03:力への意志 / Wille zur macht.

「さて、本題と参りましょう、ツァラトゥストラ――。いや、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェとお呼びすべきでしょうか? 山上の賢者よ」


 その晩、ツァラトゥストラに指定された場所へ向かったターニャは、単刀直入に彼の名を呼ぶ。荒野に佇み星を見上げるその男は、一瞬ぴくりと肩を震わせると、知っていたのかと言わんばかりにこちらを振り向いた。


「と。お嬢さん。私の名をご存知だったか。この世界に私が居たのか、それとも貴女の世界に私が居たのか。それはさておき――、風体だけは改めるとしよう」


 俄に丁寧な口調に戻ったツァラトゥストラは、自らのガスマスクらしきを取り外し、天を仰いで深く息を吸う。果たして仮面の奥から現れ出たのは、アーリア人種かくあれかしという長身の男。どうやらターニャの知る浮腫んだ小男とは些か趣が異なるらしい。


「私の名を知っているという事は、外貌もご存知かな? ハハ、恥ずかしい事に、生前の私はこのような立派な見た目では無かった訳だが」

 

 自嘲気味に嗤うツァラトゥストラに、ターニャは無言で以て応じる。まあ大凡おおよそは肯定と思って貰っていいだろう。――とはいえまさか、面と向かってええそうですとは言い難い質問ではあるのだが。




「さて、与太話に興じている時間もあるまい。件の本題と行こうか」

 寸時煩悶としている所、どうやら前説に重きを置くタイプでは無いとターニャは内心で言祝ぎ、ツァラトゥストラの言葉に耳を傾ける。さながら彫刻の如き風貌は、ニーチェの憧憬せしギリシャの英雄をも思わせた。


「私の名はツァラトゥストラ。すなわちフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェその人。ここに至った理由は不明だが、動機だけは確かにある。それは私を呼び寄せた張本人、推定だが神と思しき何か――、によって言付けられた、一つの責務」


 そこまで言ったツァラトゥストラは「はあ」と大きく溜息をつき、次に大仰に肩をすくめる。


「――信仰を増やせ。彼の者は私にそう告げた。与えられし秘蹟で以てそれを信じよ、と」


 ああ存在Xか。痛くなる頭を抱えながらターニャは臍を噛む。まったく忌々しいインチキゲームマスターめ。事ここに至って他の死者まで舞台に引きずり出すとは。


「信仰、ですか?」

「ああ、信仰だ」


「では秘蹟とは。或いはその――?」

 ターニャが指差すのは、史実と異なるニーチェの外貌。おまけに彼は小兵の上に不健康の極みで、こうして眼前に佇むような偉丈夫では無かったと記憶している。


「然り。肉体的にもそうだが、この世界特有の――、何と言ったかな」

「――魔法」


「そう、魔法だ」

 思い出したといった風に手を叩くツァラトゥストラは、現状ではそれらのゆえに、神の奇跡とやらと信じねばならない立場にあると明かす。




「神、と仮定されし何かは、このもう一つの世界に、君の住まうもう一つのライヒに、信仰を齎したいと考えている」


 神、と断定していない所に親しさを感じたターニャは、ならばいっそ存在Xとでも呼べばよかろうと喉元まで言葉を出しかけ、慌てて飲み込む。神の居ない、或いは有り触れた日本に生まれし我が身と、唯一神の存在が絶対であった旧き欧州に生を受けし者との間には、恐らくは隔絶たる認識の齟齬があるだろう。


「ではXと呼びましょう。私は貴殿を、直截で盲目的な人間では無いと信じています。仮定であるとするならば、それはXで構わない筈」


 神という単語そのものに虫唾が走る思いでターニャは答える。ああと頷くツァラトゥストラもまた、神(仮)の名をXとする事に同意を示す。


「そうするとしようか。さてお嬢さん――、ええと名は」

「ターニャ・フォン・デグレチャフ魔導中佐、ターニャで結構です」


「ではターニャ君」

「はい」

 いかにも打ち解けた風のツァラトゥストラに警戒を崩さず、ターニャは答える。


「かくてXは願っている。信仰の復活と、そして不信心者の更生を」

「存じております」


「ああ、君も転生した手合だったと聞いている。そして更生が必要だとも」

「更生、ですか」

 内心で苦虫を噛み潰し、忌々しげにターニャは暗闇を睨む。きっと今、自分は恐ろしく醜悪な顔をしているに違いない。


「そしてその実験は終わりつつあるともXは言った。新たなる更生プログラムを、動かしうる状態に至ったと」

「?!」


 それはターニャにとっては寝耳に水だった。というより余りに身辺が切迫していた所為で、最近は存在Xの策謀についてまで思いを巡らす余力がなかったと評すのが正しい。唐突にこめかみを殴られた様な衝撃に慄き、ツァラトゥストラの――、引いては存在Xの真意を探るべくターニャは問う。


「更生プログラム? つまりは私一人では無いと」

「ああ。私もここに至る前、一通りの歴史は学ばされてきたつもりだ。私が死に、君が終わるまでの百年を」


 そこまで言い終えたツァラトゥストラは、何かを考え込む様に一度俯くと、もう一度空を見上げ歩き出した。


「君も知っている筈だ。このもう一つの世界には、嘗て居た世界を想起させる国家や指導者が数多いるという事実に」


「はい。――エルヴィン・ロンメル、シャルル・ド・ゴール、ヨシフ・スターリン、ウィンストン・チャーチル……おおよそ嘗ての世界で勇名を馳せた人物は、こちらにおいても枢要な立場にいるものと」


 なら話が早いとターニャは言祝ぐ。予習まで済ませてきてくれたのであれば、ある程度の共通認識を土台に議論が進むだろう。その先に待つ結論が、吉か凶かは定かならずとも。


「ではその中に、含まれていない名に思い当たらないかね?」

 そこが重要なのだとツァラトゥストラは腕を組み、促す様にターニャを見やる。


「含まれていない名?」

 そう言われあれこれと脳内の引き出しを探るターニャだが、ここ一年は形而上の事柄など考える余地も無かった。イフではなく今。眼前の今を打開しない事には先がないと躍起になっていたばかりだからだ。


「灯台下暗しとでも言うべきかね。忌まわしくも我がドイツで、唾棄すべきかな我が哲学を掲げ、浅ましくも史上未曾有の民族浄化エスニッククレンジングに手を染めた張本人」


「……!!」


 ここでターニャ・デグレチャフは、己の眼前にずっと前から立ちふさがっていた何かに気づく。余りに大きすぎて気づかなかったソレ。ライヒ=ドイツであるならば、必ずや現れ出るであろう彼。


「アドルフ・ヒトラー……!!!」

 衝撃と畏怖とはこの事か。ついでに付け加えるのならば、イルドアにはムッソリーニが居ない。何か、何か嫌な予感がする。


「……ソレが来るのだ」

「??」


 予感が予感であるうちにツァラトゥストラが語るおぞましい一言。あの国家理性とは相容れない悪魔が、ターニャの奉ずる平和主義とは無縁のアレが、死者の国より蘇って来るとでも言うのか?


「アドルフ・ヒトラーが、このもう一つのライヒにやってくるのだよ、ターニャ・フォン・デグレチャフ君」

  

 ああ、ラインだけでも、コミーだけでも、ライヒだけでも手一杯だと言うのに……存在Xは、これ以上の災厄をこの世界に齎そうと考えているのか? 青天の霹靂の如く現れでた内憂に頭を抱え、ターニャは内心で己に問うた。


 ――まったくなぜ私が、こんな目に遭わなければならないのか、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る