第3話
「笈石さん、ちょっといい?」
わたしがそんな風に声をかけられたのは、放課後のことだった。
ホームルームが終わって、クラスメイトたちが帰宅するなり部活動に向かうなりなんとなく教室に残ってだらだらするなり、それぞれに動き始めた直後、無秩序な喧騒が教室を包んでいる時のこと。
帰り支度をしていたわたしに声をかけて来たのは、そんなに親しくもないクラスメイトのひとりだった。
名前は……えっと……待って、今思い出すから。
「うん。何? 馬場さん」
ぎりぎりで思い出せた。馬場晴香さん。
今まで特に接点とかもなかったし、事務的な連絡事項とかで2、3回話したことがあるかな、くらいのひとだ。
何の用だろう、とわたしが首を傾げると、馬場さんは少し言いづらそうにしながら口を開いた。
「……あたしにも、料理を教えてくれないかな?」
ふへっ!?
「りょ……うり……?」
「うん。ほら、笈石さん、料理上手じゃない? あたしも作れるようになりたいなとか思ってて、それで教えてもらないかなって」
まずい。
これはまずい。ほんとまずい。
「む、無理無理。わたしだって、ひとに教えられるほど上手ってわけじゃないし、そんな大したこと知ってるわけでもないし……」
「いや、あたしもそんなすごい料理を教えてもらおうと思ってるわけじゃなくて……ちょっと自分でお弁当とか作れたらなー、とかその程度なんだけど」
食い下がる馬場さんに、わたしは血の気が引く思いを味わっていた。
はっきり言うと、わたしは料理ができない。
まったく、これっぽっちも、何ひとつ、できない。
まあ、そうでもなければ、わざわざ小匣先生にお世話になる必要もないのだけれど、クラスメイトの多くは、わたしのことを『料理上手なひと』だと思っている。
この誤解の原因は、わたしの親にあった。
わたしの父親は料理研究家であり、テレビなどにも出演することがあったりする。
そのせいか、わたしが「できる」とも「できない」とも言わないうちから、クラスの中で「笈石ちとせは料理上手」という空気が出来上がってしまっていたのである。
まあ……でもあれだ。
わたし自身、積極的に誤解を解こうとしなかったのは確かなので、自業自得と言えば自業自得なのだけれど。
もし小匣先生にお弁当を作ってもらっていなければ、この場で誤解を解いてしまってもよかったのだが、今わたしが、料理ができないと言ってしまえば、「じゃあ、いつも持って来てるお弁当は?」となるだろう。
それは避けたい。
小匣先生にお弁当を作ってもらっていることを知られるわけにはいかない。
だから、料理はできないとも言いづらい。
かと言って適当なことを喋っても、余計に嘘がバレる危険を増やすだけ。
さあ、どうする……?
「お、お料理が習いたいってことなら、お母さんとかに教えてもらったほうが手っ取り早いんじゃないかな……?」
わたしのその言葉は、この場をごまかすためのものでもあったけど、同時に純粋な疑問でもあった。
大して親しくもないクラスメイトのわたしに教わるより、よっぽど適任のひとがいくらでもいるんじゃなかろうか。
「料理が習いたいって言うか――」
わたしの問いかけに、馬場さんは少し照れくさそうに頬を掻く。
「ハンバーグの作り方を教えてほしいんだよね」
「え? 作り方? レシピってこと?」
困惑しながら訊ねるわたしに、馬場さんはこくりと頷いた。
わたしはますます困ってしまう。
「それなら、それこそ親に教えてもらってもいいし、ネットで検索すればいくらでも出て来るし、本屋に行けばレシピ本だっていっぱい……」
何か特別な料理――例えばマイナーな郷土料理とかならともかく、“ハンバーグ”だ。
簡単に数十……いや、数千にも及ぶレシピを探すことができるはず。
「あ、そういうことじゃなくて。……前にさ、相川に教えたでしょ」
相川?
「えっ、あっ。……隣のクラスの相川和美さん?」
わたしの言葉に頷いた馬場さんを見て、ようやく合点がいった。
隣のクラスの相川さん。
確かにわたしは、彼女にハンバーグのレシピを訊かれたことがあった。
その時も今日みたいに結構あせったのをよく憶えている。
でも……相川さんとはクラスも違うし、接点もほぼなかった。あの時わたしに話しかけてきたのはなんでだったか……。
ああ、そうだ。
相川さんの彼氏がわたしと同じクラスで、その彼氏がわたしのお弁当を羨ましがっていたとかそういう話だった気がする。
その時もなんとか断ろうとしたのだけど、どうしてもと食いつかれて結局レシピを教えることになってしまったのだ。
教えるとなれば適当なことを言うわけにもいかない。
「ちゃんとレシピを調べてくるから」と1日待ってもらって、その日に慌てて小匣先生の元に駆け込んだ、というのが本当のところである。
それはさておき。
馬場さんの言っている『ハンバーグの作り方』というのは、その時に相川さんに教えたものだろう。
でも……なんでそのことを馬場さんが知ってるんだろう?
相川さんから聞いたんだろうか。でもそれなら、レシピも相川さんに訊けばいいような気もするけど。
そんな疑問が顔に出てしまっていたのかもしれない。
馬場さんは、顔を染めながら小さな声で告げてくる。
「ち、近田に、聞いたんだ」
近田。どこの近田さんだろう? という疑問には、馬場さんの視線が答えてくれた。
その時、彼女が目を向けていたのは、教室の片隅。
視線を追えば、そこにいたのは数人の男子のグループ。
その中のひとりが、近田くんだ。
ああ、そうか。思い出した。
確か、相川さんの彼氏が近田くんだったんだっけ。
つまり今回もその近田くんが、馬場さんにわたしのお弁当のことを言ったってことか。
……って、あれ?
何かちょっとおかしくないか……?
いや、おかしいってほどじゃないけど、ちょっとした違和感。
近田くんはどういうつもりで馬場さんにわたしのお弁当のことを伝えたんだろう。
馬場さんもどういうつもりでわたしに訊ねてきたんだろう。
不思議に思ったのが馬場さんにも伝わったのか、わたしが訊ねようとするよりも先に、彼女のほうからおずおずと口を開く。
「今さ、近田と付き合ってるんだ」
ああ、そういうわけね。
しっかし、わたしが相川さんにレシピを教えてからまだひと月も経ってないと思うけど、その間に近田くんは相川さんと別れて、馬場さんと付き合うようになったのか。
ちょっといろいろ早くない? とか思うけど、他人の恋愛に口出しをしても仕方ない。
「あいつが、相川に作ってもらったとか言うからさ……」
ええー?
元カノにお弁当を作ってもらってたとか、今カノに言うかー?
なんかデリカシーがないような気もしちゃうけど……うーん、まあ、当人がいいなら横からどうこう言うことでもないのかな。
「えっと、相川さんに教えたのと同じのでいいのかな……?」
いろいろ言葉を飲み込んで馬場さんにはそれだけを訊ねる。と、彼女はちょっとホッとしたような表情で頷いた。
それなら確かスマホの中にメモが残っていたはずだ。
そのレシピは、わたしが小匣先生から教えてもらったものであり、実のところその日の内に実際に作ってもらってご相伴にあずかっていたりする。
あれはおいしかったなー……。
実は、小匣先生にオーソドックスなハンバーグを作ってもらったのは初めてだったけど、さすがのお味だった。
ひとくち噛めば、口の中に溢れ出る肉汁!
粗挽き肉を、肉感が損なわれない程度の捏ね方をしていて、噛んだ時のボリューム感が半端ない。
そのボリューム感を後押ししているのが、みじん切りにしたベーコンブロック!
ハンバーグの中にベーコンを刻んで入れるレシピはたまにあるけど、スライスベーコンではなくベーコンブロックを使うことで、
――肉です! お肉を食べていますっ!
って叫びたくなるくらいの肉感。
ひとによっては、ちょっとしつこいと思われるかもしれないので一般的な味とは違うのかもしれないけど、わたしは肉肉しいくらいが好きなので大満足だった。
ああ……ダメだ。思い出すだけでよだれが出そうじゅるり。
料理はまったくできないわたしだけど、親に連れられて食べ歩くことも多かったので、舌にはちょっとだけ自信がある。
あのハンバーグなら、変に疑われることもないだろう。
レシピを馬場さんに伝えて、一件落着。
よかった、よかった。
……と、思っていたのだ、この時は。
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