第38話 撮影開始
戸惑って何が何だかわからないうちに撮影が始まってしまった。
もうそこからはあれよあれよという間だ。
セットを組み換え、撮影機材を移動させ、照明器具を調整し、野花さんの衣装の用意や片付けやら。
息をつく暇もなかったけれど、フラッシュを浴びて撮影をしている野花さんはとても綺麗だった。
時には大胆な衣装やポーズがあったけれど、そのたびに僕の心臓は高鳴っていく。
だというのに野花さんはとても堂々としていて、カッコいいと思った。モデルなんだし、それが当たり前なんだろうけれど。
それにしても……、この
これがメイクの力というやつだろうか。ホントにじっくりと見ても野花さんだとは気づかなかったし。
「一度このメイクのまま黒塚くんとマンションですれ違ったことがあるんだけど、気づかなかった?」
ということをいったん休憩に入ったときに野花さんに話してみると、意外な言葉が返ってきた。
「えっ!? ホントですか!」
「そうそう。黒塚くん慌てて走って行ったから、もしかして気づいてないのかなーとも思ったんだけどね」
うーん……、まったく記憶にないなぁ。いつだったんだろう。腕を組んで頭をひねってみるけれど思い出せない。
というか急いで家を飛び出して行くって今まであったかな……。
――あ。
「カレー作ってるときですね!」
そういえばすごく綺麗な人がいたという記憶が浮かんできた。
「そうそう。確かカレーをご馳走になる前だったかな?」
野花さんが思い出しながら相槌を打っている。
「あー、……あれはてっきり、秋田さんか野花さんの友人が訪ねてきたものだと思ってました」
苦笑しながら告げると野花さんも笑い出す。
「あはは。確かにそっちのほうが可能性がありそうね」
「はい。……メイクってすごいんだなって、今実感しているところです」
「それはメイクさんの腕がいいからね。私もさすがに今のメイクは自分では無理だもの」
「そうなんですね。さすがはプロ……なんでしょうかね」
「そうね。――ああ、そうだ」
話を遮って野花さんがこちらに向き直り、一呼吸置くと。
「モデルしてる時の私は、『菜緒』って呼んでくれると嬉しいわ」
とお願いされた。
そういえば――、他のスタッフさんは店長さんも含めてみんな『菜緒ちゃん』って呼んでいた。
野花さんいわく、テンションを上げて撮影に臨んでいるときに本名で呼ばれると、現実に引き戻される感じがしてテンションが落ちるそうな。
「そういうものなんですか」
「そういうものなのよ」
そういう事なら仕方がない。仕事中は『菜緒さん』と呼ぶことにしよう。
「わかりました。……菜緒さん」
違和感を覚えながらも練習がてらに言葉にしてみるけれど、なぜか菜緒さんの顔が渋面になる。
「……どうかしたんですか?」
「みんなと同じ呼び方にして欲しいな」
えっと……、つまり『菜緒ちゃん』と呼べと。
「これも仕事中のモチベーションに関わってくるの」
一応年上なので『さん』付けにしたんだけど、ダメらしい。
「じゃあ……、菜緒ちゃん」
僕が恥ずかしさを我慢して名前を呼ぶと、菜緒ちゃんの表情がとっても笑顔になった。
心からの笑顔なんだろう、嬉しさがにじみ出ているように感じられて、とてもかわいいです。
「よくできました」
とそこにカメラマンの
「おうお前ら、割と仲良さそうだな」
髭面の気のいいおっちゃんと言った風体で、ニッカリと笑みを浮かべている。
最初の顔合わせのときの僕たちの会話で、顔見知りということはわかったようだがそれが気になったのだろうか。
「実は同じマンションの同じ階に住んでるので、ご近所さんですね」
「はい、実は引っ越してきてまだ二か月です」
「ほー、なるほどねぇ。……通りで」
何か一人で納得したように頷いているが、なんのことだろう。
まぁ大人の込み入った事情ということにしておこう。
「はい! じゃあ休憩終わり! そろそろ続き始めるよ!」
話が途切れたところで監督――店長さんから声が上がる。
そうなのだ、なんと店長さんがこの場を取り仕切っていたのだ。ここではみんなから監督と呼ばれていて驚いた。
「黒塚くんはこれからちょっと違うことをやってもらうわ」
みんな持ち場に戻るけれど、監督が僕にそんなことを告げてくる。
「はい。なんでしょう?」
「衣装部屋Bに行って欲しいんだけれど」
ふむ。衣装部屋のBね。最初にいくつか部屋を説明されたけれど、奥にいくつかある部屋のひとつだ。
行って何をすればいいんだろうか。
「わかりました。そこで何をすればいいですか?」
「スタイリストの
「了解です」
僕は椅子から腰を上げて奥の部屋に向かうけれど、菜緒ちゃんも一緒に付いてきた。
「私も次の衣装に着替えるわ」
二人で倉庫奥の扉をくぐり、いくつかある部屋へと向かう。
「じゃあね」
菜緒ちゃんが手前にある衣装部屋Aと書かれた部屋に入って行く。
僕はその隣の部屋かな。
衣装部屋Bと書かれていることを確認してノックすると、「どうぞー」と声がかかった。
「失礼します」
扉を開けて部屋に入ると、六畳ほどの部屋に大きな鏡とパイプハンガーにいくつかかけられた衣装があった。
そこにスタイリストさんと言われていた女性が椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた。
「おや、アンタがそうかい」
「えっと、はい。監督に次はここに行けと」
僕の言葉を聞いたスタイリストさんが缶コーヒーを置いて立ち上がるとニヤリと笑い。
「じゃあさっそく、これに着替えてちょうだい」
と、パイプハンガーにかかっていた衣装をひとつ手渡してきた。
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