第75話 黒塚家
最後にリビングへと入ると、秋田さんがちょうど冷蔵庫からお茶を出してコップへと注いでいるところだった。
それが目に入ったとたんに慌てて僕もキッチンへと向かう。
「す、すみません秋田さん。……ありがとうございます」
「おいおい誠一郎、何お客さんにやらしてんだー?」
リビングの隅に荷物を置いていた父さんが、こちらを睨みつけながら荷解きをするという器用なことをやっている。
「あ、いいんですよ。黒塚くん病み上がりなんだからむしろ大人しくしててください」
「あら、そうなの? 誠ちゃん。……大丈夫?」
「むっ、そうだったのか?」
「もうほぼ治ったから大丈夫だよ!」
「何言ってるんですか。昨日は何もできなくて一日中ダウンしてたくせに」
うっ、それを言われると辛い。まったくもってその通りなので何も言い返せない。
「あらあら、ホントありがとうね、すずちゃん」
そんな僕を見つめていた母さんがスッと目を細めて笑うと、秋田さんにお礼を言っている。
「……そういう父さんこそ、なんで今日帰ってきたのさ。……明日って言ってたよね?」
話を変えるべく、僕は本当に聞きたかったことを口にする。
父さんと母さんがテーブルについてお茶を啜っている。両親の二人で椅子が埋まっている。……秋田さんもいるし、僕の部屋から椅子を持ってきてもひとつ足りないな。
「ん? ああ、ビックリしただろ?」
してやったりの表情で父さんがニヤリと笑う。
「――はい?」
「あはははは!!」
というところで、疑問形の僕の表情を見ていた秋田さんが急に笑い出した。
その笑い声に、僕もようやく父さんの言った言葉がじんわりと染み込んでくる。
……やっぱり父さんは父さんだったよ!
「ああそうだ、忘れてた」
文句を言おうと思ったところで、父さんがおもむろに立ち上がってまた自分の荷物へと戻っていく。
鞄から紙袋を二つ取り出すと、リビングのカーペットに座ってお茶を飲んでいた秋田さんへとそのうちの一つを手渡した。
「えー、今更だけど、お隣の黒塚です。よろしく。はい、これお土産」
「あ……、えーっと、ありがとうございます?」
「何やってんの」
疑問形で受け取る秋田さんだったけれど、改めて挨拶をしだした父さんに突っ込みを入れる。
「ん? そりゃ隣に引っ越してきた挨拶だよ」
「半年前にやったけど」
「そりゃお前はやっただろうけどな」
ガハハと笑う父さんに、僕はもう何も言う気力がなくなった。
もう存分に挨拶すればいいと思う。
「というわけで、もう一軒に挨拶行ってくる。――行くぞ母さん」
「はいはい」
一言だけ告げると、父さんは母さんを連れて野花さんの家へと向かって出て行った。
「……はぁ」
僕は大きくため息をつくとソファへと座りなおす。
メールでは両隣に住人がいることは伝えていたけれど、帰ってきてすぐに行ってしまうとは。
相変わらず行動が早い。
「すみません、秋田さん。あんな両親で……、疲れるでしょう?」
「ううん。そんなことないよ。……楽しそうなご両親じゃない」
僕は苦笑いで秋田さんに告げたけれど、秋田さんは全然そんなことなさそうな笑顔だ。
うーん。まぁ本当に秋田さんが楽しいっていうんならいいけど……。
「秋田さん、そういえば明日実家に帰るんですよね?」
僕は両親が帰ってきてからずっと気になってたことを秋田さんに聞いていた。
いつまでも迷惑をかけるわけにはいかないし、何より明日実家に帰る用意とかしなくてもいいのか心配になってきていたのだ。
「うん。そうだよ」
「そうですか。いつまでもうちの両親に付き合う必要はないですし、実家に帰る準備とかあったら遠慮しないでいいですから」
両親がいない今なら秋田さんも変に気を遣う事もないだろう。
「あはは、ありがとう。でも大丈夫。適当に着替え用意するだけだし、出るのは明日の昼からだしね」
手を振って本当に何も気にしないでという雰囲気を伝えてくれる。
僕もここまで言われればもう何も言うことはない。
「……そうですか。わかりました」
僕が頷くのを見ると、秋田さんが立ち上がって伸びをする。
ずっとつけていたエプロンを外して、ダイニングテーブルの椅子の背もたれへと引っ掛ける。
「と言っても、もうすぐ夕飯の用意もしないといけないし、茜ちゃんのところから帰ってきたらわたしも帰るね」
「あ、はい。そうですね。……今日はありがとうございます」
キッチリと両親にも挨拶してから帰るのか……。
好き勝手な父さんだけど、秋田さんは煩わしく思ってない……のかな。自分の親ながらうっとおしいと思うこといっぱいあるんだけど。
「どういたしまして」
笑顔の秋田さんにドキリとしつつ、親の第一印象が悪くなかったことに安堵していると、どうやら父さんたちが帰ってきたようだ。
「ただいま」
「ただいま帰りましたよ」
「おかえり」
「おかえりなさい」
僕と秋田さんのお迎えに、父さんの顔がほころぶ。母さんはいつものニコニコ顔なので変化は見られないけれど。
「いいねえ。なんだか娘ができたみたいで」
僕は一人っ子の息子だからか、父さんがそんなことを呟いている。
家族ぐるみの近所づきあいみたいなものだろうか。
言われた秋田さんといえば、ちょっと顔を赤くしながら苦笑いだ。
「そうだ。すずちゃんはお寿司は大丈夫かしら?」
唐突に母さんがそんなことを秋田さんに確認してきた。
「えっ? 特には……、大丈夫ですけど……」
「そうか、それはよかった! もうすぐ晩ご飯だろう。よかったらうちでどうだい」
「えっ? いや、それは、さすがに悪いですよ」
父さんと母さんの言葉に、さすがに秋田さんも恐縮しきりだ。
「もしかしてもう用意してあったりする?」
母さんが優しく尋ねているけれど、どうやら用意はしていなかったようで秋田さんは首を横に振っている。
ずっと僕の家で掃除を手伝ってくれていたし、そんな暇はなかっただろう。
「気にせんでくれ。息子の看病をしてくれたって言うし、そのお礼だから」
「あ、はい。……じゃあお言葉に甘えて」
秋田さんも父さんの押しには勝てるはずもなく、黒塚家と一緒に夕飯にすることになるのだった。
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