの思い違いかもしれないと同時に思ってもいた。
「うーん、どうだろう。私はあなたと会ったことはないと思うけど」
親しみのある表情でトリストラムは答える。彼女は確かに現在のアリアに会うのは今回が初めてであった。
以前この近所に住んでいた頃はアリア達の家に入り浸るほど仲良くしていたが今ではめっきり疎遠になっている。
「そうですか。失礼しました。お気をつけて」
アリアは軽く頭を下げて見送った。
トリストラムも軽く返事をしてそのまま土砂降りの雨の中へ出て行った。
ぬかるんだ地面は靴にまとわりついて動きづらかった。
トリストラム達が出て行くと2階からシェイナが降りてきた。その顔には疲れの色が見える。
「何の用事だったの」
アリアが訊ねても「うーん」とシェイナは生返事を返す。
そのままシェイナはソファにぼふんと座り込み、頭を後ろにもたれさせながら目をつぶった。
「大丈夫?」
アリアが覗き込むとシェイナは「お腹減った」と目をつぶったまま呟く。
アリアはシェイナの額を軽く中指で弾くと、少し安心した表情でキッチンに向かった。
窓を打つ雨音に混じってアリアが調理する心地よい音が聞こえ始めると、シェイナはうっすら目を開けた。
「今頃何なのよ」
誰もいなくなったリビングで彼女のつぶやきは響いて聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます