幼女戦記 - Also sprach Zarathustra - 

糾縄カフク

00:神は死せり / Gott ist tot.

 神は死んだ。私は確かにそうのたまった。

 無論その通りだ。此岸を棄て彼岸を奉じ、強き者をおとしめ、弱き者をたてまつる。――だがそれらはさしずめ、手の届かない葡萄ぶどうを実は不味いのだと触れて回る、敗者の怨嗟ルサンチマンに過ぎない。


 惨めで有り続ける事を美徳とする思想に、快活さなどあろう筈も無い。ゆえにギリシアの、愚直にも実直な人間讃歌は鳴りを潜め、ローマ簒奪サッコ・ディ・ローマを皮切りとした暗黒の中世が、黒い森シュヴァルツヴァルトの如く連綿と人心を支配し続けてきたのである。


 だから私はそれらを否定し、この生ける渡世とせいにこそ歓喜の歌を響かせようとこいねがった。美しき者をあるがままに称え、強き者をそのままに抱き締める。神の名の下に為された善悪のコペルニクス的転回を、今一度ヒトの手によって巻き戻す。――より悦ばしく、より朗らかに、人間たらんと欲するゆえに。だがその筈だった・・・・・・のに。




 男はそう内心で呟き、次に聞こえる様にため息をついた。

 理由は分かりきっている。全く一切の事情が飲み込めない、ただそのゆえの嘆息だ。


 先刻から自分を取り巻く真っ白な世界は音一つがせず、こうして意識だけが瞭然りょうぜんと問いを繰り返す。生前の病魔が絶え間なくもたらす苦痛は微塵みじんも無く、かくあれかしと願い続けた無病の息災そくさいが、明瞭めいりょうたる思考を脳裏に描いてくれる。


 男は、或いは超人ユーベルメンシェにでもなれたのかと一考を巡らす。

 いないな、三度いなと。例え如何なる人生であろうとも、嬉々ききとして受け入れ繰り返そうと、男はかつて誓った筈だ。しかし枢要すうようたる身体の感覚が無い以上、未だヒトとしての再生は成っていないも同義であり――、その事実が男の思惟しいに一層の混乱を招いていた。


 なればココは彼岸なのか。あれ程までに否定し、あり得ないと断じた幽世かくりよか。なれば私は裁かれるのか。神を否定せし不信心者アンチクリストとして。――ヨブ記のヨブの如く、正面から真摯に神と向かい合ったこの私が。


 そうして男が再び問いを投げかけた時、まるでそれを見計らったかの様に低い声が辺りに響いた。




「ようこそ。我が死刑を宣告せし、山上の賢者よ。――いや、ツァラトゥストラとでも呼ぶべきかな」


 にわかに姿を現したのは、紛うこと無き白髪の老翁ろうおう。自らに死を宣告したと宣うからには、恐らくは真に神そのものかも知れない。混濁こんだくする思考を辛うじて一本の糸に纏め上げ、男はおののきつつも言葉を返す。


「貴方は何者でしょうか? そして私は、なぜ此処ここに?」

 

 そもそも信心が欠けていた訳では無い。何より父そのものが牧師であったし、幼少期の手記をかえりみても、殊勝しゅしょうなる神への祈りは日々欠かさなかった。田舎を離れ神学校に籍を置き、そうして初めて、神の死の結論に辿り着いたに過ぎないのだ。


「ゴホン。いや何も、御主の不信心をとがめる為に呼び出した訳では無いのだよ。まあこれを見てくれ給え」


 老翁はおもむろに咳き込むと、こともあろうか男の脳内に映像を映し出す。――最も身体自体が存在し無いこの空間で、脳という既存の概念が通じるかは疑わしいものだったが。


「なんでしょう、これは」

 流れてきたのは、ヴァーグナーの楽曲ワルキューレを背に行進する数多の軍勢。――ああ、敬愛せし尊父そんぷの曲。そして決別せし友の曲。記憶を巡る懐かしくも苦々しい思い出が、まるで昨日の出来事の様にまざまざと蘇る。


「……リヒャルト・ヴァーグナー」

 ぼそりと呟いた男の声に、老翁は「そうだ」と返す。


如何いかにもだ。御主が心酔し、しかしてその通俗ゆえにたもとを別った時代の偉人」

 白ひげを弄る老翁を前に、そういえば自分も、かつてはカイゼル髭を生やしていたなと、男はふと思い出す。


「成る程。では背後の軍隊は何者でしょうか? 察するに我がドイツ陸軍かと推し量りますが」

 男自身、一度は兵役を経てきた身だ。しかし彼らのまとう制服は見慣れの無いもので、敬礼の作法も古代ローマのそれである。同一なのか、似通った何かなのか。男には判別が付かなかった。


「ふむ。口の聞き方も心得ておる。あの・・不信心者アンチクリストとは偉い違いだ」

 一人頷く老翁の、言葉の真意が分からぬまま男は答えを待つ。或いは自分の他にも、こうして面を合わせている誰かが居るのかも知れない。


「――おお、話を戻さねばな。人の世の時間はとかく短いものゆえに」

 もう一度こちらを向く老翁が、手を叩き「さて」と続ける。


「御主の察する通り、この軍勢はドイツのものだ。御主がかつて愛したヴァーグナーを奏で、そして御主の思想を掲げた、な」

 老翁の最後の言葉にびくりと反応した男は「今、なんと」と言葉を返す。


「――力への意志。御主の思想を編纂へんさんせし者があったのだよ。名は知っておろう。エリーザベト」

 自身も良く聞き知った身内の名に、男は「……フェルスター・ニーチェ」と続けた。


「エリーザベト・フェルスター・ニーチェ、我が愚昧に……何が」

 幼少期は仲睦まじかった実妹ではあるが、狂信的な民族主義者アンティセミティストとの婚約を果してからは意図的に遠ざけていた身内が、なぜ自身の思想と関わっているのか。男にはそれが分からなかった。――オーヴァーベックは、ガストは、我が昔年の友人たちは何処に消えたのか。


「御主が孤独のゆえ人としての理性を失いつつあった間、彼の女は御主の元に戻ってきた。――喜べと言うべきかな。御主の思想は、御主が死に至るその間際にこそ、欧州で広く評価されつつあったのだ」


 些かに眉間にシワを寄せた老翁は「――忌々しくも神の死を謳い、純血主義アーリアあおる思想としてな」と付け加える。


「馬鹿な。私は確かに神と向き合い、あの堕落した時代に宣戦を布告しましたが――、戦争の賛美などは有り得ない。私はあのライプツィヒで、勝利に湧く国民の喧騒けんそうに、ただでさえ唾を吐いた人間ですぞ」


 そう否定する男は、かつて自身が目の当たりにした国民の歓呼を、苦々しく思い出していた。偉大なるドイツの復権に一度は酔いしれた男ではあったが、現実は唾棄すべく増長と堕落を、無辜なる市井しせいもたらしただけであった。――それはさながら、ナポレオンに英雄を見たベートーヴェンが、彼の戴冠たいかんで以てエロイカを破り捨てた、その失望に近しかった。 


「分かっておる。ゆえに御主を呼んだ。――簡潔に言おう。御主の思想を掲げたドイツ第三帝国ドリテス・ライヒは、周辺諸国に闘争を挑み、そしてついえ歴史に消えた、と」


 それは男の知らない事実だった。通俗を拒み続けた男の思想が、よもや戦争と言う究極の衆愚しゅうぐによって利用されるとは。老翁の口から語られる言葉のすべからくに、男は驚きを返す他なかった。




*          *

 

 


「して老翁……いや、神、でしょうか。私に一体、何をせよと」

 半刻か数刻か、或いは一ヶ月か一昼夜か。時間の概念すら消失した空間の中で、男はついに問いを発する。男が死してのち数世紀の情報は、老翁の口と、それから脳内に齎される映像によって知り終えていた。


「話がスムーズで実によろしい。ヨブ記のヨブ然り、疑いもせず浅はかに信ずる愚者よりは、疑ってかかる賢者により一層の信心があるという訳だ」

 

 老翁はまた一人で頷いて見せると「一つ、我が信仰を増やして欲しい」とだけ告げた。


「信仰……ですか」

 反芻はんすうする男に「そうだ、信仰を増やすのだ」と老翁は念を押す。


「先ずは御主に奇跡を与える。神の存在を証す大いなる奇跡を。なれば汝は、汝の為すべき事を為せ。――神の死したる世界に、今一度信仰の息吹を芽吹かせる為に」


 老翁の手がにわかに光り、そうして男の存在ごと包み込んでいく。


「それは――、どういう」


 男の言葉が掻き消えるのと同時に、空間にはまた静寂が舞い戻った。



 

 男の名はニーチェ。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。――或いはディオニシオス・オ・アレオパギテス。


 斯くて山上の賢者ツァラトゥストラは、もう一つの帝国ライヒに、血肉を賜与しよされ降り立った。智慧ちえを与える為に、恩寵おんちょうを示す為に、そして託宣たくせんを――、告げる為に。

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