06


 そして翌日。

 いつも通りに登校し、いつも通りに席に着き、いつも通りに授業を受ける。何の変哲もない、いつも通りの日常が過ぎていく。だが、俺の心境はいつも通りではない。俺の中には何かみなぎるものが……あって欲しかった。

 俺がいつもと違うのは間違いない。いつも以上に、不安が募っている。

 無理だよ。湊、お前の言っていたことは正しかったよ。俺に他愛もない話なんてことはできそうにない。一言で言うのならば、ガラじゃない。話すことが無いのに無理やりに話そうとすることほど滑稽なことはない。

 ……なるほど、こんな考え方をしているから俺は他愛もない話もできないわけか。

 そんなことを考えているためか、先ほどから授業の内容が全く入ってこない。いや、それも今に始まったものではない。俺がうじうじと考えている間に時間はあっという間にすぎて、今はもう四限目、目の前では国語の授業が行われている。

 高校に入って、国語というカテゴリは古典と現代文という二つの枠組みで、それぞれで時間割に分けて入るようになった。今はそのうちの古典の時間である。……と、分かるのはそれだけで、そのほかのことは聞いていなかったのでなんの話をしていたのかさっぱりだ。

 いったん考えを止めて周りの様子を見渡すことにする。何人かの生徒が机に突っ伏したり、あくびを浮かべたりしている。古典の授業が難しいのか、それともお昼前だからなのかは分からないが、みんな疲れ切っているように見える。

 俺は黒板に視線を向けると、黒板の右端には大きな文字で『徒然草』とチョークで書かれていた。

 徒然草か。やっぱり古典の最初となれば結構メジャーなところをべんきょうするものだ。まあ、それなら大丈夫か。

 幸いにも俺はこの内容は知っている。というのも、俺は勉強の中で国語は好きだ。唯一の得意な科目と言ってもいい。だから予習もするし、自分で調べたりもする。まあ、それ以外の科目は興味ないので、まったくもって良くはないのだが、それはそれだ。というわけで、この時間は考えごとに費やしても大丈夫だろう。

 そうして、俺が自分の世界に再び入ろうとすると、


「それでは予告していた小テストを今からします」


 古典担当の……女の先生はそう言い放った。

 周囲からは当然のように「え~」といった不満そうな声があがっている。それもそのはず、これまでは予告していた小テストは授業が始まってすぐに行われていたからだ。そんな様子を見た先生は、


「ないとは思うけど、もしかしたら授業の前に必死に覚えようとする人がいるかもしれないでしょ」

 それはもう嬉しそうに話している。まるで真実を知っていながら嘘を暴いているような。

 それを聞いた生徒たちは口をつぐんでしまった。その状況は図星であることを暗に示していた。

 なるほど、これが高校というところなのか。非常に恐ろしい。手ごわくなるのは勉強だけでなく、先生もということか。

 みんなの浮かない表情と対象に、先生はにこにことしながら小テストの紙を配っていく。俺の見当違いでなければ……楽しそうだ。

 やがて、前の席から小テストが回ってくると、俺はそれをゆっくりと眺めて机の上に置く。


「それでは始めてください」


 今回の小テストは動詞の活用についてだ。これは単語の暗記などとは違って、しっかりと理解する必要がある。テストの内容はやはり、授業で使った例とは違うものが出ていた。あの先生はなかなかに、意地が悪いようだ。しかし、これまた幸いにも分からない問題は特に無い。俺はスラスラとシャーペンを走らせていき、解答を埋め終わると、背もたれに背中を預けて一息つく。

 悪いが、こんなことに頭を使っている場合ではない。俺はどうやって話すかを考えなくてはいけないんだ。

 俺はシャーペンを置き、窓の外に視線を向ける。

 本音を漏らしてしまった以上はもう逃げることは出来ない。それにあいつらに気を使わせるのは嫌だと思ったのは本当のことだ。だから自分なりに何度も考えたが、何もなく俺から話しかけるのはやはり難易度が高い。何かきっかけでもあれば、会話に持っていけるかもしれないけど……


「はい、そこまで」


 考えがまとまる前に、テストの終わりが先生から告げられる。

 とりあえずはきっかけだ。きっかけさえあれば、話しかけやすくなる。例えば、消しゴムをわざと落として、拾ってもらう。……ダメだ、なんだこのラブコメのテンプレみたいな展開は。いや別にテンプレが悪いわけではないのだが。


「……と。……うと」


 他の手段、他の手段……ほかのしゅだん?ダメだダメだ、思考を放棄し始めてきてる。しっかりしろ、俺。


「……悠人、ちょっと悠人ってば」


 ほら、瑠璃のことを考えすぎて俺の名前を呼ぶ声まで聞こえてきた。

 すると、俺の視界に映っていた景色が突然揺れ動く。とはいえなんてことはない。誰かに肩を揺すられているのだ。

 何事かと振り向くと、


「あ、やっとこっち向いた」


 そこには俺の肩に手を置いてホッとしたような表情を浮かべている瑠璃がいた。


「……え、何事?」


 突然のことに俺はかなり戸惑っている。まず思わぬきっかけが舞い込んできたこと。そして、瑠璃から俺に話しかけてきたことだ。俺は避けられているんじゃなかったのか?


「ん」


 瑠璃は俺に手のひらを差し出してくる。


「……ん?」


 この手は何だろうか?何かを渡せってことなのだとしたら……金とか?いやそれは無いか。あとは……

 俺はこぶしを握って瑠璃の手のひらの上に乗せる。


「ちょっ、何してるの!」


 瑠璃は慌てた様子で手を引っ込める。


「何って、お手だけど」

「何でそんなことしてるのよ!」


 どうやら、というかやっぱりお手では無かったか。


「いいから早くテストをよこして」


 テスト……って、ああそうか。古典の小テストは隣の人と交換して、その人が丸付けを行うんだった。

 俺が答案用紙を渡すと瑠璃は自分のものを俺に渡してさっさと丸付けに移ってしまう。それを見て、俺も丸付けを始める。

 それにしても、我ながら何をやっているんだか。自分でもよくあんなことできたもんだと今更ながらに自覚する。とても会話に困っていた自分としては考えられないやり取りだ。

 どうやら、思わぬきっかけでいろいろなことを考える余裕が無かったのかもしれない。そうでなければあんなことは出来ない。あの時、無意識にやった行動はまるで昔のようなやり取りだった。


「……」


 俺たちはまだ、何も考えずに話していたあの時に、何気ないあの関係に戻れるのかもしれない。

 そんなことを考えながら、丸付けを終えた俺は瑠璃の点数をじっと見ていた。

 十問中、三問の正解……つまりは三十点。これはちょっとひどいな。まあ、瑠璃にも得意な教科もあれば苦手な教科もあるはずだ。

 俺は瑠璃の様子をうかがうと、ちょうど赤ペンを置いていた。どうやら瑠璃のほうも丸付けが終わったようだ。しかし、俺の答案用紙を両手で握ったまま動かない。返すそぶりを見せないので、俺はゆっくりと瑠璃の机の上に答案用紙を置く。


「終わったから返す」


 さらっと一言を添えると、その言葉で瑠璃の顔がこちらに向いた。


「……悠人って頭良かったっけ?」

「……はい?」


 これまた意外な質問で戸惑ってしまう。


「いや、別に良くはないけど。何だよ急に」

 

 すると俺の目の前に俺の答案用紙が広がる。そこにはきれいな丸が並んでいた。


「何で全部合ってるの?」


 何でと言われても……困るんだけど。

 俺が困ったまま口を開かないでいると、瑠璃は持っていた答案用紙を俺の机に置いて前に向きなおってしまう。


「なんかムカつく」


 そんな言葉を残していった。どうやら、瑠璃のご機嫌を損ねてしまったらしい。

 ……何て理不尽な。俺はただ小テストに真面目に回答しただけだというのに。何だよ、ムカつくって。

 俺は腕を組んでため息をつく。そこでふと俺は、あることに気づく。

 そういえば、さっき俺の名前を呼んでなかったか?


「……」


 瑠璃が俺の名前を呼ぶのを聞いたのは何年ぶりだろうか?

 俺はさっきのやり取りの中で自分の名前が呼ばれることをを思い出す。それを考えると心の中が熱くなるのを感じた。この気持ちはなんとなく分かる。たぶん、俺は今かなり嬉しいのだと思う。どこの世界の恋する乙女だと自分で思ってしまうが、仕方がないのだ。だって、嬉しいものは嬉しいのだから。

 結局、それ以降に瑠璃と話すことは無かった。しかし、何気なく話をしたこと、名前を呼ばれたことは俺の心を満たすのには十分なものだった。

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