第二章 ツギハギ(65)

 昔々、あるところに孤独な若い男がおりました。男は、年寄りの爺と二人で暮らし、木こりとして身を成しておりました。しかし、男の心は孤独でした。歳のいった爺は、「うん」「あぁ」としか返事のない寡黙な爺で、村には男と同じような若い者もそうおりません。


 母や父も幼い頃に亡くしていた男は、余計に孤独でした。


 ある雪の日、男と爺は深い深い森の奥で道に迷ってしまいます。通い慣れた森の奥ではありましたが、どういうわけかその日は吹雪になるのも早く、道が全く分かりません。まるで違う場所に迷い込んだような感覚になる日でした。


 それでも二人はどうにかして、山小屋を見つけると、そこで一夜を明かすことにします。こんな吹雪の晩に、火が消えてしまえば、朝には誰も目覚められません。


 男は爺が眠ったあとも、時折り目覚めては火の番を行いました。

 そうして夜もふけ、薄気味悪い満月が空の真上に身を置いたとき、小屋の入り口から雪が流れ入ります。


 浅い眠りでまどろんでいただけの男は、すぐに目を覚ましました。

 顔を撫で付けるような寒さに、慌てて火を見ると、不思議なことに赤々と薪は燃えています。


 薄くもろそうな小屋の戸だったため、風で開いてしまったのだろうと、身を起こそうとした時、男は気がつきます。

 自分の体が全く動かせないことに。


 一体、どうしたことなのか。


 爺を起こそうと声を出そうにも、言葉を話すこともできません。

 自由に動かせる眼を、向かいの爺の方へ向けた時、男は魅せられます。

 真っ白な肌に同化するような真っ白な着物。その白に重なる艶のある長く黒い髪。


 和紙のような透けた布を被きにした女が、爺を見下ろすように立っています。

 そうして、ゆっくりと身を屈めると少しばかり開いた爺の口の真上に自身の口がくるように、顔をぐっと近寄せました。


 爺の口から弱々しく光る小さな光が吸い上げられ、あっという間に女の赤い口の中に消えていってしまいます。



 あぁ、あれが雪女なのか。



 吹雪の日に森で迷った者の命を食らう化け物の女を、雪女という。 

 男は、村に伝わるそんな昔話を思い出し、次は自分なのだと思っていると、立ち上がった雪女がこちらをじっと見つめています。


 切れ長の瞳は、肩から流れ落ちる黒髪と同じ色をしています。

 男は怖いとは思えませんでした。恐怖の感情よりも、雪女の美しさに心を奪われたからです。


 一生を木こりとして貧しく生き、村に余った女を嫁にもらわなければならない運命でしかないのであれば、今夜、ここであの美女に命を奪われた方が良い。


 そんな気持ちさえありました。


 一陣の風に、男は瞼をぎゅっと合わせます。風がやみ、瞼を開けた時にはもう、雪女の姿はありません。


 はっと体を起こそうとしたとき。

 男の体を何かが押さえつけました。


 耳元でしんしんとした雪の音のような声が囁きます。



「お前は、殺さないでおいてあげましょう。

若くて力の強い男の命の方が美味しいけれど、お前の心は雪のよう。

私と同じ……。

可哀想なお前を生かしてあげます。

だけど……今日あったことを誰かに一言でも話せば、その時はすぐにお前を殺しに行くからね。


それが掟だよ、私とお前との命をかけあった……。


私は、いつでもお前のことを見ているからね……。」



 体が軽くなったとき、辺りを見回すと小屋には誰もいませんでした。

 ただ冷たく事切れた爺が、眠るように横になっているだけです。



 それから一年の時が経ちました。村の者は何があったのかと、男を取り囲み、毎日のように話をせがみましたが、それも今はありません。

 元より孤独だった男の生活も、爺がいなくなったところで何も変わりませんでした。


 ある夜、村を猛烈な吹雪が襲います。誰も彼もが戸や窓を閉め切り、決して入り口となるものが開かないように閉めています。



 そんなことをしても意味などないのに。



 男はそう思いながら、入り口をいつものように軽く木をはめ閉めました。

 いろりに当たりながら、遅めの夕餉を食べていると、すぐ近くにある入り口を誰かが叩く音がします。



 こんな吹雪の晩に……。



 気のせいだろうと思っていると、今度は強めに戸が叩かれました。

 男が慌てて入り口を開くと、外には藁の笠に雪を乗せた女が、肩を震わせ立っています。


 上げられた女の顔は、色の白い器量良しな顔でした。

 吹雪にのまれそうな、か細い声で女は話します。



「すみません。

道に迷ってしまい、泊まるところもありません。


一晩、泊めては頂けませんでしょうか。」



 女の声を聞いていると、どういうわけか初めて耳にしたような声には思えません。

 男は女を家の中に招きました。



「金がないから、大した食いものはないが、汁ならある。

食うか。」



 いろりの向かいに腰を下ろした女は、ゆっくりと首を縦に振りました。

 男はその日を境に孤独を失いました。


 一夜だけと言った女は、翌日も、その翌日も、男の家から出て行かず、気付けば洗濯をし、気付けば飯の用意をして男の帰りを待っています。それを嬉しく思った男は、そのまま女を家におき、夫婦となりました。


 妻となった女の素性も、あの吹雪の晩にどこへ向かおうとしていたのかも、詳しいことは知りません。聞いても答えてはくれないので、男もいつからかその質問をしなくなりました。


 女の過去など、男にとってはどうでも良かったからです。


 ただ、喉元まで出かかる初めて会った気がしない、という言葉だけは、どうしてか、いつまで経っても男の喉元に引っかかったままでした。



 それから年月は流れ、男と女は七人の子にも恵まれます。


 男は幸せでした。


 会話をするということ。


 誰かが家で帰りを待ち、誰かを自分が待っているということ。


 金は思ったように稼げなくても、女がいれば幸せでした。


 女との子に囲まれて満たされていました。



 上の子が八つになった冬の夜。


 外が吹雪き出したのが、風の音で分かります。

 男はいろりの側で横になり、女もその側で子の着物を繕っていました。

 隣の部屋に寝かせた子供達の顔を遠目に見ていると、喉元にぶら下がったままの言葉がこみ上げてきます。


 それに引きずられるように、忘れたふりをしていた、あの山小屋での出来事が男の記憶を駆けていくのです。


 誰にも話さず秘めてきた出来事を、愛しい妻と共有したい。愛しい女と秘密を通わせたい。



 誰も知り得ぬ秘密を……。



 女の色白の横顔を見て男は口を開きます。



「なぁ。」



「はい。」



 繕い物をしたまま女は答えます。



「こんな吹雪の晩には、いつも思い出すことがあるんだ。」



 外で何かが倒れた音が聞こえ、男は何となく入り口へ視線を向けます。



「昔、爺さんが生きてた頃……。

山で迷ったんだ。

こんな吹雪の晩に。」



 女は返事をせずに繕い物をしています。



「そのとき、綺麗な女が現れて爺さんを殺しちまったんだ。


……雪女が……。


その女が、お前に似てる気がして……。」



 女が繕い物を置き、立ち上がった気配がしたので、男は再び顔を女の方へ向けました。


 いろりの側に置かれた子の着物は、まだ縫い終わっていませんでした。



「……なんだ、まだ終わって……。」



 見上げた女の顔は、いつか見た雪女です。男は恐怖を覚え、慌ててその身を起こし、後退ります。



 一歩、一歩……。



 後退するほどに雪女は、被きの布を揺らしながら前進してきます。



 いつか見たままに顔は美しく、見慣れた妻の面影があるというのに、目には怒りの色が滲み、赤く血走った線が見えます。



「やっぱり……お前……。」



「何故、話したのです……。

この九年……話さずにきたことをなぜ……」



 男の背に壁がぴったりくっつきます。



「すまない……悪かった……。」



 男は泣きました。



 自分が死ななければならないということよりも、目の前の妻であった女や子供達と離れなければいけないことが、ひどく恐ろしく思えたからです。



「あの日、約束しましたよね。」



 雪女の片手が男の顔に伸ばされます。



「話したら、殺すと。


命をかけ合った掟だと……。



憎い男。



恩を仇で返すような、忌々しい男め。



本当なら今すぐにでも殺してやったというのに……。



だけど、後ろで寝ている可愛い我が子の父親はお前。



…………。それに免じて、命は取らないでおいてあげましょう。



 もし、あの子達を大切にしなかったら、あの子達を迎えに来て次は必ず殺します。」



 雪女は伸ばした氷のような冷たい手で、男の頬を一撫ですると、一陣の風になり、

姿を消しました。



 男はへなへなとその場に座り込み、途中で終えられた繕い物に目を向けます。 



 最後に見た雪女の顔が、悲しげな老婆に見えた気がしましたが、何故そんな風に見えたのか、男には分かりませんでした。


 気のせいだったようにも思えます。


けれど今はただ、雪女でも妻であった女を失った悲しみで胸が痛く思われることで、男はいっぱいいいっぱいでした。



 翌日、目覚めた子らは母親がいないことに気付きます。それでも、そのことを男に深く尋ねようとはしてきません。 


 子でも分かるほどに男は悲しそうな姿をしていたからです。

 


 子らは男を散歩に誘います。


 昨日の吹雪を忘れたかのように、外はお天気でした。


 手を引かれながら外に連れ出された男は、玄関先に白い花を見つけました。


 雪の中から咲くその一輪は、純白の花です。



 彼岸花によく似たその白い花を男は手折り、妻がいつも座っていたいろりの側に飾りました。



 飾られたその花は、何故だかいつまでも枯れることなく、ずっとその身を開き、咲き誇っていたというそうです。



男が死に、子が死に、その孫が子が……。


命が繰り返されるなか、いつしかその花は家から捨てられますが、いまでも枯れることなく、密かに咲き続けてるといわれています。



誰にも見られず、触れられず、ひっそりと、一輪寂しく。




~ツギハギ了~

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