01:来た、見た、言った / Kam sah sprach.
(私は西方に居た頃はフェアリーでしたし、南方ではサラマンダーでした。レルゲン大佐は私の化身ですし、ラインの悪魔と呼ばれた事もあります。元はサラリーマンだった事があるような気もしないではありません)
空域を華麗に舞いながら、確かこんな事を宣った狂人があったなとターニャ・デグレチャフは思い耽る。いやいやそんな事態で無い事は
――ああそうだ。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。ここでターニャは思い出した様に手を叩く。嘗ては中二病御用達の、それが今ではお茶の間にも広まった、誰もが知る在野の
而してまったく、
なぜならば。いやこれをなぜと言わねばならん事に苛立ちを覚えるが。ようやっと最悪の一歩手前で落とし所を付けようとした大団円で、まさか銃後から戦闘の続行を言付かるハメになるとは。これぞ寝耳に水、いやシルドベリアの氷水でもぶち撒けられたかの如き、心肺停止待ったなしの恐るべき暴挙。お陰様で直上の上司たるゼートゥーア閣下は東部へ左遷。これまで積み上げてきた必死のキャリアとて更地にされかねない窮地と来ている。これが我が身のみの
おまけに|左遷された閣下から与えられた命令も最悪の極み。平穏無事に成功への階段を上りたいターニャ・デグレチャフにとっては、看過し得ない
厄介だ。まったくもって厄介だ。名目上は東部戦線の安定化に伴う、西部戦線の教導隊として派遣されている身分を良い事に、哨戒の任務を嘯いてターニャは舞う。いやこればかりは、どう足掻いても迷わずにはいられまい。
孤児として転生し、唯一与えられた魔法の才知を活かすべく見出したのが軍人の道。それそのものは堅実で間違いないと確信はしている。しかしてこうも戦線で名を馳せ、ラインの悪魔だなどと敵軍から揶揄される下りと相成った今、そう易易とこの泥舟からは逃げ出し得ない。これが企業なら転職も出来たろう、或いは芸術家なら、文学者なら、哲学者なら、科学者なら亡命もできたろう。だが全てのイフは過ぎ去った過去の亡霊。そんな空想に現を抜かす様では、死者に支配された銃後の連中と同じ穴の狢、唾棄すべき弩級のアホという誹りすら免れ得ない。
しかしてこのままでは待ち受けるバッドエンドは自明も自明。なにせ敗戦国の矢面に立った軍人の末期など、悪くて絞首刑、良くて日陰者と相場が決まっている。だから、ならば、こうなった以上は勝つ事だけを考えなねば。とは言えまさか、国家理性の鬼神たる上司を戴き満悦としていた所、重役共がつじーん級の弩アホの群れだったとは、今更ながら笑えない冗談だ。
それでも笑いの無い状況は宜しく無いと無理に口角を押上げ、呪わしい演算宝珠に手を当ててターニャは
――だが、委ねた所で。
不意に発現した魔力反応に、ターニャは身を震わせる。
「ちっ……気を逸しすぎたか」
腹ただしげに呟き、ターニャは目視にて敵影を確認する。規模にして中隊。おおかた実習がてら威力偵察に回された、
だがここ数日で、ターニャはこれまでの西部の実情を楽観視する程度には評価を改めていた。戦果を聞くにつけ、大本営発表さながらの誇大広告を打たれていると訝しんでいた所ではあるが、実態は真逆。士官学校出たての
ゆえにターニャは、この浸透を殊更の脅威とは囚えず、帝国軍のお家芸たる斬首戦法でお出迎えしようと算盤を弾いていた。なにせここにネームドが居るとは、連中露程も思っていない。あの緩慢な陣形が、何よりそれを如実に語っている。急速に学習を進める非人道的なコミー共と違い、新兵の鴨撃ちに慣れたジョンブル共は、まだまだ格段に紳士的と言えるのだろう。ならばこちらも紳士的に、狐狩りでお応えせねば。ラインの悪夢を、もう一度呼び覚ましてやらなければ。
とは言うものの数の差は歴然。魔道士軽視の大戦当初でも、ましてやピクニック気分のダキアでも無い。忌まわしき戦争が実証し、ゆえに進化を続ける演算宝珠の日進月歩。幾ら相手が雑魚だろうと、喜色満面単騎で応じるのは自殺志願者の
――刹那。
辺り一帯が朱の如く煌めき、九十五式の最大解放すら上回る魔力が突如発現。詠唱の痕跡も無く敵影は消滅し、文字通り何事も無かったかの様に静謐に満ちた空が、西部戦線異状なしとでも評すべき蒼穹が視野に戻ってきた。――ただひとつ。遠く中央に残る黒点だけを別として。
「何が起きたのだ……魔力……爆発?」
しばし戸惑うターニャは、それでも脳回路を必死で回し、事態の解析を試みる。撃たれたのは敵。ならばライヒの新型兵器か。だがそうだとしても、ここまでのチート。都合の良いラノベでは無しに、果たして成立し得るものなのか。――いや、あのマッド。シューゲル技師ならやりかねん所業か。
すると揺らめいた黒点が、ゆっくりとこちらを向き……向いた? ファンタジーめいた黒い外套をなびかせながら、ターニャのほうに飛んで来るではないか。
「魔導士……いやアレは……」
ガスマスク……だろうか。骸骨とでも形容すべきグロテスクな何かを被り、黒い軍服の上にコートを羽織っている様に遠目には見える。敵軍の証も無く、友軍である証左も無い。せいぜいあるとすれば「敵を屠ってくれたがゆえに、味方で有り得る可能性がある」という憶測のみ。
「こちらはレルゲン戦闘団、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐である! 貴官の所属を問う!」
銃を構え、然るべく所定の作法にて詰問するターニャ。状況はどうあれ、紳士的である事がターニャの領分だ。不条理を以て条理とする存在Xの手前、これだけは譲れない。
だがそのアンノウンは、問いに答える素振りも無いまま接近を続ける。いや、何よりも
「な、何者だ……」
およそ空中戦の、それも
「突然の事ですまない、お嬢さん。私の名はツァラトゥストラ。――或いはディオニシオス・オ・アレオパギテス。さる老翁から伝言を言付かって、ここに参じた」
ああ何という要らぬ秘蹟。哲学者を小馬鹿にしたから、存在Xがマジモンのフィロゾーフを消しかけてきたとでも? ツァラトゥストラ、山上の賢者! ディオニシオス、偽りの聖者! 厄介にも最早、眼前のアンノウンの真名は割れたと言って差し支えない。クソッタレめ、ほんの僅か前の心の中の呟きすらも見透かされたかと嘆息をつき、斯くてターニャは、そしてターニャは、ニーチェを名乗る何者かと、ラインの空で邂逅するハメと相成ったのだ。
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