第6話 暗然たる朝 伝う温もり

 戸口の前で大きく背伸びをし、下ろした視線の先で見かけた隣人と挨拶を交わす者。

 丹念に手入れをした自慢の用具を担ぎ、山へ拾集に向かう者。

 飼養しているスクートスに朝食を与え、その脇で昨晩用意しておいたのであろう麻を解し布を織り始める者。

 チサキミコによる祭事が執り行われた明くる日の朝、太陽はいつも通り東の空より昇りティーチ村に朝が訪れていたが、どこかわずかばかり活気に乏しい朝だ。


 けれど、テララの家ではいつもより一つ多い寝息が三つ、差し込む陽気にそそのかされ三者三様に未だ夢の中を彷徨っていた。

 空が朝焼け色から天色に染まりはじめた頃、内一人の瞼が開き中から銀の瞳が覗いた。

 テララの母親がかつて使っていた寝床で一足先に目覚めた銀眼の持ち主は、ゆっくりと瞼を持ち上げた後、眼前に唐突に広がる世界に困惑し、更に傍らで微かに動く何かに怯え奇声と共に飛び起きた。



「υ、αααα!?」

「…………ん? ……うーーん……起きたの……? 身体、調子はどう……?」



 上半身をゆだねていた寝床が大きく跳ね、テララは夢境より無理やり引き戻された。少女は眼の下をくまで染めた顔で大きく伸びつつ、掛け布を跳ね除け寝床の隅で毛を逆立てて怯えているその人に尋ねた。


 しかしその銀眼の人はすんなりと応えるでもなく歯を剥き出しにし、酷く興奮して今にもテララに噛み付かんばかりに殺気立っている。

 その威嚇に昨日の小山での出来事が蘇りテララは一瞬たじろいたが、慌てることなく、両の手を開いてにこやかに振って見せた。



「……あっ! んと……、あなたの痛がるようなこと、何もしないよ? 嘘じゃないよ? だから落ち着いて……ね?」



 流石にまだぎこちなさが拭えない笑みではあった。テララ自身も、これにはやはり銀眼のその人もなかなか不審を解いてくれそうにないのではと半ば諦めが見え隠れするほどだった。

 けれど、その少女の笑みに思う所があったのか、その人はやがて剥き出した殺気をしまい、逆立てた殺意を治めてくれたようだ。

 銀眼の瞳の奥にはまだ疑心が残っているように思えたが、昨日の他者を喰らい殺す鋭さは見受けられない。

 その様子にテララは胸を撫で下ろし、一呼吸ついてゆっくりと言葉を続けた。



「でも昨日の晩は驚いたよ。クス爺にまだ診てもらっている途中だったのに、あなた急に起きて外に飛び出すんだもん。慌てて追いかけてみたらお姉ちゃんの所で倒れてて、直ぐまた運んだけどずっとうなされてたし、すごく心配したんだよ?」



 傷の手当ての最中に一度意識を取り戻したこと。祭事中の楽殿に一人向かい、再度意識を失い夜通しうなされていたこと。クス爺の施術が終わり寝付くまでの間、聞き慣れない言葉を何やら叫んでいたのだが、今はそこまでの言及はよしておこう。

 いたいけな母性でその人を気遣う少女の声は、内容こそ多少の小言が窺えるものの、水面に広がるように静かで身の内に沁み渡るようなとても柔らかな声だった。

 その声は自身に危害を加えそうではないと感じ取ったのか、銀眼の人は自ら身を横たえ、その少々小言気味のテララをまじまじと見つめている。



「あっ! ごめんね。こんなに一度に話したら身体に障るよね。あんなに大怪我してたんだし、傷も痛むよね……」



 テララは、一方的に話はじめてしまったことを自省し前かがみぎみだった姿勢を面目なさそうに正した。ついいつもの癖と言うべきか。普段、聞き分けのよろしくない姉の世話をしている所為か、少々熱が入ってしまったようだ。

 少女が済まなそうにうつむき次の動作を思いあぐねていると、銀眼のその人は自身の身体にまとわり付く遺物に気が付いたようだ。少女の気苦労など露知らず、その違和感に耐えかねて患部を被覆してある帯を剥がしはじめてしまった。



「……なっ、ちょっと!? だめだよっ!! それ外しちゃっ! 昨日クス爺に診てもらったばかりなんだから、傷開いちゃうよっ!?」



 首に巻かれた帯を外そうとする手をテララは咄嗟に押さえる。

 しかし、それでその者の行動を改めさせることが叶うはずもなく、お互いが退かず被覆された帯を巡る小競り合いが朝の寝床の上で拮抗する。それはまるで姉妹喧嘩のようだ。

 暴れ湧き立つ埃が、刺し込む日の光で乱反射するほど朝の攻防は尚続く。そしてその内、銀眼のその人は最早帯がどうではなく全てが煩わしくなったといった調子で、段々と両の手を大きく振り回し単に暴れだした。これには流石に手の付けようがない。



「えっ!? わっ!? ちょっと! そんなに暴れちゃ……キャッ!?」



 予想外の行動に患部を押さえていた力の均衡が崩され、テララは体勢を保てず寝床の上に倒れ込んでしまった。その時、少女の指が有ろうことか銀眼の人の腕の帯に引っかかり、倒れ込む拍子にそれを解いてしまったのだ。


 テララの小さな驚きの悲鳴と共に両者の間にわずかな静寂が流れる。

 自分の指に虚しく垂れた帯を見詰めた後、はたと我に返り慌てふためくテララ。

 これは流石に姉に怒られてしまう。いや、姉では納得ならないだろうから、ここはクス爺としておこう。いずれにしても好ましくない事態を招いてしまったことは明白だった。



「あわわっ!? えっ、あっ、その、ごごめんなさいっ!! 私こんなつもりじゃ! んーーもうっ、本当にごめんなさ…………?」



 テララはまたしても自分の失態に自己嫌悪し自身の衣服の脇を握りしめうつむいた。

 しかし、固く瞑る瞼の裏で、俯く間際の視界に移り込んだ光景に違和感を感じていた。テララは閉ざした瞼を恐る恐る開き、上目遣いでその違和感をそっと確認する。



「…………えっ、……うそ……!?」



 そこには、有るはずのものが見当たらなかった。

 その人の姿形を留めさせないほどに酷く損壊していた外傷が、一晩かけてクス爺が決死の施術を施した傷跡が、縫合糸のみを残しなくなっていた。正確には薄らと縫合痕は残っているものの、患部は血液による皮膜もなく、皮膚は完全に結合しているのだ。


 テララは知らぬ間にその人の腕を持ち上げ、縫合痕を優しく撫でながら、呆気にとられている。



「……すごい、傷が……治ってる? えっ!? だって、昨日あんなに……。うそ……!? もう……痛く、ない……の?」



 腕をおもむろに撫でられている当の本人は痛がる素振りを一つせず、むしろ撫でられることに慣れていないのか、少々こそばゆそうに身体をひねり悶えている。

 しかし、そんなことは目に入らないのか、困惑と好奇心の波がテララをそそのかす。テララは自分の首を指さしながら、続けて銀眼の人に問い迫った。



「えっと……、その……首……。首の傷も……平気……、なの……?」



 銀眼の人は、テララの仕草に首をかしげ、彼女の意図を理解しかねている様子だった。それでも繰り返し自分の首を指さし、何かを引き剥がす素振りを繰り返すテララに促され、その人は見よう見真似に自身の首にまとわりつく帯を引き剥がしはじめた。

 テララはその様子を寝床の脇で正座し、被覆された帯がどけられ徐々に覗くその人の首元に、そこにあるはずの傷に釘付けだった。


 しかし、テララの熱い視線とは裏腹に、やはりその人の首には傷はなく、ただ薄らと縫合痕のみが残っているだけだった。



「うそ……夢みたい……。私、まだ夢見てるのかな。……っ、痛い……」



 つい先程の反省も虚しく知らぬ間に身を乗り出し見入っていたテララは、予想外れの結果がまだ信じられないのか、自分の頬をつねっている。しかし、つねられた頬は間違いなく痛み、テララは目線をそのままに力なくうな垂れるようにして座り込んでしまった。




 クス爺の話では命は繋ぎ留めることができたが、歩くことはおろか、身を起こすこともできない寝たきりの生活になると教えられていた。喉の傷もそうだ。傷は塞がることはなく、息が漏れ喋ることもできないだろうと。

 それを知ったテララは、クス爺の足下にすがりつき泣き喚いたりもした。折角生き永らえることができたのに、そんな酷い仕打ちはない。ずっと独りぼっちで泣いていたのにと。




 テララは脳裏に浮かぶ昨晩の出来事と眼前の現実との齟齬に困惑しているようだった。

 銀眼の人は、そんな少女を不思議そうに眺めていたが、関心はやはり身体中に巻かれた帯に移り、それらを一人引き剥がしはじめた。

 頭の整理が付かないテララは、座り込んだまま視界に映るその様子をただただ見詰めている。



「…………あっ!? 私、解いてあげるね?」



 目の前で困っている人を手伝ってあげなくちゃ。

 相変わらず難解な自問に答えを捻り出そうと目まぐるしく考えを巡らせてはいたが、それよりも他人の意思を尊重する。健気な少女らしい選択だ。

 帯は一息に解いてしまうのではなく、傷が完治していることを確認しながら上半身から順に解いてゆく。

 右肩、左腕、側腹部、右大腿、左脚。

 不謹慎ながらもどこか一箇所だけでもまだ傷は残っているのではないか。そんなことを考えながらテララは帯を解いていった。

 しかし幸運にも、未完治の傷は一切なく、患部に残る縫合糸が少々痛々しいが、見事なまでに全ての帯を外し終えてしまった。

 身体にまとわりつく帯から解放された銀眼の人は余程気分が良いのか、自分の四肢を眺め身体を起こし満足そうに寝床の上で跳ねている。


 寝たきりの生活をしなくても済む。話すこともできるかもしれない。目の前ではしゃぐその人を見詰めながら、テララはそんなことを考えていた。やがて不意に目尻が熱くなり、床に座り込んだまま何故だか泣き出してしまった。



「……良かったねっ! ……良かったねっ! 本当に……本当に……!」



 突如声を上げて泣き出した少女の姿に、銀眼の人は何事かと驚いた様子で不格好な態勢のまま固まってしまった。

 けれど、やがて深緑の瞳から大粒の雫を流している少女の顔をしゃがみ込んで不思議そうに覗き込み、ただ静かにテララを見詰めたのだった。

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