人肌の温度
眠る乃符時個
第1話雨宿りの場所で
酒を飲んでいる女はアルコールの匂いのするため息を吐いた。女の性器は薔薇色に熟れしっとりと濡れていた。履いているパンティーに接触する部分から汗混じりの香りが立ち上るようだ。
あるバーのカウンターでである。そのバーは電球色のライトを煌々とつけこげ茶色のつやつやとしたカウンターを照らしている。時刻は夕方前、バーは四時から開き、そして始めの客がこの女であった。女の服装は白色の肩から腰の下まである服であり、上から植物のツタのような模様が黒地で描かれている。その上に同じく白色の革製のポシェットをかけやってきた。
「このお酒なんという名前なの?」女は酒を傾けながら言う。
「いちごのリキュールにバーボンのフォアローゼスを混ぜたものです。名付けてローゼンベリーです」マスターは得意気に言うとサルバドール・ダリ風の髭を唇とともに上げニコリとスマイルをした。
「聞いたこと無いお酒ね。でも美味しいわ。いちごの酸味が口いっぱいに広がって誰かの青春を封じ込めているようだわ」女はそう言いながら喉を鳴らす。グラスを机に置くとカラリと中に入った氷が乾いた音を立てた。
その音を互いに聞き一拍二拍を置きマスターが「何か音楽でもかけますか?」と訪ねた。
「そうね、何がいいかしらね」女は目元を選曲に悩むラジオのDJのように鋭くすると「マイルズ・デイヴィスのSomeday My Prince Will Comeがいいわ」と言った。
「OK」マスターは軽くそう答えるとPCを弄くり始めた。きっとその中に自慢の音楽が沢山入っているのであろう。パチパチパンとキーボードを押すと音楽が流れ始めた。
「ああ、いいわね。私はこの曲のピアノのような人生を送りたいと思って、大学を卒業して直ぐの頃かしらね、その頃に初めて聞いて思ったのよ」女はそう言うがマスターはデヴィッド・リンチスマイルをしている。
時が遡りバブルよりも前の時代になったようだ。酒とジャズは時を戻す働きを時にするようだ。女も少女のような顔をしている。そして体が熱くなったのか酔いが回ったのか、女の香水の匂いがふわりと漂った。柏餅にフローラル系の匂いをつけた代物であった。いつしか女は瞬きを遅めに繰り返し、眠たそうにしていた。
「お客さん、雨が降ってきたみたいですよ」外を見やればざらざらとしたアスファルトに雨滴がパシャパシャと弾けていた。もののしない内に大雨になり外は暗くなった。しかし暗くなったとは言うものの真っ暗闇ではなく、夕方の闇で閉ざされた具合である。音楽は終わり雨音が室内を包み込んだ。途端に女は寂しい気持ちになった。今の時期は六月の梅雨の時期であり、晴天が好きな女は雨が嫌いであった。この時期は「気に食わない」それが女の毎年の口癖であった。
「はぁ・・・」女はまたため息を吐いた。今度は雨の匂いが女に染み込み植物のツタが描かれている服から顔を出した花のような女の顔は薔薇色に染まっていた。カクテルのようになった女は「傘持ってきてない・・・」と呟くように言った。
「そんなことあろうかとこの店では傘が有るんですよ。貸してあげますから今度来た時返してください」マスターはそう言った。
「そうね、ありがとう」女はそう言うとつばを飲み込み「水をちょうだい」と言った。
「飲み過ぎですね、お客さん。美味しい冷たい水ですね。直ぐ出来ますよ」とマスターは言った。「先程のお酒は強いですからね。飲みやすいものの飲み過ぎちゃダメです。当たり前のことですが肝心なことです」そう言いながらマスターは後ろ姿を見せながら冷蔵庫からエヴィアンを取り出した。グラスにそれを注ぎテーブルにそっと置く。「さあこれを飲んで酔い覚ましてください」
女はその言葉を受け入れ喉をごくごくと鳴らし飲んでいる。外国のミネラルウォーターであるが飲みやすい硬度でそれは冷たく美味しかった。
六月の梅雨が過ぎやがて夏が来るまでの時間が女には長い時間に思えてならなかった。それでも時間は過ぎていくものだ、そう女は繰り返し自分にいい聞かせていた。そんなことを女は水を一気飲みしながら思っていた。「ああ、美味しい。人間に必要なものは水よね、酒じゃないわ。酒は魔物よ」女はそう言うと冷たい水で冷えた口から冷気混じりの吐息を吐き出した。顔は段々と普段の色に戻ってきていた。
「それではうちは魔物を扱う魔物園ですね。怖い怖い」マスターはおどけてそう言うと自分にも水を注いで飲んだ。水浸しになった両者の体内と外の景色は同じように濡れていた。一番濡れていたのは女の精神かもしれない。一時的に少女の時間に巻き戻った女は青春を追体験しそんな暁に女の嫌いな雨が降ってきたからである。その心の硝子の窓は涙という雨滴がたらりと幾筋も垂れていた。幾分悲しくなった女はいつの間にか涙が流れていた。春が過ぎれば或いは春の内に梅雨が来てしまう、ただそんな簡単なことなのに女は悲しくなったのだ。それが過ぎていないのが女の今の時期であった。今の学生を卒業し仕事を始め友人と疎遠になり青春が終わりを告げクタクタとなった体に打ち付けるのは恵みの雨ではなく悲痛な魂を穿つ雨であった。
ザーザーと縦に斜めに線を描いて雨が外に打ち付けていた。「この雨の音は体に毒だ」マスターは物憂げに呟くと「今度は僕が音楽を選びますね。今のあなたにあったものを」そう言ってPCを打ち込んできた。
流れた曲は大滝詠一の雨のウェンズデイだった。ちょうど今日は水曜日、しかも雨降りである。音楽は雨音と一緒に鳴っている。二つは共鳴し色彩を途端に変えていた。穏やかな時の流れに変わっていく。女の涙ももう流れなかった。
「結構いいわね。でも私雨は嫌いよ」女は涙で濡れた頬で微笑すると「レモネードを作ってちょうだい」と言った。
その反応にマスターはデヴィッド・リンチスマイルを浮かべると「OK」と言った。そそくさと冷蔵庫からレモンとサイダーとシロップを取り出し丁度よい具合にグラスに足していきマドラーでかき混ぜ最後にレモンの切り身をグラスに突き刺すと女のカウンターに置いた。音楽はスピーチ・バルーンに変わった。どうやら大滝詠一のA LONG VACATIONの曲順通りに流れているようだ。
女はストローでちゅーと出来上がったレモネードを飲むと「何か単純な味ね」と言った。「レモンの青い香りとシロップの甘さそれに炭酸のシュワシュワ感でゆるぎない優雅さといったものを感じるわ。エネルギッシュガールといったところねこのドリンクは」
「いえ、レモネードです」マスターはそう言った。それはまるで釣り餌の誘いに乗らない魚のようであった。
「そうなんだ」女は高らかに歌い上げるようにそう言った。ちゅーちゅーとレモネードを吸う。喉をこくりと鳴らす。すると入り口のドアが開き、一人のスーツの男が入ってきた。肩が雨で濡れているが手には傘を持っている。黒色の鞄を片手に下げている。
「濡れてしまったよ」男はそう言った。女はちらりと男に目線をやり上目遣いで男の靴先から頭までを眺めとった。そんな女を男はちらりと見ると女の席と一つ距離を空けカウンターに座った。男は林檎の匂いを僅かに纏っていた。その匂いは香水ではなく男自体から発しているように思えた。その男がバーに登場したことによりまた一つ楽器が増えたようであった。男の担当する楽器はコントラバスにあたいした。コントラバスの形をした林檎、林檎の形をしたコントラバスである。
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