にび色パラダイス

久遠了

第1話

 鈍痛を避けるように体を動かした。

 次の瞬間、硬く冷たいものが私の手に触れた。閉じていた目を開くと、薄いにび色の大地が見えた。腹ばいになったまま左右を見る。石ころ一つ、ゴミ一つ落ちていない平らな広い道だった。

 しばらく、私はそのままでいた。アスファルトの臭いも鉄の臭いもしない。ひんやりとして乾いた表面を堪能してから上半身を起こした。

 にび色の太い緩やかな坂道が、黒い大地の上を細くなって枝分かれしている。それぞれの道は枝分かれを繰り返し、ねじれた糸のようになりながら遥か地平線の向こうまで続いていた。後ろや左右の道も同じだった。窪地のどん底から目を細めて見ても、道の先に何があるのか全く分からなかった。

 ためいきをついて、私は体を起こした。さきほどまであった腹部の痛みと全身を覆う不快感は嘘のように消えていた。十字路の上にあぐらをかいて座った。ため息をついて見上げると、濃淡を交えた灰色の雲がゆっくりと流れていた。

 私はお気に入りのグレーのスラックスと白いシャツを着ていた。ジャケットはなかったが、寒くもなく、暑くもない。スラックスを持ち上げると、棒のように痩せ衰えたふくらはぎが見えた。太ももの部分もダブダブだった。シャツの左袖をまくり上げる。やはり病で衰えきった腕があった。

 これでは遠くまで歩けないぞ、と思案していると、どこからかコツコツという音が聞こえ始めた。石を叩くような音でも、何かの足音のようでもあった。

 音は大きくなったり、小さくなったりした。きっと迷路のような道を行きつ戻りつしているのだろう。

 やがて、一本のにび色の道の遠くに、三体の小さなモノが現れた。コツコツという音が次第に大きく、そして速くなった。

 目を凝らして音のする方を見ていると、奇妙なモノが近づいてくる。丸い胴体に、目のような穴が開いている。その体に付いた枝のように細い四本の足を動かして、さらに近づいてきた。

 よく見ると、それらは勾玉に四本足を付けたような姿だった。

 大きな一メートルほどの白い勾玉と、小さな三十センチほどの茶と灰色の勾玉が私に向かってきた。私はヨロヨロと立ち上がって身構えた。大きな勾玉は私の前に来て、一瞬立ち止まった。すぐに後ろ足で立ち、前足を私の胸に当てた。三本の指が私の胸を押す、その重みに記憶が蘇った。

「おい、パティ。私は病み上がりなんだ。倒れてしまうよ」

 思わず、昔飼っていた犬の名で話しかけた。勾玉は言葉が分かったかのように私から離れた。入れ替わるようにして小さな勾玉たちが近づき、私の左右の足に体をこすりつけた。

「ロックとウッドかい?」

 名前を呼ばれて、猫たちは嬉しそうに体を強く押しつけた。

 しばらくすると、大きな勾玉が私の後ろに回り、足を押した。小さな勾玉は先を歩いていき、私を待つように立ち止まった。

「そっちに何かあるのか?」

 問うとはなしに問うと、パティが答えるように軽く押した。

「分かった、分かった。だけど、ゆっくりと行かないと、私はくたびれて倒れてしまうよ」

 私は歩く前から弱音を吐いた。三匹は私を囲んでゆっくりと歩き出した。

 灰色の空の下の、にび色の道を私たちは歩いた。道は上り切ると、下りに変わった。だらだらとした坂が、右に左に曲がりながら遙か先まで続いていた。

 時折、私は立ち止まって空を見上げた。灰色の空に浮かぶ濃淡の灰色の雲が、時には前後に、時には左右にたなびいていた。

 枝分かれし、交錯する道を、私を導くように三匹の勾玉は進んでいった。私には分からなかったが、何か目印があるような自信のある足取りだった。

「もう元の場所には戻れないなぁ」

 足を止めた私は背後を見た。絡みあった道が背後を覆い尽くしている。目を凝らしても、どこから来たのか、まるで分からなかった。

 やがて道が細くなった。一列に並んで三叉路を左に折れて進んでいくと、ロックとウッドが走り出した。

「ようやく着いたのか?」

 左側にひかえたパティに聞くと、パティが首を振るように体を動かした。

 にび色の道は広い庭で行き止まりになった。庭の脇にはたわわに実をつけた柿と枇杷の木があった。黒い土の庭の向こうに影絵師が切り抜いたような家が建っていた。引き戸が見える、障子とガラス戸を開けた部屋には縁側があった。

 絵本で見たことがあるような、どことなく懐かしさを感じる家だった。

 家の奥には田畑があり、その先に淡い水色の川が見えた。川向こうには紙芝居のような様々な枠の中に、平板な家が建っていた。

 先に行ったロックとパティが庭の奥の畑から、私の肩ほどの二本足で歩くふじ色の勾玉を連れて戻ってきた。

 ふじ色の勾玉が私に向かって足早に近づいて来た。私を抱くと、三本指の細い手で腰をパタパタと叩いた。

「ばぁちゃん?」

 勾玉は返事をしなかった。私の手を取り、家の中に連れていった。

 入ったところに、だいだい色とみどり色で幾何学模様を描いた表紙のスケッチブックが置いてあった。勾玉は器用にスケッチブックを開くとマジックで字を書いて差し出した。「よく来た。痩せたな。しばらくゆっくり休めばいい」と書かれていた。

 話せない勾玉の、それが言葉だった。

 私は勾玉の、祖母の手を取った。


 にび色の世界の影絵のような家での暮らしが始まった。

 外から見ると黒い紙を切り抜いただけの家だったが、中に入ると、4畳半の台所と板戸で田の字型に仕切れる四部屋の八畳間があった。台所に近い部屋には丸いちゃぶ台と食器棚が置かれていた。そこから次の間を見ると、外の景色が見えた。縁側の向こうは黒土の庭で、その先には流れる雲と遠くまで伸びていく錯綜する道が見えていた。

 始めて家についた日。

 ちゃぶ台の前に座っていると、祖母が食事を用意してくれた。手際よく勾玉がおひつから飯を盛り、鍋から味噌汁をよそう様子を私はぼんやりと見ていた。

 私は皿のタクワンを口にした。懐かしい味に涙が出た。

「ばあちゃんの味だ」

 私はあっという間に一杯目を食べ終えた。二杯目の飯には味噌汁の中の卵をかけた。半熟の卵が飯の中に流れた。醤油をかけて一口すすると、滋養が体に染み渡るようだった。

「旨い…… ここ何年も、ちゃんとした食事をしてなかったんだよ」

 私がつぶやくと、勾玉が三杯目の飯をよそってくれた。白い飯は涙の味がした。

 食べ終えてしばらくすると、祖母は押入れから布団を出して八畳間の一室に敷いてくれた。「くたびれただろう? 今日はもう寝ろ」と祖母に言われ、私は蚊帳をそっと開けて中に入り、布団の中にもぐりこんだ。いつの間にか日は落ち、開け放された窓から冴え冴えとした青白い月が見えた。

 次の日の朝、風に揺すられた葉の音で目を覚ました。すでに祖母は起きて朝食の用意をしていた。

 パティたちに食事と水を与えてから、私たちは朝食を取った。

「今日は風が強いね」

 食事のあと、出された茶を飲みながら私は祖母に言った。「そんなでもないさ。もっと風の強い日もあれば、雨が降る日もある」となんでもないように祖母が答えた。

 私は外に出て、改めて家を見た。

 一見すると黒い紙を切り抜いた家だが、中に入るときちんと部屋がある。私は不思議に思い、何度も出たり入ったりしたが、結局どういう構造なのか分からなかった。田舎家のようなどこか懐かしい佇まいの家だったが、そのような家で暮らした記憶はなかった。

 黒土の庭の一角には柿と枇杷の木が植わっていた。柿は祖母の好物、枇杷は私の好物だ。家の奥には納屋があり、多くの道具がしまい込まれていた。その向こうには畑と水田があった。

 ぼんやり外を眺めていると、祖母が握り飯を皿に盛って台所から戻ってきた。ちゃぶ台の上に置き、蝿帳をかぶせた。「今日は畑仕事をするからね。お前は休んでいるといい。昼になったら、これを食べな」と祖母に言われ、私は立ち上がった。

「手伝うよ」

 祖母は右手を顔の前で振った。「そんな痩せっぽちになって、力仕事ができるもんかい。養生して元気になったら働けばいい」と言って、出かけていった。

 私は縁側に腰を下ろした。足元にパティが腹ばいになった。左右にはロックとウッドが来た。ロックとウッドはしばらく私と一緒にいたが、すぐに家の外に出ていった。たぶん、畑仕事をしている祖母のところへ行ったのだろう。

 蝿帳をかけた割に虫のたぐいは見当たらない。パティたちがいるということは動物はいるのだろうが、飛ぶ鳥はなく、鳴き声も聞こえなかった。

 最初は日にちを数えていたが、繰り返す日々の間に日数を忘れた。

 食事がいいのか、陽気が良かったのか、私の体はじょじょに元に戻っていった。細くなった手足、あばらの浮いた胸に肉がついた。家の中で掃除をしても息が上がらなくなっていった。

 食事をして、眠りにつく。それだけで、体力や気力が戻ってきた。

 祖母は毎日農作業をしていた。田んぼで稲を育てたり、畑で野菜を育てたりしている。柿と枇杷の果樹の手入れもした。

「どこで習ったの?」

 私が尋ねると、「昔、田舎でやっていたんだよ」と教えてくれた。

 家の掃除が難なくできるようになった様子を見て、祖母に「おまえにもそろそろ手伝ってもらおうか。少しずつでいいから」と言われた。私は祖母の仕事を手伝うようになった。慣れないというより、まったくやったことがない未知の仕事だった。

 見よう見まねでやる仕事は骨が折れた。が、やったことがない分、面白かった。そんな時、パティやロック、ウッドたちは、私たちの近くで寝ているか、私たちをまねるように土で遊んでいた。

 自給できる食料以外の必要なものは全て川から得られた。

 ここで取れない野菜や肉、魚、調味料は小さな舟で流されてきた。祖母は荷物を下ろすと、余っていた野菜や果樹を代わりに乗せて、再び川に流した。「相身互いだよ」と祖母は言った。

 一度だけ、なんの気なしに川面に指を入れた。その途端、恐ろしい冷たさに体が痺れて動けなくなった。のども固まり、うなり声さえあげられない。永遠にこのままでいる恐怖で、冷や汗だけが流れた。

 幸いなことに私の様子に気づいたパティが急いで近づき、横から全力で体当たりしてくれた。祖母が腰の手ぬぐいで濡れた指先を拭き取るまで、私は恐ろしいほどの冷たさに体を固めていた。

「ありがとう」

 冷気が引いてから、私は小声で礼を言った。祖母から別の手ぬぐいを受け取って、額や首筋の汗を拭った。「川の水は水田に入れないと冷たいよ。飲み水は井戸の水じゃなきゃダメだ」と祖母に諭された。

「なぜこんな冷たいんだろう?」

 私が聞くと、「よそに行かせないためかね」と言われた。

「そんな気はなかったんだ。気をつけるよ」

 私は体を起こした。


 体調がよくなるにつれて、にび色の世界が「よく見える」ようになった。

 紙芝居の枠の中の家をじっと見ていると、それが大きく見え出す。さらにじっと見ていると、住んでいる人や動物、勾玉の暮らしぶりを垣間見ることができた。

 家の形や間取りは人ごとに違っていた。ワンルームの家があり、王宮もかくやというような家もあった。しばらく見ていると、どの家も、その時に住む人数によって敷地や家の大きさ、間取りが変わっているように思えた。

 そこに住んでいる住民もいろいろだ。一人住まいや家族暮らし、動物がいたり、いなかったり。勾玉だけが住んでいる家もあった。

 たいていは一軒の家に住む住民は少人数だったが、時には大勢が暮らしている家もあった。農作業だけではなく、大工仕事や細工仕事をしていたり、工場と思えるような家もあった。そのような労働をしている者たちだけではなく、一心に体を鍛えていたり、本を読んでいたり、文章を書き記していたりする住民もいた。

 食材を作らない者たちは川からの恵みで生活していた。祖母のように余った農作物や肉、魚などの食料品を流すだけではなく、工場で作った服や靴、文房具、日常雑貨、農機具などが流れている。そのおかげで、必要と思ったものは数日以内に川のほとりで見つけることができた。川の流れは一定のようでもあり、見ていない時に逆流しているようでもあった。

 紙芝居の家の情景は、音のないドキュメント番組を見ているようで面白かった。

 野良仕事を手伝い始めたせいか、体が筋肉質に変わった。鋤や鍬を振るっても、全く苦にならなくなった。

 晴れていれば田植えを手伝い、畑で汗して、果樹を選定し、作物を収穫する。風が吹いたり、雨の日は家の中で着物を縫ったり、編み物をする。季節のないにび色の世界では、毎日なにかしらやれることがあった。

 日々の労働で心地よい疲れを感じながら、私は家の中で食事をして気持よく眠った。

「ここはいいねぇ。穏やかで、静かで。食事は旨いし、天国だ」

 そう言って私が笑うと、祖母がスケッチブックを差し出した。「世の中、そんないいところはないんだよ。風の強い日に、目を凝らしてよく見てな」と書かれていた。

 今までも風の強い日はあったが、それ以上の風が吹くことがあるらしかった。そう聞かされて数日後、天空がビョウビョウと唸り出した。私たちは農作業を休み、縁側に座って外を見ていた。

 地上はそれほどでもないのに、雲が凄まじい勢いで流されていった。そこここの家をふちどる額がガタガタと揺れ動いていた。

 ふいに祖母が一軒の家を指差した。私は目を凝らした。

 その家は風が吹くと、特にひどく揺れた。

 かつては立派な豪農の家だったのだろうが、贅沢な装飾の門扉の表面は錆び、片側は外れていた。門の上に枝を伸ばしている門かぶりの松も枯れ果てていた。窓は割れ、屋根瓦の半分以上が落ちているようだった。遠くには荒れ果てた田畑が見えた。

「どういう家なんだろう?」

 私が問うと、「怠けて家を守ろうともしないし、外が怖くて家から出ていこうともしなかったんだよ」と祖母が教えてくれた。

 揺れる紙芝居の家から男が出てきた。目を見開き、あたりをキョロキョロと不安そうに見ている。風がひときわ強く吹き、額がガタンと揺れた。私には聞こえない音が聞こえたのかもしれない。耳をすましていた男の表情が恐怖に歪んだ。

 突然、にび色の道から額が外れた。唸る風に乗って額がクルクルと回り、男が放り出された。男の手足が外れ、一瞬で勾玉に変わったかと思うと砕け散った。額は水面に触れた途端に壊れ、家はバラバラになって川面を揺らすと沈んでいった。

 祖母が「ここが天国だと思って何もしなかったのさ。どんなことでも修練する時間はたっぷりあったのに。家を潰してしまった」と言った。

「ここは修練の場所なの?」

 私の声は不安そうに聞こえただろう。私もまた、ここで何もしていないと思ったからだ。祖母が私の腰を叩いた。「田畑を耕しているだけでも体が鍛えられるんだ。そうやって、準備しているのさ」と祖母が答えた。

「準備? なんの?」

 祖母は答えず、昼食の支度に台所に消えた。

 影絵のような家での安寧の生活が一時的なもので日々をおろそかにできないと知り、私は少なからず衝撃を受けた。

 この世界では安寧を貪り、惰眠を喰らうだけの生活は許されないようだった。

 昆虫や獣でさえ、巣という家を作る。そこで眠り、子供を育て、生きていく。

 人であれば、そのような本能以上の暮らしを家に求めるのではないだろうか。

 あるいは家が求めているのかもしれない。

 太古には畑を耕し、獣を追う生活だけで生きることが精一杯だった。そこでの家は体を休めるだけだったに違いない。家族がいる者もいない者も、束の間の安らぎを得る役目を家に求めただろう。

 犬や猫、鷹や鷲が家族に加わると、他の害獣からの危険が減り、安らぐ時間が増えた。体を休めるだけではなく、字を覚え、工作を行い、より良い生活を得るための努力ができるようになった。

 家は癒やしの空間であると同時に、修練の場になった。それは手先の修練だけではなく、魂を鍛えることにもつながっていったのではないか。

 にび色の世界の家は、究極の癒やしの家であり、修練の場なのだろう。あるいは、どれだけのことをやってきたのか、を見定める場所なのかもしれない。

 誰が見定めるのかは分からないが。

 私の魂も少しずつ鍛えられていると思いたかった。


 平穏だけだった日々が、それと共に不安が交錯する日々に変わった。

 思い出しては修練について祖母に尋ねたが、「自分で考えな。そのうち分かる」と言われるだけで詳しくは教えてもらえなかった。

 しばらくすると、パティたちが落ち着かなくなった。何か考えるようにおとなしくしていたかと思うと、急に走り出して姿を消す。

 何日かして、私を家に連れてきた時のようにパティが私の腰を押した。

「どうしたんだ? パティ」

 パティは私を納屋の前に連れていった。パティは納屋の戸を右前足で叩いた。開けると、壁に立てかけあったショベルを叩いた。

「ショベル? どこか掘るのか?」

 ここ掘れワンワンはお前だろう、と思ったが、枝のような足の三本指では黒土を幾らも掘れないと気づいた。

「分かったよ」

 ショベルを持った私を、パティはせかすように庭に戻した。

 私たちを待つようにロックとウッドが庭にいた。

「お前たちもか」

 三匹は私を庭の一角まで連れていき、その場所を前足で叩いた。私はうながされるまま、そこを掘り始めた。

 三十センチも掘ると、底が抜けた。危うく落ちかけたが、穴が小さかったせいでスコップが引っかかって止まった。

「なんだ?」

 私は慎重に穴を大きくしていった。

 白い雲がたなびき、その下に外界が見えた。懐かしさを覚えて、三匹同様に私も腹ばいになって穴を覗き込んだ。

 パティたちが、どこを見ているのかはすぐに分かった。にび色の世界の家のように、視界の中で一つのビルが大きくなった。そして天井が透明になり、部屋のベッドにいる姪の一人が見えるようになった。そこは産婦人科らしく、お腹の大きい姪と、その友人らしいやはりお腹が大きい二人の女性が談笑していた。

「おまえたちは、あの子が好きだったっけ」

 ぼんやりと私がつぶやくと、最後の挨拶をするようにパティが私に頬ずりをした。

「行くのか?」

 ふいに浮かんだ言葉を私は口にした。パティが離れると、ロックとウッドが両側から私に頬ずりした。

「パティ、ロック、ウッド…… 達者でな」

 パティの足が取れ、体が次第に小さくなっていった。五センチほどになった勾玉はコロコロと転がって、穴から落ちた。穴を覗き込んでいると、次第に透明になっていった勾玉は姪のお腹にあたって、一瞬きらめき、そのまま吸い込まれた。

 パティとロックも穴から落ちていった。二個の透明な勾玉は姪の友人らしいそれぞれの女性の中に消えていった。

 今までのことを思い出しながら見ていると、次第に雲が多くなっていった。湧き立つ雲が穴を塞ぎ、やがて黒い土に変わった。もう一度見たいと思ってシャベルを手にしたが、今度は幾ら掘っても穴があくことはなかった。

 祖母に顛末を話すと、「あの子たちは元気になったからね。また魂を鍛えに行ったんだよ」と言った。

「鍛えに行った?」

 祖母は「ここで魂を癒やして修練してから、修行に行くのさ。向こうの世界にね」と答えた。

 私はふいに、にび色の世界が分かったように思った。病み疲れ、痩せ衰えていた体は、ここで生活している間に回復した。田畑の労働で、以前より体が筋肉質になっていた。

 虫やけものが少ない理由は、まだ魂がにび色の世界に来る段階ではないからなのだろう。

 にび色の世界の住民も、しろがね色の世界には行くことはできない。その先には、こがね色の世界もあるのかもしれない。

 幾重にも重なる世界を、魂は昇っていく。

 魂を鍛えながら、いつか完璧な魂になるために。

 ある日、祖母がショベルを持ってきた。「ここを掘っておくれ」と言われて、その場所を掘った。覗くと、二度ほど会ったことがある甥の妻が見えた。

「行くの?」

 私が聞くと、「おまえと暮らせて楽しかったよ。達者でな」と言って祖母は旅立っていった。

 祖母がいなくなった翌日、わたしは勾玉になっていた。三本指の細い手足だったが、案外生活には困らなかった。

 一人で家で生活するようになっても、私は祖母に教えてもらった農作業を続けた。ただ、一人で物思いにふけることも多くなっていた。

 ある日、自分の姿が戯画化した人のようだと気づいた。勾玉は胎児の姿に似ている、とも思えた。そう思うと、この家は子宮なのかもしれないと思い至った。

 一人暮らしが続いたある日、誰か居るような気配を感じた。ここに来て以来、始めて道に出た。歩いていると、自然と気配の方向が分かった。やがて見たことがある窪地に出ると、そのどん底に父が倒れていた。

 父が部屋の掃除に慣れた頃、母もやってきた。二人の面倒を見ているうちに、柿と枇杷は桃と林檎に変わっていた。

 父と母が回復していくにつれ、自分の旅立ちが近づいてきたという感じが強くなった。

 にび色の世界での私の生活は終わりを告げようとしていた。

 祖母はここが修練の場だと言った。にび色の世界の家は家族と励まし合って心と体を休める場所であり、次の生活に耐えられる心と体を作る場所なのだろう。

 だが、と私は思う。

 にび色の世界のことを忘れてしまってはいるが、大地の下に垣間見た外界も同じ修練の場なのだろう。そして、その世界の家も安らぎの場に違いない。

 ここでの暮らしを父と母が覚えたら、私の修練は終わる。

 その日も近い。

 ただ、気がかりなことがあった。

 私は多くの家の中から一軒だけ色がついている家に気づいていた。わずかだったが、その家だけが淡い色で彩られていた。

 そこには一人の少女が住んでいた。一人で住んでいるようで、時折思い出したように微笑む笑顔が美しかった。その笑顔に覚えがあるような気がするし、ないような気もする。

 家と家を隔てる川があり、その家には行けないと諦めていたが、数日前から下流からぽんぽん船が近づいてきていることに気づいた。

「あれに乗れば、行けるのかもしれないな」

 そう思いながら毎日見ていると、次第にこちらに近づいているように見えた。

 あるいは、舟は私が呼び寄せたのかもしれない。川はいつも必要なものを送ってくれていたから、私にはそうも思えた。

 勾玉になってしまった私が少女の家に行って、何かできるとは思えない。だが、私の行きたいという欲望はつのるばかりだ。

 それでも、それは単に私がそう思い込んでいるだけで、祖母やパティたち同様に父と母に地面を掘ってもらって誰かの子に、あるいは何かに生まれ変わるのかもしれない。

 どちらにしても、それは数日以内に決まるだろう。

 次の生活で修練の成果が出るといいと不安に思うし、今の思いを忘れてしまうことを残念にも思う。

 それでも…… この昂ぶりを抑えるほどではない。

 私はワクワクしながら、その時を待った。


- 了 -

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にび色パラダイス 久遠了 @kuonryo

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