第2話月に導かれて

男はしばし逡巡すると「ロイヤルミルクティーを下さいな」と言った。

「お湯を沸かすので少々お待ち下さい」マスターはそう言うとポットにミルクを注ぎ簡易キッチンのような場所で火をつけそれを温め始めた。紅茶の茶葉が入った缶を出しせっせと準備をしている。

 男は女と一席空いている座席の淵に手を軽く握るように乗せ人差し指でタンタンとリズムを取るように叩いた。どうやら女に話しかけたいようである。顔は下を向けカウンターを見ているが、その顔が右側を向くと女に話しかけた。「僕は雨宿りに来てね傘は持っているのだけど、こう土砂降りじゃ濡れてしまう。一時期ここに退去してしばらくここにいることにした。貴女は傘も持っていないようだし、そしてここはお酒を本来出す場所のようだし、お酒を飲みに来た方かな?」

「まあ、そうね。仕事が早めに終わったので酒でもひっかけようかと飲んでいたのだけど、如何せんお酒に弱くてね、今は酔を覚ましている最中よ」女はゆっくり瞼を閉じると口角を伸ばししかめっ面を作った。その表情は可愛げのあるものでピンク色に染まった頬が口角を伸ばしたせいか少しふっくらとした。男はその表情に鈴の音がなるような小さな笑い声を出すと席を一つずらし女の隣にまで来た。女は男を間近にし、僅かに林檎の匂いがすることに気づいた。女は林檎の皮をナイフでキリキリと剥いていくことを連想し、それから今夜の夕飯のことを考えた。「今日の夕飯はどうしようかしら。未だ決まってないのよ」

「ここは何か料理でも出るのかい?」男は準備をしているマスターに問いかけた。ちょうどポットの温度が適温になったようで火を止めている。

「いえ、ここは簡単なつまみぐらしか出せません。二人共食事がまだならどこか食べに行ったら如何でしょうか」マスターはそう言うと紅茶を抽出するこまめな網目のついた網を取り出しその下にティーカップを置きロイヤルミルクティーを注いだ。紅茶の芳醇な香りが湯気とともに立ち上り鼻孔を通り胸をくすぐったく刺激した。そしてそれを男のカウンターに置くと「さあロイヤルミルクティーです、お待たせしました」と言った。

「ありがとう」男は礼を言い、少し口中を湿らす程度に飲み込んだ。「なんとも梅雨の時期で気分で晴れなかったがこの紅茶はそんな空中の雲間を晴らすように花の香りがする」そんな男に女は林檎の匂いがするこの男は体内でアップルティーにでもなるのだろうかと考えた。「そうそうマスターに言われた通り二人でどこかに夕食を摂りに行くかい?こんな大雨だけど、しばらくすればもう夜だし雨も小雨になるだろうから」男はそう言うとまたロイヤルミルクティーを飲み始めた。

「いいわ。どこか食べに行きましょう。もうお酒はコリゴリ、雨にはうんざり。料理は何でも文句は言わないわ」女はそう言うとレモネードを飲み干した。音楽は終わりBGMは雨音だけになった。しかしながらこの空間には男がいた、そしてこれから二人はどこかに料理を食べに行くそれだけで女の孤独感は何処かへと消えていた。ちょうど行く先不明の夢の終わりのように。ラブレターに羽が生えラブストーリーの世界に旅立つように。

「それでは僕が決めていいんだね」そう言う男に女はコクリと頷く。「僕は何が食べたいかなあ。女性と一緒だし気が利いた店が良いよね」男は顎を上げ頭を右側に傾け考え込んでいる。ロイヤルミルクティーのカップから湯気がしきりに上がっている。それを吸い込むように男は深呼吸をすると「洒落た焼肉屋さんがあるんだ。そこに行かないかい?勿論僕が奢るよ。たくさん食べてお腹いっぱいになろう」

 女はそれに異論はないようで「私、焼肉大好きだわあのむせ返るような肉の焼ける匂い、なんだかお腹空いてくるわ」女は男には分からない程度でつばを飲み込んだ。女のお腹は既に空腹であった。酒と水とレモネードそれらが経由され焼肉へと繋がっていく。

「そうそう聞き忘れてたそれと言い忘れていた。僕の名前は鈴原健。君の名前は?」

「私の名前はローゼンベリー」そう言うと女はしばし笑顔を作り「嘘よ、笹原茜子」

「笹原茜子さんか良い名前ですね。それでローゼンベリーというのは?」茜子はマスターと目配せをし声を出し笑った。

「先程こちらのお嬢さんにお出ししたカクテルです」いつしか雨は小雨になっていた。それも段々収まり雨は完全に終止符を打った。店の外は暗闇である。「雨が止んだようですよ。通り雨だったようですね」茜子と健は互いに外に目をやると明るい笑顔を作った。

「良かったわね、雨止んで。そろそろ行きましょうか?や・き・に・く」女はそう言うと上唇を舌で軽く舐めた。

 会計を済まし二人は外にでると生ぬるい外気に触れた。外気はメランコリックで透明であるものの微かにオレンジ色をしていた。匂いは雨の匂いがまだ残っていた。その匂いは夏の訪れが近いことを語っていた。アスファルトは水滴があちこちに飛んでいて、凹んだ場所では水たまりを作っていた。

 二人はふと空を仰ぐと雲がすーっと流れ満月が現れた。月光と近くにある電灯が混じり合い今まで場所がバーの電球色のライトだったせいかそれらは鋭利な輝きを放っていた。



 その晩、二人はホテルに行った。茜子は健が全裸になると林檎の匂いが強くする彼の性器を口に入れフェラをした。茜子は匂いの源がここにあることを理解しその生くさい林檎の匂いを勢い良く吸い込みながら精子が出るのを待った。

 暗闇の室内を月光が淡く照らしている。その月光は肌寒いまでの薄い黄色で透き通りそこを辿り近づくにしたがい濃く黄色の世界があることを感じさせた。どこか別の世界の入り口のように思えるその月であるがそこから離れ純度が薄まった薄い黄色の中に二人はいる。二人の世界に黄色い花びらが際限なく落ちて同時に奈落の底へと落ちていく。

「ごめん、実は私恋人がいるの。だからフェラだけ」茜子はそう言うと目を伏せた。「あなたのことは気に入ってるし最後までしたいけれど、恋人は裏切れない」

「わかった」健は悲しそうにそう言うと裸のままベッドに横になった。「月明かりが綺麗だ」カーテンを少し開けると健はそう言った。健は茜子に恋をしていた。どこか寂しい面持ちをしたその女に。健は幾分やりきれない気持ちを慰めるため月明かりを見ていた。

 そして二人はベッドに入り眠った。二人は夢を見た。二人の見た夢は同じだった。

 宇宙服も着ず裸のままで月の上で二人は少し離れて立ち二人の中間には二メートル先に天井の付いたベッドが置かれていたベッドの色は濃い黄色で二人は何も口を交わさないまま同時にベッドに入り横になった。天井が邪魔になり星空が見えない。天井は闇の色黒一色だった。

 すると天井はザーと砂嵐を流し次に映像を映し出した。映像は90年台のテレビのように画質が荒かった。流れた映像は青空でありそれは夏の青空に思えた。次にどこかの公園の場所で二人がベンチで座り楽しそうに話している。音は聞こえない。宇宙というのは無音だというがこの夢の中でも無音に包まれ声も発せない状況にあった。数十秒その映像が流れると再び砂嵐が流れプツンと下の黒一色の天井に戻り、それから徐々にその天井は透明になり星空が見えてきた。そこで二人の夢は終わった。

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