第30話ネロ


ステイゴールドの建物から、7キロ程はなれた、小さな住宅街。

ひと気はなく、ひっそりと静まり返っている。


それぞれの家は、朽ち果てていたり、草に覆われていたりと、

以前の面影は残っておらず、自然に取り込まれていく途中のようだった。


その街を八雲とミミミが歩いている。


ミミミは、辺りをキョロキョロしながら、落ち着きなく八雲の後をついていく。

八雲は、ある外壁が所々取れてしまっている一階建の建物に入った。

外壁にかかっている表札は、すでに色が抜けてしまっており、ほとんど読めないが、

端の方に「…医院」という字だけが、かろうじて見えていた。


中に入ると、意外と明るい。

南向きの窓が多く、陽の光がよく差し込んでいた。


ミミミは、八雲を追い越し、いくつかあるドアを乱暴に開いていく。

そして、四つ目のドアを開けた。


その部屋には、南側と東側の窓が開いていて、陽の光と弱い風が入ってきていた。

小さなサイドテーブルの横にベッドが置いてあり、

その上に仰向けになり、文庫本を読んでいるネロがいた。


ネロは、ミミミに目を向けた後、半身を起こす。

ミミミは、何も言わずネロに飛びつき、全力で抱きついた。

ネロは、「うっ」と少し声をもらし、倒れそうになった体を手で支える。


ネロの腹に押し付けられたミミミの口からは、

言葉にならない、かすれた音が聞こえていた。


少し遅れて、八雲が部屋に入ってきた。

その姿を見てネロは、持っていた文庫本を、サイドテーブルの上に開いたまま置いた。

ネロは上半身は裸で、その体には、所々包帯が巻かれていて、

見えている顔や指先は傷だらけだった。


ミミミはそんな事は気にせずに、力をゆるめないまま、きつく抱きついていた。


八雲は少しの間、二人見つめた後、部屋の隅に置いてある椅子を持ってきて、

ベッドの近くに置き、腰を下ろし、ミミミの背中を何も言わずに見つめている。

ネロは、少し首をまわし、部屋の東側に開かれた小さな窓から見える空を眺めていた。


心地よい沈黙の後、ミミミが小さく震えながら、消えそうな声でつぶやく。


「……ネロはさぁ…弱いんだからさぁ…戦うなって…言っただろ……」


「……」


「…またぁ…こんなに……ケガしやがって……バカ……」


「……」


ネロの腹に巻いた包帯は、少しずつ濡れていった。


三人は、何も言わないままで、時間は通り過ぎていく。


どこか遠くで聞こえる、鳥の声…

サイドテーブルに置かれた、小さな置き時計の針の音…

たまに吹く風に、開かれたままの文庫本のページが、ゆっくりめくれる音…


その三つの音だけが、この部屋に時間を作っていた。


20分くらい経った頃、

もうひとつの小さな音が、部屋に降ってきた。


「…スゥ…スゥ…」


八雲は、初めて声を出す。


「…ミミミ…眠ったみたいだね」


ネロは、自分の体の一部のようにしっかりと腹にしがみついた、

ミミミの頭を見つめる。

薄い金色で少し桃色がかっている細く柔らかそうな髪が、

小さな呼吸とともに揺れる。


八雲は、座ったまま少し背伸びをしながら、

部屋を見回した。

家具はベッドとサイドテーブルしかなく、

部屋の隅に、ネロの持ち物が入ったカバンが置かれているだけだ。

サイドテーブルには、時計と飲みかけの水、

そして文庫本が一冊。

それしかなかった。


八雲は小さくため息をついて、


「……退屈じゃないか?」


ネロは、少し間を置いて答えた。


「……シュラが?」


八雲は、軽く笑ってしまった。


「フッ……

 見た目より…元気そうだ……良かったよ…

 ……おっと…忘れてた」


八雲は、持ってきていたカバンをさぐり、袋をとりだして、

ネロに差し出す。


ネロは受け取って手を入れ、中身を一つ取り出した。


「…」


ネロの手には、トマトが乗っていた。

八雲は、トマトを見ながら話す。


「キレイだろ?」


「………ああ」


「これ、自家製なんだ。

 あ……私達のじゃないよ……

 今、世話になってるステイゴールドが作ってるんだ。

 私達が住ませてもらってるビルの屋上がさ、菜園になってて…

 何種類もの野菜を育ててるんだよ。

 今朝、それを見せてもらってね…

 少しだけ、もらってきたんだ。

 きっと、体に良いと思うから食べてよ」


「…ああ」


「ステイゴールドは、長い間ここに住んでるから、

 こういう事もできるんだ。

 凄いよ。

 定住するのは…本当に色々と大変だろうけど、

 その効果は、とても大きい。

 ……そう思うよ」


「……そう…したいのか…?」


八雲は、スッとネロの目を見てから…

また、ネロの手元にあるトマトに視線を移す。


ネロも少し八雲を見て、トマトを見つめた。

トマトは、艶やかでみずみずしく赤い色を散らせている。


「な?

 キレイだろ?」


八雲は、そう言ってトマトを見ながら目を細める。

その目に映るトマトは、ナゼか、より赤く光っていた。


「……ああ…

 …こんな世界には……似合わない位に…な」


ネロは、そうつぶやいて、もう片方の手で、

小さな寝息をたてている、ミミミの髪をそっとなでた。

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