第2話:異変と寂しさ
太陽が山裾から顔を覗かせ空を紺色、白色、橙色へと鮮やかに染め上げ始めた頃、元気の良い声が小さな家にい響いた。
「シェイナ。朝よ、起きてー!」
小さな呻き声を漏らしながらシェイナはベッドの上で猫のようにうごめいた。
窓から鋭く挿し込む朝日が顔を熱し彼女はようやく身体を起こす。
寝ぼけ眼でぼんやりと外を見上げると、真っ青な空に綿雲が漂っていた。その後ろから意地悪な太陽がその陽射しをシェイナに投げつける。
近所の街路樹が震え、数羽のスズメが賑やかに飛び去っていった。
目をこすりながらで鏡に映る自分を見ると、はっと目が覚めた。
シェイナは昨日の夜中に抜け出した格好そのままで寝てしまっていたのだ。
こんなにも汚れた格好で汗や鉄、火薬、潮の臭いをこびりつかせていたのでは「夜中に抜け出しました」と面と向かって白状しているのも同然である。
シェイナは慌ててタンスから着替えを引っ張り出して1階の風呂場へと駆け込んだ。
烏の行水で5分と経たない内にシャワーを浴びたシェイナは汚れた服をすぐに洗濯機に放り込み電源を入れる。
髪の毛をタオルで拭きながらリビングへと向かうと香ばしい匂いがシェイナの鼻をくすぐった。
キッチンを覗くとベーコンエッグとトーストの焼ける匂いがより強く香ってくる。
お腹が飢えた動物のような唸り声を上げた。
その音に気づいてコンロの前に立っていた姉のアリアが振りむいた。
「お風呂入ってきたの?最近よく朝風呂入るよね」
トースターから焼き立てのパンを取り出してアリアが何気なく言う。
なるべく平静を装いながらシェイナはトーストを受け取った。
「やっぱシャキッと目が覚めるからね。健康にも良さそうだし」
「ふーん」とアリアは相槌を打つだけでテキパキとベーコンエッグをお皿に盛っていく。
朝食を済ませると2人は食器の片付けをしてお店の方へと向かった。
アリアとシェイナはエリケの町唯一の魔法使いとして主に薬屋を営んでおり平日は休むことがない。
社会的には魔法派と科学派とに二分されるような状況であり、化学薬品の方が不可思議な魔法より信頼できるという人たちも少なくない。
そんな中であってもこのエリケでは魔法の価値の方を信頼している人が多い。
エリケがどちらかと言えば魔法派の町なのは、森が近く古くから自然と共生してきた歴史があり魔法が住民にとって特別なものではないからだ。
誰しもが魔法を使えるわけでなはいし、むしろ現在魔法使いは少ないがマイノリティとして差別が生まれることもなく受け入れられている。
そんな街だからこそ彼女たちは魔法使いとして振る舞い生計を立ていけた。
しかし魔法を使えるのはシェイナだけで、アリアには魔法を使える技術はなかった。
だからシェイナが薬の調合を担当しアリアは事務作業と受付を担当している。
日も高くなってきた頃、店のドアベルが来客を知らせた。
入ってきたのは杖をつき腰の曲がった老婆だった。
彼女はカウンターの奥の作業場からアリアが出てくるのを見ると顔をしわくちゃにして笑いしわがれ声で声をかけた。
「おはよう、アリアちゃん。いつものお願いできるかな」
「腰痛の痛み止めですね。少々お待ち下さい」
アリアは自在扉の上から作業場に向かってシェイナに薬を持ってくるよう叫ぶと老婆を椅子の方へ案内した。
彼女はリズと呼ばれ今年でエリケ最高齢の84歳になる。
この店にもアリア達が生まれる前から通っているほどの常連であり、アリア達にとって血の繋がりはないものの物凄く身近な存在で本当の祖母のようでさえあった。
「そういえばお野菜が高くなっているんだけど、アリアちゃん何か知っているかしら?」
唐突に話題を切り出すのはリズの癖で、脈絡のない会話は日常茶飯事だ。
それを聞いてアリアは市場のことを思い返す。
彼女達がこの前買い物に出かけた時はそれほど値上がりしているようには感じられなかった。
「そうなんですか。今週はまだ市場の方に買い物に行っていないので……天気悪いとかいう感じはしないですけどね」
アリアは窓から外の様子を見るが相変わらず心地よい天気だ。しかしリズは心配した様子で呟く。
「雨続きでも日照り続きでもないのよね。市場の皆も訳が分からないと頭抱えてて、大丈夫かしらね」
どんどんリズの顔が曇っていくのでアリアは慌てて答える。
「だ、大丈夫ですよ。自然もたまには人間にそっぽ向きたくなる時があるんじゃないんですか。すぐ機嫌直してくれますよ」
アリアは他の話題に話を移そうと考えを巡らせてみる。
するとシェイナが右手に薬の入った小瓶を持って作業場から出てきた。
ミディアム丈の髪を後ろで小さな尻尾のように結んで、男っぽい作業着に身を包んだ彼女は明るい声でリズとアリアに声をかける。
「おはよう、リズさん。腰の調子はいかがですか。天気が悪い日は特に痛むなんて言っていましたけど」
快活なシェイナの様子にリズの影を落としていた表情もも少し晴れ、またくしゃっとした笑顔を見せた。
「おはよう、シェイナちゃん。2人に貰ったお薬のお陰で今はもう痛くなくなったよ。こんな良いお薬どこにも売ってないだろうね。本当に2人さまさまだよ。ありがとう」
リズの言葉にシェイナは胸を張り堂々と答える。
「そりゃあ町1番の魔法使い姉妹だもの。一級品どころじゃない、超一級品のお薬なんだから。腰の痛みくらいイチコロイチコロだよ。腰とか体の痛みだけじゃないよ、精神的な病気だって回復できちゃう。詰まるところ森羅万象どんな病だって私達の前では敵じゃない。世界最高峰の……」
「シェイナ。大口はもういいから。仕事まだ全然片付いてないでしょ」
アリアがシェイナの話を遮って立ち上がり、シェイナの背中を押して作業場に押し込む。
シェイナは「まだもう少し話させてよ」と笑いながらブツブツ言っているがアリアは容赦なく背中を押す。アリアの強引さにシェイナも諦め渋々仕事に戻った。
彼女が仕事に戻ったのを確認するとアリアは振り返り、リズに困ったような笑みを向ける。
「ごめんなさい。シェイナ、褒められたらすぐ調子に乗っちゃうから」
リズも立ち上がりアリアの許へ歩き寄る。彼女は小さな鞄から財布を取り出しコインを数枚カウンターに乗せた。
「私は元気の無い子より元気のある子の方が好きよ」
「う~ん、ありすぎるのもね。はい、丁度頂きました」
リズは薬を受取り、鞄にしまうとゆっくりとした足取りで扉に向かう。
彼女はドアノブに手をかけるとアリアの方にいつもの笑顔を向けた。
「それじゃあ、また来るよ。お薬ありがとうね」
リズが去ると静けさが店の中に居座り始め、アリアも作業場で仕事に取り掛かった。
午後の日差しが夕暮れに近くなった頃、仕事のきりがついたので2人は市場へ買い物に出かけた。
市場は学校帰りの子供たちや露天商達の喧騒でごった返している。
アリア達の自宅は市場から少し離れていて土や川の水の匂いに満ちているが、この市場には香辛料や飲食店から漂う肉や魚の焼ける香ばしい匂いが満ちていた。
至る所から聞こえる様々な音も不快な雑音ではなく、人の温かさを感じさせる心地よい賑やかさであった。
2人は常連の青果店の前で並べられた野菜や果物の値札を見ていた。
リズの言っていたとおりそれらの値段は2倍とまではいかずとも相当上がっている。
1週間も経たずにこれほど値上がりしたのを彼女たちは見たことがなくリズの不安も十分理解できるものだった。
「ラインさん、なんでこんな値上がってるの?」
胡麻塩頭のガタイのいい男店主ラインは困った顔をして答える。
「いやぁそれが俺にもよぉ分からんのよ。根腐れだの枯れてただの。そんであまり採れなくなってるみたいで仕入れ値が上がっちまって上がっちまって。これでも採算度外視の値付けにはしてるんだけどね。止まってくんないとほんと困っちゃうよなあ」
「原因は分からないの?天候不順とか病気とか何かさ」
「天気だってこのとおりおかしなことないだろ。病気なんじゃないかって話だけど特定できないみたいで……原因が掴めないから余計に厄介でさ」
アリアとシェイナ2人は店内の品物を物色していくが何かに偏って値上がりが起こっているわけではなく全体的に値上がりしていた。
この店に来るまでにも他の店を覗いたが同様に値上がりしていた。所によっては2倍以上も値上がりしており、店主達の顔は誰もが渋かった。
一先ず2,3日分の食料を購入し帰途についたが、これ以上値段が上がり続けるようでは生活への支障が当然大きくなる。
原因がわからないという店主の言葉が心にもやをかけ、2人はあまり会話をせず浮かない表情でいた。
夕食を終えて話題を切り出したのはシェイナだった。
「あの高騰ってなんでだろうね」
食器を洗い終えたアリアが手を拭きながらシェイナの前に座る。
「根腐れだと湿害かな。でも最近大雨なんて降ってないし、こんな短時間でやられちゃうのものおかしな話」
「相当深刻な状況みたいだしね」
椅子の背にもたれかかり、テーブルに腕を伸ばしながらシェイナが言った。分からないなりに原因を考えようとしているようだ。
「他に影響がないみたいだし、全部ダメになっているわけじゃないってのもね。今日買ってきたのも普通に食べれたし」
アリアが天上を仰ぎながら今日聞いたことを整理するように呟く。
市場では「腐る」「枯れる」「野菜、果物以外の魚や肉に異常はない」とどの店主も口々に言うばかりで他に有益な情報は無かった。
魔法派のエリケに対する科学派の嫌がらせと考えてもあまりにも中途半端すぎる。
アリアは少し考えてみたがこれと言った解答は思いつかなかった。
「ラインさんは値上がりが止まらないと言っていたから多分、日毎に少しずつ上っているんだと思う。今週に入って、少なくとも前に買い出しに出かけた5日前から上がり続けているわけで。こんな短時間で急激な値上がりは自然的な現象だと考えづらいよね」
「科学派の実験台にされたのかもしれないよ」とシェイナは提案してみる。
「魔法派だからって町1つを標的とした実験は現実的に考えて難しいんじゃないかな。それにそんな大きな実験にしてはいまいちじゃない。あまりやる意味があるようには思えないよ。科学の人達はこの現象に関わっていないと思うんだけど」
「そっか……じゃあ残るのは」
「……超自然に介入することができる魔法使いか超自然生命体か」
2人の間に沈黙が横たわる。
時計の秒針が刻む小さな音がいつもより大きく聞こえた。
市場の方にある酒場で騒ぎ歌う声が風に乗ってここまで届いていてくる。
超自然とは科学的な数値などで解明できない諸々の現象を指し、いわゆる魔法に当たる。
そして超自然生命体は鬼や悪魔、場合によっては天使と呼ばれる存在である。
そんなものが現れたとして、はたして野菜や果実を腐らせたり枯らせたりということだけで済むとは考えられない。
もっと直接的に人間社会へ介入、もとい破壊しに来るというものであり、事実アリア達が生まれる前エリケに現れ大きな損害を出したという。
一方で魔法使いであれば目的が定かでないにしても、このような事態を起こす可能性は少しばかり高い。
魔法は偶然性の高い側面もあるため、この事態も魔法の余波による被害や実験の失敗など色々と考えられる。
エリケが魔法派の地区であるから魔法使いは科学派の地区よりも当然行動しやすく非難されることも少ない。それに最近は科学派が勢力を伸ばしているためエリケ付近の魔法使い人口は増加してさえいる。
魔法使いに優しいと言っても、こんな事態を起こしたのが仮に魔法使いだとしたら人々の見る目が変わるだろう。それにシェイナとアリアも同じ魔法使いとして負い目を感じてしまう。
「魔法使いの仕業だったら早く解決しないと。もし怪物だとしたら余計に」
独り言のように吐くシェイナの声は責任と覚悟を伴っていた。
テーブルに視線を落としているものの、その目は忠誠を誓う騎士のように強く静かであった。
なぜシェイナがそんな目をしているのかアリアには解らなかった。
シェイナはたまに違う顔を見せる。
特に寂しそうな表情になることが多い。
何か大切なものを失った寂しさというよりは大切なものを待ち続けている寂しさのようにみえた。
アリアにはシェイナの寂しさを埋められなかった。
彼女が何を待っているのかアリアには知り得なかった。
シェイナがなぜ話してくれないのか、なんで寂しさを隠しながら笑い続けているのかアリアは解りたかった。
唯一の姉として、家族としてシェイナの支えになりたかった。
だから彼女が話してくれるのをアリアは待っていた。
シェイナに寄り添うことしかできないから。
夜の暗闇が濃くなってきた頃、2人はそれぞれ部屋へ戻った。
シェイナが部屋へ入ると冷たい空気が彼女の頬を撫でた。
月明かりがベッドを照らし、机やタンスを浮かび上がらせる。
女の子じみた可愛いものはなく、簡素な空間は彼女の心を投影したようだった。
しかしシェイナはこのひんやりした部屋がとても心地よかった。
それは彼女にとって信頼と希望の象徴であり、空白な心の隙間の原因である一通の手紙があるからでもあった。
覚えてしまうほど何度も読み返したそれは、シェイナの知る姉アリアを唯一感じられる手紙。
「愛する妹、シェイナへ
まずはごめんね。急にいなくなっちゃって。といってもこの人格を隔離封印するだけでもう一つの人格を用意してあるから本当にいなくなるわけじゃないけど。
この前未来視をしていて8年後の未来に何て言っていいのかわからないけど、真っ黒で巨大な何かが見えたの。今までそんなことなかったし、どれだけ正体を見ようと集中してもそれが何なのか解らなかった。
こんなこと言ってもシェイナには余計わからないよね。でもそれが良くないものなんじゃないかって思えて、なんとかしなきゃって考えた結果がこれなの。
魔法使いが短命のなのは流石にシェイナももう知っているでしょ。
魔力量にもよるけど平均寿命は25歳くらい。私は魔力量が多いからもっと短くなるだろうし、そうしたら8年後の23歳まで生きられるかどうか。
それで魔法知識と魔力を持つ状態で生命活動をするから負荷がかかって短命なら、その元凶を取り除けばいいんじゃないかなって。でも本当に無くしたらその日まで生きる意味がなくなっちゃう。
だから今の私の人格と一緒に魔法知識と魔力を封印することにしてみたの。
8年後に解かれるようにしたけど封印したら今の私からはもうどうすることもできない。
正直前例が見つからなかったからこれで生きて戻れるか確証はないけど、それでも何もしないで待っていたくなかったんだ。
無謀だって怒られそうだね。人格を作るなんてことも初めてやるから変な性格になったらごめんね。なんか謝ってばかりだ。
ただ、必ず戻るから待っていてほしいの。周りの人達の力も借りながら一緒に生活していて。
シェイナはすぐ首を突っ込んで無茶しちゃうから、何が起きても私の帰りをちゃんと待っていて。
約束だよ。私の帰る場所が無くなってた、なんてことになったら怒るからね。
最後に、私はシェイナが大好きだよ。だから大変な思いをさせたくないけど将来シェイナの身に危険が起こる可能性があるなら知らんぷりできない。ちゃんと戻るから待っていて。
ごめんね。」
事情を説明してひたすら謝るだけの小さな手紙は、それでもシェイナにとっての宝物であった。
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