第7話 掴む手の先

 しばらくの間嬉しさを噛みしめた後、テララは涙を拭い赤く腫れた目をした顔を持ち上げた。そして今度は取りつくろうことなく純真無垢な笑みを浮かべ、勢い良く立ちあがった。



「それじゃ、朝ご飯にしよっか! お腹、空いてるでしょ? あ……、それとも身体、洗うの先にする? そのままだと、そのう……。あまり気分よくないよね……?」



 テララは袖をまくり上げ自慢の特技を披露せんと朝食を提案したが、寝床に座り込むその容姿を改めて確認するや代案を持ち掛けずにはいられなかった。

 何せ銀眼のその人は、昨日の惨事以来、黒く乾いた血痕に全身を覆われたままだったのだ。

 手当を受けた患部周辺は幾分拭われてはいるが下手に身体を起こすこともできず大半はそのままとなっていた。耳や目元を覆う程に長い髪はその色が定かではないほどに赤黒く血色に染まり、身に着けている白地と思われる衣服も、両袖は引き千切られ胴が剥き出しになるくらいに酷く破れ血痕が至る所に飛散している。


 自身の身体に感じる視線に促され、銀眼の人は四肢を持ち上げその視線の先の何かを探しはじめるも当然何も見つけられず首を傾げている。

 その様子には思わず表情が和む。テララはほころんだ面持ちでおもむろにその人に手を差し伸べた。



「着替えの服、探してくるから背丈見せて欲しいんだけど……、立てそう? あっ! 噛み付くのはなしだよ?」



 テララの手が眼前に差し出され反射的にその人は口を開きかけた。しかし、それを一足先に制され、行き場を失った口は虚しく空を頬張り呑み込む。念のため言っておいて正解だ。

 しかし手は噛まれずに済んだものの、銀眼の人は差し出されたそれにどう反応して良いのか分からないのだろう。テララの顔とその手を交互に見詰め視線を巡らせるばかりだった。少女より少しばかり身体の小さいのも手伝ってか、なんともいじらしく愛らしい。

 テララがそんな様子を急かすことなく静かに待っていると、やがてその人は恐る恐る自身の手を伸ばし、ようやっと指先をテララの手にかけることができた。

 テララはその手をそっと包み、傷口に障らぬように、赤子に掛け布をかけるよりも優しくその手を引き、銀眼の人を寝床より起こしてやった。

 慣れない動作にその人は危なかしくよろめき、テララの細腕にしがみ付きながらなんとか立ち上がろうと奮闘してみせる。



「ほら頑張って! もうちょっと! もうちょっとだよ? よいしょっ! よいしょっ……!」



 そして次第に自身の重心を支える要領を掴んだのか、背を丸めながらもなんとか立ち上がることができた。

 よしよし、上出来だ。思わず拍手して褒めたくなるが、今手を放してしまってはまた怪我をさせかねない。



「上手、上手! 身体、痛かったら教えてね? ……うーーんと、私より少しだけ小さい、のかな? 私が前着てたので足りそうだね。一度試してみよっか」



 テララは自分の頭頂部に手の平を当て、その高さのままその手を銀眼の人の頭上に移し、手とその頭頂部との差を計った。

 そしてその人の身の丈をおおよそ見当をつけた後、その両の手を支えつつ再度寝床に腰かけさせた。

 その銀の瞳は何が何やら理解が追いつかない様子で、ただきょとんとテララの顔を見上げている。

 その上目遣いは実に愛らしく、母性を感じずにはいられない。これはもしや天性の魅惑を備えた逸材ではないだろうか。気の所為かテララの声色も浮ついているように思える。



「フフッ。何も心配することなんてないよ? ちょっと探してくるから、待っててくれる?」



 テララは少々困惑気味のその人に再び微笑みかけると、嬉しそうに部屋の暖簾のれんをくぐり自室へ駆けて行った。


 一人部屋に残された銀眼の人は、テララを見失うと視線のやり場を探すように部屋の中をぐるりと見渡した。

 その部屋はその人一人が納まるには少々広すぎるようだ。寝床の寸法は大人一人十分に横になれるほどの大きさがある。衣服を仕舞う棚も背丈があり、腰掛ける椅子も子供では足をつけないだろう。どれも子供が扱うには不便そうな家具ばかりだったが、どれも埃一つなく整理されている。


 そうして、関心を惹く物が見当たらなかったのか銀の視線はやがて自身の四肢に落ち着き、物珍しそうにそれらを持ち上げては角度を変え眺めはじめた。次いで再び立ち上がろうと思い至ったのか、上体を持ち上げ二本の脚で重心を支えようと試みる。しかし、テララの補助なしではまだ自立するのはおぼつかないようで、なんとも危なかしい。今にも顔面から床に突っ込みそうな勢いだ。そして案の定たちまちよろめき二、三歩踏ん張るも呆気なく尻をついて倒れてしまった。


 暖簾や薄い衝立ついたてで仕切られただけの粗末な家屋では、その衝撃と騒音はどこにいても知ることはさぞ容易なのだろう。

 負けず劣らずの慌ただしさでテララが何事かと部屋に駆け込んできた。



「どっどどっ、どうしたのっ!?」



 尻を打ち付けた当の本人は自身の状態に然程関心はないようで、むしろ先程までの穏やかな表情とは打って変って深緑の瞳を大きく見開き、声を張るテララに驚いているようだった。

 部屋の中は特に散らかった様子もなく、寝床から少し離れたところで座り込んでいる銀眼の人を見つけ、テララは事態を把握した。

 手間のかかる子ほどかわいいと言うが、どうやらその人はそれを心得ているようだ。

 少女は胸を撫で下ろすと、静かな足取りでその人の傍に歩み寄り再び手を差し伸べた。



「あまり1人で無理しちゃだめだよ? はい、起きられる?」



 再度差し出された少女の手に多少戸惑いを見せたものの今度は噛み付こうとはせず、ぎこちなくもその手をそっと掴んでくれた。

 そしてテララはもう一度優しくその人を引き起こし、衣服を探す最中思いついた話題を持ちかける。



「そう言えば自己紹介、まだしてなかったね。私はテララ」

「……τ……τ……、α……、……テ……λ……λ……、ラ……?」

「テ、ラ、ラ。私の名前。あなたは? 名前、何て言うの?」

「……テ、ラ……α。……ラ、λ……λ……。τ……テ、……ラ、ラッ!」

「う、うん。それ私の名前だよ……? んーー……、まあ……、喉の調子もあるだろうし、また後で教えてね?」



 予想はしていたが、無自覚のおとぼけ顔の銀眼のその人から名前を聞き出すことは叶わず、テララは惜しい表情で小首を傾げる。それよりも話すことができないかもしれない心配を拭う事ができて、テララは内心安心した様子だ。

 その人は取りあえずテララの真似をして同じ方へ首を傾げ、何が気に入ったのか、テララの名前を何度も繰り返し呟いている。心なしかその様子は嬉しそうで、テララもつられてつい顔がほころぶ。



「それじゃ、身体洗うから下りよっか。外でね、身体洗えるんだけど、行けそう? 手、支えててあげるから、ゆっくりで平気だからついて来てね?」



 テララはそう言うと銀眼の人の両の手を引きつつ自身は後ろ歩きで先導しはじめた。

 本名未だ不明のその人は、テララの手をすがるようにしっかりと握り締め、一歩一歩その跡を追ってゆく。うむ。たまらなく愛くるしい。さながら歩みを教える姉妹のようだ。


 部屋の暖簾をくぐり居間に出ると天窓からは天頂まで昇った太陽が顔を出していた。水場に伏せられた鍋がその日差しを反射して視界を白く奪う。

 姉の階段下には昨晩の祭事で使われたミコフクが脱ぎ捨てられ、昨晩戸口脇に一先ず置かれた籠は一連の騒ぎの所為かその口から拾集した物資を辺りに溢している。

 テララにとってはどうと言うことない光景であったが、少女に手を引かれる人の銀の瞳には、どれも異様で理解が追いつかない新鮮さに満ちているようだった。どうやら先程まで居た空間とは異なる世界が眼前に広がり、少々興奮気味のようだ。その銀の瞳を真ん丸に見開き、ふらつく足下よりもしきりに部屋中のあらゆる物に目線を巡らせている。それはもう、閉じたばかりの首の傷が裂けんばかりにだ。

 ただでさえ不安定な足取りがより一層ふら付き、それを何とか支えているテララは、その好奇心を歩くことに向けようと必死に声をかける。



「ああ……、ちょっと……そ、そんなに余所見し、してたら……、また倒れちゃ……う……キャッ!?」



 意識が周囲に分散しおろそかになった銀眼の人の足取りは予想以上にたどたどしく、テララは注意を払いながら懸命に慎重にその手を引いてゆく。

 しかし誰の悪戯か。その足取りに気を取られたあまり、テララは戸口前に来たところで足下に転げていた肉を踏みそうになり、慌てて体勢を保とうとするも後方に尻をついて倒れ込んでしまった。



「いててててっ……!? ……って、私が倒れちゃったら、だめ、だよね。ごめんね。エヘヘ……」



 幸いにも倒れる間際に咄嗟に手を離したため、銀眼のその人がつられて倒れることはなかった。のだが、間も無く不審な動きを見せはじめた。



「……え? あっ! ちょっとっ! 危なっ……!?」



 銀の瞳はテララの様子をしばし見詰めた後、何か閃いたのか、はたまた何かを勘違いしているのか、躊躇することなく自身も後方によろめき故意に尻をついてみせた。そして更にその小さな尻を見よう見真似にさすってみせる。



「……んもーー! こんなこと真似しなくていいのーー! また怪我しちゃうよ? ……フフッ、もしかしてあなた、お姉ちゃんみたいに意地悪なの? ……フフフッ、アハハハハッ!」



 また声を張り上げるのかと身構えたその人とは裏腹に、今度の少女の声は何やら胸の辺りが軽くなるそんな心地良さがある。そう感じているのかもしれない。突然笑い出したテララに銀眼の人は不意をつかれ微笑む少女を食い入るように見詰めていたが、無意識だろうか。釣られてその銀の目は細く弛み、口をわずかばかり横に広げていた。

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