04:我が闘争 / Mein kampf.
「……では私に、どうしろと仰るのです?」
それから暫くの沈黙を経て、ターニャはようやっと重い口を開いた。ツァラトゥストラの言わんとする所までは分かれど、ならば自分に何が出来るかまでは分からない。そもそも眼前の脅威に首も手も回らないのが現状で、なら指導者にでもなってヘロデ大王よろしく、嬰児の間引きでも嬉々として行えとでも言うのだろうか?
「どうすべきかは、分からない。ただ私は、その事実を伝えに来たまでだ」
ツァラトゥストラもまた軽く溜息をつくと、ターニャから視線を逸し虚空を仰ぐ。ああまったく回答になっていないと、それに対しターニャは内心で毒づく。
「私はそもそもメッセンジャーだ。かのXにより期待されていたであろう役割は、神父にでもなって滾々と神の御業を説く事だろうとでも推し量るが」
ハハハと嗤うツァラトゥストラは、ここに来たのは私の趣味さと付け加える。
「趣味? それはまた随分と悪辣な。暗澹たる未来予想図だけを示され、対策が分からないままとは」
誠に遺憾とターニャは憤る。仮に予言者に貴女は明日死にますと言われた所で、それだけでは何も手の打ちようが無いのである。
「それはすまないと思っているさ。だが伝えない訳にもいくまい。私とて、如何に私とて、許せぬ事というものがある」
さも不快だとツァラトゥストラは肩をすくめ、続ける。
「私の思想を捻じ曲げ――、無論それは我が妹の不徳もあるにはあるが、あまつさえ戦争の愚に利用するなどとは、断じて許されぬ。許される訳がない」
ああ成る程とターニャは頷く。ニーチェの著作「力への意志」は、悲しいかなナチズムの黒い影がどうしてもちらついてしまう。それが仮に氏の妹、エリザベートの編纂に原因があったとしても、根本たるイメージの払拭には到底いたらないのが現状だ。
「だから終わるのだ。終わらざるを得ない。神は、恐らくはXは在るのだろう。遥か天上に、我らを見下ろす
ツァラトゥストラは笑う。これ以上ないほど快活に。月下の下きらめく彼の歯をぼうっと見つめながら、ターニャはこの不可思議な演説が終わるのをただ待つ他なかった。
「さあ行こうかお嬢さん。君の元が何であるかは最早問うまい。恐らくは信仰に忠実に生きし者、強き者よ。私の終幕を看取って頂こう」
* *
「信仰とはまた大仰なものですね。私は一介の無神論者ですが」
ゆっくりと飛翔するツァラトゥストラを追い、ターニャもまた空を飛ぶ。まったく時間外労働も甚だしいが、それはそれ、これはこれだ。ツァラトゥストラが死を選ぶというのであれば、せめてせいぜい、敵陣を可能な限り巻き込んでからにして頂きたい。
「無神論という、その時代に即した信仰さ。ナポレオンが築き上げし所有権に基づく近代理性の結晶。君はそれを恐ろしいまでに信奉している。いやだからこそ、今日の今日まで孤独にも戦い抜いてこれたのだろう」
なるほどとそこでターニャは得心する。基本的人権を守るべく策定された憲法の遵守。確かにそれは信仰だ。その間に横たわるものは、対象が神かコミーかの違いにすぎない。
「だが悲しきかな。この世界における力とは、すなわちXへの信奉に他ならないらしい」
そう付け加えたツァラトゥストラは、自らの胸を叩き、この力こそがそうだろうと自嘲する。
「まあそれはそうでしょうね。この九十五式もまた、Xへの忌まわしき祈りから生まれたものですから」
ターニャは冷厳に言い放つと、可能ならば使いたくはありませんがと演算宝珠を弄ってみせる。
「それがいわば、罰を受ける側としてこの世界にやってきた君と、メッセンジャーたる私の相違だろう。しかして逆に言うなれば、今や信仰の絶えた私の力は早晩――」
「無に帰す、或いは大幅に低下する見込みが強いということですか」
ツァラトゥストラの抱える問題を慮りつつ、ターニャが続ける。つまりメッセンジャーとしての役割を放棄しつつある彼の、この力は永続的なものでは無いという事。それでも一般水準の魔導師クラスで踏みとどまるなら軍への勧誘も吝かでは無いと一考を巡らすターニャではあるのだが、それを遮る様にツァラトゥストラは頷く。
「だろうな。下手をすれば、私という存在そのものが抹消されかねん」
「それは一大事ですね」
いやいや、兵器として役に立たぬまま消えられるのが一番厄介なのだがと内心で付け加えつつ、それを表情に出さぬ様ターニャは努める。
「だからその前に先手を打とうと思う。さて、優秀なるターニャ・デグレチャフ魔導中佐。私はどこを落とせばいい?」
そう言って振り向くツァラトゥストラの声に、待ってましたとばかりにターニャは食いつく。
「よもや自爆覚悟の突撃とは言わないでしょうね? せっかく受肉したその直後に」
一応は身を案じつつも、どうせ力が無くなるのなら特攻でもなんでもしてきてくれとターニャは祈る。
「そのよもやだよ。戦争はクソ食らえだ。だがライヒとその他、何れかを天秤にかけるのなら、私はやはり、もう一つの祖国を守りたい」
「ご覚悟が固いのであれば、私に止める手立てはありませんが」
さも沈痛な面持ちで、だが内心ではしてやったりとほくそ笑んでターニャは答える。さてどこを潰してもらおうか。このタイミングなら、そう、このタイミングなら――。
「まあせいぜい考えてくれたまえ。まったく、泥沼の戦争というものは梅毒に似ているな。一度侵されれば、万全な形では終わり得る筈も無い」
「ははは。それで大分なやまされたと聞いてはいますが」
と、時間稼ぎがてら談笑で返すターニャ。確かに生前、ニーチェは梅毒によって健康を蝕まれていたという。いやここで本人が口に出すのだから、恐らくは幾分かの事実は含んでいるのだろう。
「そうだな。だがもし壮健であったのなら、今のこの身体の様に、誰はばかる事なく強き者でいられたのなら、かの我が思想は生まれなかったかも知れない。ならば怪我の功名だよ。あくまでも結果的には、だがね」
しかして言祝ぐべきかな。昼間飲んだ上質なコーヒーのお陰か、はたまた必死に絞り出した智慧の末か、辛うじて回答を用意できたターニャは、ではと前置きし説明に入った。
「ゼーレヴェ……」
そうだ。そう言えば、あったのだ。第二次世界大戦におけるイギリス本土上陸作戦、通称、
「なんだ、それは?」
首を傾げるツァラトゥストラに、噛み砕いてターニャは説明する。なにせ史実では中止になった作戦の事だ、一朝一夕の予習程度では、取りこぼしてしまうのも無理からぬ話だろう。
「――アレが立案し、そして失敗した作戦か」
気に食わないが、上手く行かなかったのなら結構と彼は笑う。
「目標は南部の工業地帯を中心に、首都ロンディニウム」
「軽く言ってくれるが……まあいい。アンチクリストの
如何にチート級の魔力を以てしても、基地の殲滅とまでは畢竟いくまい。されどロンディニウム橋の一つでも落とし、時計台を壊し、庁舎を焼き、大聖堂を叩き潰せたのなら効果は甚大。一週間でも、二週間でも連中の足並みを遅らせられるのならば十分に結構だ。その間にこちらは――、ライヒはまた態勢を立て直し得るだろう。
「となれば。実に短い逢瀬だったが、さらば」
ガスマスクらしきを被ったツァラトゥストラは、最後に恐らくは微笑んで言った。
「――愛しのアリアドネよ」
すっと消える夜影。ツァラトゥストラを名乗る山上の賢者は、かくてロンディニウムへと飛び立って行く。空域に一人取り残されたターニャは悪辣な笑みを浮かべ、さりとて心からの尊崇を込めて闇へと敬礼を送る。自分にはそれはできないと。コミーですら今際の際に神に祈る中、それすらもしない貴方は、愚かだが美しいと。一言では表し得ない万感を、その小さな手のひらに込めて。
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