第2話
「声が出ていますよ」
「うわあっ!?」
自分ひとりきりだと思っていたところに、急に声をかけられるのは結構な恐怖だ。
飛び上がらんばかりに驚いてしまった。実際、お尻が椅子からちょっと浮いた。
声のほうを振り向けば、そこには冷めた表情でわたしを見つめる男のひとが立っていた。
「お、脅かさないでください、
そのひとは、細身で長身、切れ長の目、高い鼻、細い顎と、全体的に刃物みたいな印象だった。
飾り気のないスクエア型のメガネに野暮ったいネクタイが、無機質というか無機物っぽいイメージを後押ししている。
このひとの名は、小匣
わたしの通う、翁沢高校の社会科教諭だ。
年齢はたぶん二十代後半だと思う。
年が近いせいか、年配の先生とは違う気安さがある……と言いたいところだけど、気安さどころか大半の生徒からは敬遠されていたりする。
「脅かすとは人聞きが悪いですね。足音を忍ばせたわけでもありませんし、ドアを開ける音も聞こえたはずです」
冷ややかな視線と共に放たれる感情のこもらない一言に、わたしは言葉を失ってしまった。
こんな、木で鼻をくくったような堅物鉄面皮が生徒からの不人気の理由だ。
陰では“ロボメガネ”なんてあだ名をつけられちゃったりしているのだが、知ってか知らずか本人はまったく気にする様子もない。
だけど……わたしは小匣先生の別の一面も知っていた。
この先生、こう見えて意外と気遣いのひとなのだ。
他人に興味がないなんて顔をしてるけど周りのことはよく見ているし、困っているひとを見捨てるほど薄情でもない。
なんでわたしがそんなことを知っているのかと言えば――。
「小匣先生、ありがとうございました。今日のお弁当もおいしかったです」
わたしは小匣先生の背にそう言葉を投げかけた。
そう。
何を隠そう、今日の絶品中華風弁当を作ったのは、この小匣先生なのだ!
実のところ、今日だけではなくわたしはこの数か月間ずっと小匣先生にお弁当を作ってもらっている。
なんでそんなことになったのかを説明しだすとちょっと長くなるので省略するが、困っていたわたしに小匣先生が手を差し伸べてくれたのは間違いない。
さっき舌づつみを打ちまくったあのお弁当を思い返せば、小匣先生がお料理上手なことはもちろん、食べるひとのためにいろいろと気を遣ってくれているのがわかる。
みんなが言うように、冷血だの機械だの本当にそんなひとなら、あんなお弁当は作れないだろう。
いや、そもそも縁もゆかりもないわたしに、お弁当を作ってくれるはずもない。
まあ、そうは言っても、「みなさん誤解しないでやってください、この通り優しいところもあるひとなんですぅ」とか、涙ながらに訴えられるほど、わたしも小匣先生のことを知ってるわけではなかった。
みんなの言う通り愛想はないし、笑顔という概念を知っているのか不思議になるし、時々ひとを昆虫でも見るような目で見るし。
それにたぶんサドっ気がある。いや、絶対にS。しかもドS。普段、表情筋がないんじゃないかと思うくらいほとんど表情なんか変えないくせに、ネチネチ言ってくる時は妙に嬉しそうなのが腹立つんだよなー。
などとブツブツ口の中で文句を言っていたら、当の小匣先生がひどく冷え冷えとした視線をわたしに向けていた。
「あの……な、なにか……?」
まさか文句を聞かれたなんてことはないと思うけど、恐る恐る訊ねると小匣先生の口からはあ……と呆れ果てたようなため息が聞こえてきた。
「秘密にしたいと言い出したのは
とまで言われてやっと気づいた。
「あっ」と、わたしは思わず自分の口をおさえてしまったが、時すでに遅しとはまさにこのことだろう。
わたしが小匣先生にお弁当を作ってもらっているのは、二人の秘密だった。
わたしと小匣先生以外に知っているのはほんの数人で、大半のひとたちは日々のお弁当をわたしが自分で作っていると思っているのだ。
お弁当くらい自分で作れるよ、と見栄を張りたい気持ちがまったくないと言えば嘘になるのだが、実態はもうちょっと深刻だ……とわたしは思っている。
“世間”はきびしい。
家族でも親類でもない小匣先生にお弁当を作ってもらっているなんてことが知れたら、絶対に面白くないことを言い出す輩が出る。
不公平だとか依怙贔屓だとかいう話ならまだいい。
教師と生徒が必要以上に親しくしているのは問題だ言われ出したらどうなることか。ふしだらだとか、果ては淫行とかなんとか言われかねない。
そんな騒ぎになって三年間を棒にふるのはごめんだ。
だからこれは、わたしと小匣先生の秘密。
……なのだが、ものの見事に忘れていた。
いや、忘れていたわけじゃないのだけど、油断していた。
確かに「お弁当ありがとうございました」とか言ってるところを誰かに聞かれれば、わたしが小匣先生にお弁当を作ってもらっていると知られてしまうかもしれない。
とは言っても……ねえ。
「油断してたとは思いますし、それはごめんなさいなんですけど……でも、」
今、わたしたちがいるのは、『社会科資料室』という教室だ。
普通教室からは離れた、“僻地”とか表現したくなるほど校舎の隅っこにある。
その上、常時開放されている教室ではなく、利用するためにはいちいち鍵を借りにいかなくちゃならない。
所属する歴史研究会の部室がここのため、わたしはこうして昼休みなんかにちょくちょく利用するのだけど、はっきり言って部員以外の生徒をこの場所で見たことがない。
「お昼休みにこんなところまで来るひとなんていないでしょう?」
「……昼休みにこんなところまで来ている人物に向かって、よくそんな台詞が言えたものですね」
あ。
「いや、それは、まあ……小匣先生は、ほら」
小匣先生は、社会科の先生でもあるし、なにより歴史研究会の顧問でもある。
この教室にあるのは使用頻度の低い資料らしく(だから離れた場所にあるのだ)、この教室に足しげく通っているわたしも、ここで先生の姿を見ることはあまり多くなかった。
それこそ小匣先生以外の先生を見たのは、一・二回あるかないかだ。
「それにですね、扉を開けはなしているわけじゃないんですから外に聞こえたりしませんよ」
自信満々で言ったその言葉は、即座に鼻で笑われてしまうことになった。
「笈石くんの声は聞こえてきましたがね」
え?
「さっきも『声が出ていますよ』と言ったでしょう?」
え!?
ちょまっ、え? ちょ……!?
「ちょっと待ってください!? わたし、さっき何か言ってました?」
嘘でしょう? と思ったのも束の間、小匣先生には「ええ」とあっさり頷かれてしまう。
「『ふおおっ』とか『これにはやられましたわー』とか『ああ、しあわせ』とかですかね」
――!!
ぎ、ぎゃあああああああっ!
聞こえてたっ! 聞かれてたっ!
顔を真っ赤にするわたしに、とどめを刺すように小匣先生が冷めきった声で告げる。
「恥ずかしいと思うのなら、食事に没頭すると周りが見えなくなる癖をどうにかしたらどうですか」
……ええ、まあ。まったくもってその通りなんですがね。
「……き、今日はちょっと油断してただけです。ひとりだったものですから」
苦し紛れの言い訳ではあったけど、小匣先生は「ああ」とどこか納得したような、それでいて意外そうでもある声を出す。
「そう言えば笈石くんひとりというのは珍しいですね」
さっき言った通りこの社会科資料室は歴史研究会の部室なのだが、とは言っても今の歴史研究会にはわたしを含めて部員が三人しかいない。
そのため、部室というよりは友人同士のたまり場のような様相を呈してしまっていて、特にお昼休みには三人そろってここでお弁当を広げることも少なくなかった。
そんな風に、部活動と言っても身内感あふれる小所帯なので、部員の出欠状況くらいは簡単に把握できる。
「今日はわたし以外のふたりはお休みなんです」
部員がいないとなれば、この教室にひとが来ることなんてほとんど想定できない。
だから、ちょっと油断して思わず気が緩んでしまったのも仕方がないんじゃなかろうか。
「なるほど」
と、小匣先生はわたしの言葉に納得したように頷いてみせておきながら、
「『こうなるだろう』『こうなるはずだ』という思い込みが、いかに根拠の乏しいものでしかないのかという好例ですね。君もいい勉強になったでしょう」
うう……こうやってきっちり痛いところをついてくるんだものなあ。
小匣先生の言うことは、正論は正論なんだけど、もうちょっとこう……なんというか……生徒のお茶目な失敗を一緒に笑ってくれるくらいの愛嬌があってもいいんじゃないだろうか。
そんなんだから“ロボメガネ”とか言われるんですよ、まったく。
――とは、さすがに口にはできないけど、不満が顔に出てしまうのが自分でもわかった。
小匣先生はそんなわたしに一瞥もくれることはなく、何かの作業に没頭していた。
どうも借りた資料を返却しに来ているようだ。部屋の壁を覆うように並ぶ本棚に、几帳面な性格がわかるような丁寧さで何冊かの本を差し戻していた。
ついつい恨みがましい視線を小匣先生に向けてしまう。
我ながら幼稚だと思いながらも、その背中に向かって舌でも出してやろうかとか考えていたら、急に小匣先生が振り向いたのでびっくりした。
「口にあったのならなによりです」
あまりにも唐突なことだったので、しばらく何のことだかわからなかった。
さっきわたしが言った、お弁当の感想への返事なのだと気づいたが、上手く反応できずぽかんとしてしまった。
「笈石くんは素直に好意を口にしてくれるので、作り甲斐もあります」
小匣先生はそう言って、かすかに――ほんのかすかに笑ったのだった。
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