幼女戦記 - Also sprach Zarathustra -
糾縄カフク
00:神は死せり / Gott ist tot.
神は死んだ。私は確かにそう
無論その通りだ。此岸を棄て彼岸を奉じ、強き者を
惨めで有り続ける事を美徳とする思想に、快活さなどあろう筈も無い。ゆえにギリシアの、愚直にも実直な人間讃歌は鳴りを潜め、
だから私はそれらを否定し、この生ける
男はそう内心で呟き、次に聞こえる様にため息をついた。
理由は分かりきっている。全く一切の事情が飲み込めない、ただそのゆえの嘆息だ。
先刻から自分を取り巻く真っ白な世界は音一つがせず、こうして意識だけが
男は、或いは
なればココは彼岸なのか。あれ程までに否定し、あり得ないと断じた
そうして男が再び問いを投げかけた時、まるでそれを見計らったかの様に低い声が辺りに響いた。
「ようこそ。我が死刑を宣告せし、山上の賢者よ。――いや、ツァラトゥストラとでも呼ぶべきかな」
「貴方は何者でしょうか? そして私は、なぜ
そもそも信心が欠けていた訳では無い。何より父そのものが牧師であったし、幼少期の手記を
「ゴホン。いや何も、御主の不信心を
老翁はおもむろに咳き込むと、こともあろうか男の脳内に映像を映し出す。――最も身体自体が存在し無いこの空間で、脳という既存の概念が通じるかは疑わしいものだったが。
「なんでしょう、これは」
流れてきたのは、ヴァーグナーの
「……リヒャルト・ヴァーグナー」
ぼそりと呟いた男の声に、老翁は「そうだ」と返す。
「
白ひげを弄る老翁を前に、そういえば自分も、
「成る程。では背後の軍隊は何者でしょうか? 察するに我がドイツ陸軍かと推し量りますが」
男自身、一度は兵役を経てきた身だ。しかし彼らの
「ふむ。口の聞き方も心得ておる。
一人頷く老翁の、言葉の真意が分からぬまま男は答えを待つ。或いは自分の他にも、こうして面を合わせている誰かが居るのかも知れない。
「――おお、話を戻さねばな。人の世の時間はとかく短いものゆえに」
もう一度こちらを向く老翁が、手を叩き「さて」と続ける。
「御主の察する通り、この軍勢はドイツのものだ。御主が
老翁の最後の言葉にびくりと反応した男は「今、なんと」と言葉を返す。
「――力への意志。御主の思想を
自身も良く聞き知った身内の名に、男は「……フェルスター・ニーチェ」と続けた。
「エリーザベト・フェルスター・ニーチェ、我が愚昧に……何が」
幼少期は仲睦まじかった実妹ではあるが、
「御主が孤独のゆえ人としての理性を失いつつあった間、彼の女は御主の元に戻ってきた。――喜べと言うべきかな。御主の思想は、御主が死に至るその間際にこそ、欧州で広く評価されつつあったのだ」
些かに眉間にシワを寄せた老翁は「――忌々しくも神の死を謳い、
「馬鹿な。私は確かに神と向き合い、あの堕落した時代に宣戦を布告しましたが――、戦争の賛美などは有り得ない。私はあのライプツィヒで、勝利に湧く国民の
そう否定する男は、
「分かっておる。ゆえに御主を呼んだ。――簡潔に言おう。御主の思想を掲げたドイツ
それは男の知らない事実だった。通俗を拒み続けた男の思想が、よもや戦争と言う究極の
* *
「して老翁……いや、神、でしょうか。私に一体、何をせよと」
半刻か数刻か、或いは一ヶ月か一昼夜か。時間の概念すら消失した空間の中で、男はついに問いを発する。男が死してのち数世紀の情報は、老翁の口と、それから脳内に齎される映像によって知り終えていた。
「話がスムーズで実によろしい。ヨブ記のヨブ然り、疑いもせず浅はかに信ずる愚者よりは、疑ってかかる賢者により一層の信心があるという訳だ」
老翁はまた一人で頷いて見せると「一つ、我が信仰を増やして欲しい」とだけ告げた。
「信仰……ですか」
「先ずは御主に奇跡を与える。神の存在を証す大いなる奇跡を。なれば汝は、汝の為すべき事を為せ。――神の死したる世界に、今一度信仰の息吹を芽吹かせる為に」
老翁の手が
「それは――、どういう」
男の言葉が掻き消えるのと同時に、空間にはまた静寂が舞い戻った。
男の名はニーチェ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。――或いはディオニシオス・オ・アレオパギテス。
斯くて山上の賢者ツァラトゥストラは、もう一つの
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