02:甘き知よ、来たれ / Komm susser wissenschaft.
「流石はネームド……錆銀の異名、伊達ではありませんな」
ターニャが司令部に戻るなり投げかけられるのは図らずも賞賛の嵐。東部へと戦力が引き抜かれ、練度の低い新兵とロートルだけで辛うじて戦線を支えている現状。なればその閉塞感に風穴を見出そうというのは成るほど道理であり、一騎当千の古強者が、忌々しい敵魔導中隊を単騎で殲滅させたとあらば、士気高揚もあらほましき事だろう。――最も賛辞を受ける側のターニャとしては、甚だ遺憾ではあったのだが。
(まったく勝利依存症のクランケばかりだ。ライヒはそこもかしこも。誰も彼も)
内心で苦虫を噛み潰し、しかして「はっ」と簡素な敬礼のみを返すターニャは、踵を返すと詰め所へと歩を進める。英雄に希望を見出す戦場は危うい。奇跡に縋る国家はもう末期だ。況や指導者が神風などと宣いだしたのなら、早急に棺桶の準備をし、坊主でも神父でもお呼びになるのが宜しかろう。だが悲しいかなライヒは、今やあの国家理性の塊だったライヒは、後戻りの効かないギャンブルに身を焦がし、冷静な判断を血肉と共に失っている。
(しかしてあの……ニーチェらしき、何か)
だがツァラトゥストラ。そう名乗るアンノウンと接触したターニャは、彼の所属を知るやいなや、状況の隠匿を試みた。なにせ
(恐ろしい魔力ではある。理論や理屈ではなく、単純に桁が違う。さしずめ馬力でエンジンに張り合うようなものだ)
ああ信仰。おぞましき言葉ではあるが、存在Xを褒め称える事で得られる膨大な膂力だけは認めざるを得ない。精神汚染と引き換えに発せられる人外の魔力。敵軍を一瞬でいなす文字通りの暴力は、戦線を切り開く一助足り得、これまでも幾度とターニャの窮地を救ってきた。されどあの、神の死を告げたアンチクリストたるニーチェが、よもや信仰の力によってこの世界に顕現するとは。彼自身が哲学という信仰を捨てたのか、或いは他に理由があるのか、少なくとも戦域から早々の帰還を果たさざるを得なかったターニャにとっては、それらの疑問を氷解させるだけの時間が不足していた。
(まあ……それらについては後日詰問するとしても、或いは使い方次第では、西側を膠着させる駒程度にはなるだろうか?)
さりとて重要なのは結果である。あれだけの戦力を保持する個人の力を借りれるのであれば、この窮地に咽ぶ友軍を救う程度の事は出来るかもしれない。実情は違えども、ここを嘗て跋扈したラインの悪魔の神話は、共和国の残党に骨身に染みて残っている筈だ。あとはそのパンドラの箱を開け、恐怖の味を思い出させてやるというのが筋だろう。
「総員、傾注」
しかして気がつけば詰め所の前。言葉を発し入室するターニャに、その場に居た二〇三魔導大隊の総員が直立し反射的な敬礼の姿勢をとる。
「そこまで固くならなくていい。楽にしろ」
なすべき事がなされているというのは素晴らしい。息を吐くように掃除をし、歩を進める様に整頓を済ませる。およそ必要な動作を癖としておけば、さらに枢要たる事柄に思考を割く余力が生まれる。与えられた時間が平等である以上、それらは適切に運用されなければならない。特にこう、切羽詰まった状況である、今なればこそ。
「はっ! 中佐。しかしまさか、単騎で中隊を屠っておいでとは」
驚き顔のヴァイス少佐は、なるほど常識人らしい懸念を口にする。いやはや、常識人でなくとも驚くか。そもがそも、こんな危険を伴う単独任務など、ターニャ自身とて本来ならば放り投げる職分だ。今回は例外、ちょっとした嘘でコーティングしたほろ苦いビターチョコとでも思って貰おう。
「相手が新兵連中だったのでな。ラインの悪魔の恐怖を、多少は思い出して貰おうとな」
だがこれで
「お疲れ様でした、中佐」
そう返すターニャに、横からすっと出されるのは芳しい香りのコーヒー。もちろん煎れてくれたのは副官のセレブリャーコフ中尉で、この些事に気が利く事といったら、きっと夫人にでもなればさぞや良妻と称えられようとターニャは内心で褒めちぎる。
「む。苦水ではないな? これは?」
ウーガ中佐からの差し入れは先般尽きたばかり。そうなると出処を訝しむ所ではあるのだが、これにセレブリャーコフ中尉は、破顔して答える。
「西部戦線司令部からの差し入れです。士気高揚への多大なる助力、心から謝意申し上げる、との事」
随分と濡れ手で粟じゃないか、とターニャは無意識にほくそ笑む。なにせこちらはろくに魔力の消費も無し。あの忌々しい存在Xに
「そうか。なら神ではなく、西部戦線司令部に幸いあれかし。もちろんボトルも貰っているんだろう? 全員に振る舞っておけ。東部で雑巾の様に扱われた手前だ。ハメを外しすぎない程度には、休め」
おおー! と聞こえる総員の歓声。こともなしと頷いたターニャは、後始末を副官二人に任せると自室へ戻る旨を告げる。
「今晩の哨戒任務も私が発とう。少し気になる事もあってな」
不味くなれば信号は出すからと付け加えるターニャに、ヴァイス・セレブリャーコフの両名は怪訝な表情を浮かべはしたが、直ぐに説諭が無理と悟ったのか
はっ」と敬礼し持ち場へと戻っていった。
「――ツァラトゥストラ。果たして我らに火を灯す、プロメテウス足り得るのか。或いは災厄を齎すパンドーラーそのものか」
ドアを閉め独りごちたターニャは頭を振る背後で、沸き立つ大隊員の狂騒が聞こえた。
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