第79話 涙
玄関の収納にいつも置いてあった合いカギだ。僕も普段使わないからすっかり忘れていた――というはずもなく。
もちろんきちんと覚えている。
大好きな秋田さんに……、まだ告白すらしていないけれど、彼女みたいな関係になれたような気がして僕は嬉しかったんだ。
確かに。僕が玄関まで迎えに行くのが辛いからと渡したカギだ。
風邪も治って元気になったし、本来の目的は果たされたわけだから、返却されてもおかしくはない。
――だけど。
僕はそのまま秋田さんに持っていて欲しいと思っている。
だって……、僕は秋田さんが好きだから。
ああ……、もしかしてこんな考えの僕のことが嫌なのかな。彼氏面するなって……。
僕一人だけで舞い上がってただけなのかな……。
だから迷惑かもしれないけれど持っていて欲しいって思ったんだけれど……、ははっ、そうか。こんな僕は迷惑だから返却しようとしてるのかな……。
気づきたくもなかった可能性に気が付いてしまった僕は、泣きそうな表情をしながらカギを差し出す秋田さんへとのろのろと手を伸ばす。
ただカギを返却されるというだけなのに、とても胸が苦しい。
僕の思い込みだけかもしれないのに。
あぁ……、なんだかもう、思考がまとまらない。
えーっと、僕は何のためにここに来たんだったっけ?
そうだ、秋田さんを元気付けるためだ。確かにちょっと元気がないように思ったけれど、なんで今こんなことになってるんだろう。
そう……、カギを返されているという事実に僕はショックを受けて……。
ってダメだ。こんなんじゃだめだ。僕はなんのためにここに来たんだ。
元気がない秋田さんを元気づけたかったんじゃないのか? なのになんで僕までこんなことで落ち込んでるんだ。
役目が終わったから返されただけで、きっと迷惑だからとかじゃないはずだ。
あ……。
混乱した思考から本来の目的を思い出したあたりで、僕の差し出した手に秋田さんがカギを置いていた。
「じゃあ……、またね。……あとでチョコカップケーキもらうね……」
別れの言葉と共に、僕の手から秋田さんの手がゆっくりと離されていく。
その様子をスローモーションのように感じながら眺めていると、僕の中で嫌な予感がどんどんと膨らんでいく。
まずい。このままだとまずい。よくわからないけれど、なぜかそんな予感がした。
今ここで離れてしまったら、なんとなくだけど、秋田さんが手の届かないところに行ってしまいそうで……。
「――待って!」
だから僕は咄嗟に秋田さんを呼び止めていた。
玄関を閉めようと伸ばされた手を止めて、僕に顔を向ける秋田さん。
瞳は潤んでいて、その表情はとても寂しそうだ。どうにも隠しきれていないような気がする。
「……どうしたの?」
少し震える声で尋ねて来るけれど、正直僕は何を言おうとしたのかまったく考えていなかった。
ただただ、僕の前から家の中へと去って行こうとする秋田さんを止めたかっただけだ。
「……あの、……えっと」
こういう時はなんて言えばいいんだろう。……元気出して? ……いやだめだ。理由を知らないまま無責任なことは言えない。
僕は……、秋田さんには笑っていて欲しいんだ。ただそれだけなんだ。
もちろん、自分が悲しそうにしている秋田さんを見たくないからだけれど、無理に笑って欲しいわけじゃない。
「僕は……その……」
大好きな秋田さんには笑っていて欲しい。そのためにはどうすればいいんだろう……。
元気がない理由があるのなら、僕に教えて欲しい。
実家に帰った時に何かあったのかな? とても悲しい事でもあったのかな?
それは僕に教えられないことなのかな?
秋田さんには悲しい思いはしてほしくない。だから僕はそれをなんとかしてあげたいんだ。
最悪、なんとかしてあげられなくても、その思いを共有したい。
「……うん」
秋田さんが僕の言葉を待ってくれている。
意を決すると、僕は秋田さんに思いを告げた。
「僕は……、秋田さんのことが……、好きです」
とうとう言ってしまった。
告白しようと決めたのはいつだったっけ……。
まさかこんな、雰囲気も何もない秋田さんの家の玄関になるとは思ってもいなかったけれど。
でもそれは重要なことじゃない。
「――えっ?」
僕の言葉を聞いた秋田さんが一言発したかと思うと、そのまま固まってしまう。
「だから、僕は……、元気がないって聞いて……、秋田さんが心配なんです……」
固まったままではあるけれど、目だけはだんだんと大きくなってきていて驚いているみたい。
そこに僕はさらに言葉を重ねる。
ただ、興味本位で元気がない理由を聞きたいんじゃないってことをきちんと伝えたかったんだ。
「だから……、何があったのか教えてくれませんか」
最後まで言い切った後、タイミングを見計らったかのように、秋田さんの瞳からは涙が零れ落ちた。
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