第5話



「……笈石くん。君は自分の言行不一致に気づいていますか?」


 わたしを出迎えたのは、そんなお小言だった。


 いや、まあ、うん。わかる。

 そう言われるのも無理ないって、ちゃんと理解してます。


 わたしと小匣先生の関係(とか言うと、なんかちょっといやらしい感じになってしまうが)を、秘密にしようと言い出したのはわたしのほうだ。


 秘密にすることには乗り気でなかった小匣先生を、誰かに知られたら誤解や邪推を受けることになるからと説得したのもわたしだ。


 なのに。

 夜もふけてから小匣先生のお宅に押し掛けるというのは、まるで誤解を受けたがっているかのような行為ではある。

 なんというか、台無しだ。


「ごめんなさい、わかってます。わかってるんですけど……ちょっと、先生に聞いて欲しい話がありまして……」


 いつも以上に冷ややかな視線を投げかけてくる小匣先生に、わたしは拝むようにして頭を下げた。


「…………」


 もう寒い季節だというのに背中に冷や汗がにじむような嫌な沈黙。

 やがて、顔を伏せて先生の反応を待ち構えるわたしの耳に、小さなため息の音が聞こえて来た。


「……とりあえず上がりなさい」


 先生に促され、お宅へお邪魔する。

 リビングのソファへ座ると、その真向いに座った小匣先生の口から出てきたのは、たったの一言。


「――で?」


 冷淡さと威圧感を丸めて投げつけてきたような一言だった。


 端的に言って、すごい怖い。


 もう一目散に逃げ出したくなるくらいの迫力なのだけど、その前にハニーカフェオレとか出してもらっちゃっていて、これがまた、おいしいんですわ。

 なんだろう、飴と鞭というやつだろうか。いや、違うか。


 はちみつとミルクの相性が抜群の甘いハニーカフェオレをごくんとひとくち。

 それに背中を押されるように、ようやくわたしは口を開いた。


「ええと……ですね。以前、小匣先生にハンバーグのレシピを教えてくださいって言ったことがあると思うんですが――」


 と、そこから始めて、今日馬場さんに聞いた話までを小匣先生に話す。


「事情は大まかにわかりましたが……」


 相槌などを打つこともなく黙ったままわたしの話を聞いていた小匣先生は、話がひと段落したところで、わずかに首を傾げる。


「その謎を僕に解明しろ――と?」


 突き刺すような視線に、わたしは体を震わせた。


 わたしは、これまでにも何度か「不思議だ」と思ったことを小匣先生に相談していた。そのたびに小匣先生は、驚くような、それでいて納得するしかない答えを示してくれたのだ。


 だから今回も、と思った……のだけど、少し甘えすぎなのかもしれない。


「あの、ご迷惑でしたか……?」


「迷惑というほどのことはありませんが、困難にあたってすぐに他人の助力を期待するような人間になってほしくはありませんね」


「……はい。すみません」


 小匣先生の言う通りだ。

 わたしは頭を悩ますよりも先に、「小匣先生に聞きに行こう」と考えていた。


 これでは非難されても仕方がない。


「とは言え――」


 そんな言葉と共に、小匣先生が肩の力を抜く気配が伝わってくる。


「生徒の質問に答えるのは教師の役目です」


 わたしは顔を上げ、小匣先生の顔を見つめる。いつも通りの鉄面皮で、感情のかけらも感じられそうもなかったけれど、こくりと一度だけ頷いてくれた。


「まず考えるべきは――『誰かが嘘をついている』のか『誰も嘘をついていない』のかという点からですね」


 当たり前のことだ。当たり前のことだけど、ちゃんとそこから考えなきゃいけないということなのだろう。


「ちなみに、笈石くんはどう思いますか?」


「えっ? えーと……やっぱり、誰かが嘘をついているんじゃないかと思うんですけど……」


「なぜ、そう思いましたか?」


「他に考えられないと言うか……全員の言葉を信用すると、相川さんと馬場さんはふたりとも同じレシピを参考に、ほぼ同じようにハンバーグを作ったのに、ふたりのハンバーグには明らかな差があると近田くんが言った――っていうことになりますから……」


「確かに矛盾が出ていますね。ですが、それですぐに誰かが嘘をついていると結論づけるのはいささか短絡的ではありませんか?」


「でも、誰も嘘をついていない場合に考えられるのは、材料の差くらいだと思うんですけど……」


「確か、材料にそこまでの差はなさそうだ、という話でしたね」


「はい。少なくとも、それほど味に敏感なわけでもない近田くんが違うと言うほどには変わらないと思います」


「ふむ……。では、誰かが嘘をついているとすると、疑うべき人物は――」


「あの……」


 と、わたしは思考の淵に沈みかけた小匣先生に言葉を挟む。


「嘘をついているとしたら……近田くんじゃないかと思うんです」


 少しためらいながらもそう告げたわたしに、小匣先生はわずかに表情を変えた……ような気がした。

 そして、まるでそれを隠そうとするかのように軽く頬を撫でながら、わたしに訊ねる。


「……理由を聞かせてもらってもいいですか?」


「相川さんと馬場さんが嘘をついている場合、『レシピ通りに作った』というのが嘘ということになります。実際には、相川さんの場合はレシピより上手に、馬場さんの場合はレシピより下手に作っていたということです」


 相槌の代わりか、こくりと頷く小匣先生。

 続きをどうぞ、という意味なのだろうと勝手に解釈して言葉を続ける。


「でも、相川さんの場合には、そんなことが簡単にできれば苦労はありません」


 他のレシピならいざしらず、小匣先生のレシピだ。

 先生のハンバーグはわたしも食べさせてもらったけど、あれを食べて『これじゃない』と即答できるレベルのハンバーグなんてすぐには思いつかない。


「買いかぶりすぎの気がしますがね」


「そんなことないです」


 そんなことない。

 あれを凌ぐハンバーグがちょっとした工夫でできるのなら、世の中はもっとおいしいハンバーグで溢れかえっているはずだ。


「ま、いいでしょう。では、馬場くんの場合は?」


「馬場さんの場合は――」


 少し考える。

 言おうと思っていることは決まっているのだけど、どう言葉にすればいいのか少し悩む。


 悩んだ末、結局は一番簡単な言い方をした。


「理由がないです」


 馬場さんの言う『レシピ通りに作った』が嘘ならば、馬場さんはわざとおいしくなくなるようにハンバーグを作ったことになる。


 自分の作ったお弁当を、まずいと言われたいと思うひとなんているとは思えない。

 レシピ通りに作ればちゃんとおいしくなるものを、わざわざまずく作る理由がないだろう。


 こくり、と小匣先生が頷いた。わたしの言葉に納得してくれた証拠だと思う。


 それでもその直後、小匣先生の口から出たのは異論の言葉だった。


「失敗した理由の転嫁、というのはどうです? つまり、馬場くんは何らかの失敗をしてしまっていて、そのせいでハンバーグがまずくなっていた。しかし、その責任を笈石くんに転嫁するために嘘をついた、という状況ですね」


 悪いのは自分じゃない、こんなレシピをよこした笈石ちとせのほうだ――ということか。


「でも、馬場さんは一度だけじゃなくて何度か作ってるみたいですし、彼女自身『なんかミスったのかなと思って、慎重にレシピを確認しながら』作り直したって言ってましたし……」


 馬場さんとの会話を思い出しながら、わたしも慎重に告げる。


「それにその場合、わたしにレシピが間違っていないかを確認しに来ることはないんじゃないでしょうか?」


 確認した結果、レシピが間違っていないとなれば、自分の失敗が浮き彫りになるだけだ。


「なるほど、確かにその通りですね」


 小匣先生の言葉に、ほっと安堵のため息が出るのが自分でもわかった。


 小匣先生と話していると、なぜか常に自分は間違っているんじゃないかという恐怖みたいなものを感じてしまう。

 たぶん被害妄想のたぐいなのだけど、それだけに頷いてもらえると嬉しい。


「さて、次は近田くんですが」


「彼の場合は、相川さんと馬場さんの二人が作ったハンバーグが同じ味だったにもかかわらず違う味だと言った、という嘘になるかと思います」


「彼がそんな嘘をつく理由はなんでしょう」


「はっきりとはわかりませんけど……馬場さんを悪く言うため、じゃないかと……」


ふむ? とでもいうような吐息が小匣先生の口から漏れた。


「ですが、近田くんと馬場くんは恋人付き合いをしているという話でしたね。自分の恋人を悪しざまに言う理由が近田くんにはあるのですか?」


 はい、あります。


と、小匣先生の問いに即答するには、わたしの考えは自分でも嫌なものすぎた。

 でも、言わないでいるわけにもいかない。


「別れる理由になるんじゃないかと……」


「……? それは、近田くんが『料理の下手な女は嫌いだ』と馬場くんに別れ話を突きつけるということですか?」


 小匣先生は困惑した様子で眉を顰める。


「いささか飛躍があるような気がします」


 小匣先生に言われた通り、自分でもちょっと突飛なことを言っている自覚はある。


 けれど。


「例えばですけど、近田くんにも嘘を言っている自覚がないとしたらどうでしょうか?」


「それは、近田くんが思い込みや勘違いなどをしていて、彼自身でも自分の言葉が嘘だと気づいていないということですか?」


「美化……と言えばいいんでしょうか。相川さんに作ってもらった時の印象が強くて、同じものでもおいしいと感じられなくなってしまっているとか」


「なるほど。検討の価値はありそうですね。ですが、それと『別れる理由』というのが上手くつながらないのですが?」


「ええと、つまり……相川さんのハンバーグを美化した理由を、近田くんが自分の恋愛感情の差だと思ってしまっているというか――」


 馬場さんのハンバーグより、相川さんのハンバーグのほうがおいしい。

 同じものなのだから味に差はないはずなのに、明らかに相川さん作のほうがおいしく感じてしまう。

 それはなぜか。

 ハンバーグ自体ではなく、それを作ったひとに理由があるのでは。

 相川さんのハンバーグのほうがおいしいと思ってしまうのは、自分が馬場さんより相川さんにハンバーグを作ってもらいたいと思っているから。

 つまり。

 自分は、馬場さんより相川さんのほうが好きなのではないか。


「――ってなことを近田くんは考えたのかもしれないなあ、と」


 実のところ、わたしはもっと嫌なことを考えていた。


 口に出して小匣先生に語ったのは、あくまで近田くんが無自覚にしているという前提だったけれど、本当は近田くん自身も自覚した上で意図的にやってるんじゃないかと疑っているのだ。


『近田くんは相川さんとよりを戻したいと考えている』とわたしは考えていた。


 近田くんには味の差なんてわからないけど、「相川さんのほうがおいしい」と言ってしまえば自分の感情がどこに向いているかを示せる。


「同じものだってわかってるはずなのに、どうしても相川のほうがおいしいと思えるんだ……!」


 なんて苦悩顔で言っておけば、馬場さんと別れてまた相川さんと付き合い出しても、「馬場には悪かったけど自分の気持ちに嘘はつけなかった」とか、悲劇の主人公ぶることもできる。


 そもそも今回の件の発端は、相川さんが作ったハンバーグを食べたいと馬場さんに言い出した近田くんにあるのだ。


 普通に考えるなら、ちょっとおかしい。

 そのおかしさに理由を求めるのなら、最初から近田くんの作戦だったと考えれば辻褄があってしまう。


 でも。

 そんな風に考えてしまう自分がちょっと嫌で、わたしは考え込んでいる小匣先生の顔をまともに見ることができなかったのだった。

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