第二章 ツギハギ(57)
「何かしたのか。」
腕で鼻を隠す土方。
元から薄い着物であるが、その布すらも意味を成さない異臭。
「お前らの頭の中を読めないように術をかけた。」
鈴音が答え終わるのに重なって沖田が嘔吐き出す。
「総司っ。」
近藤は自身の胸板に沖田の顔を押しつけた。
「何とかならないのか。」
土方の声に、鈴音は一歩後退する。
結界を張れば、この現状はどうにかなるはずである。
しかし、それをするには決まった順序で近藤達の周りを歩くか、決まった点に置き石をして境目を作る必要があった。
結界に関しては呪文一つで効率よく張れるものではない。
鈴音が、ゆっくりと足を後ろに滑らせると、さとりはその倍、前に足を動かした。
「気にいらない。
でも、苦しそう。
嬉しい。
もっと苦しめば良い。」
さとりの瞳に光が戻る。怒りと恍惚に満ちた輝き。
着物とも呼べないような粗末な布きれの胸の袷から、さとりは笛を取り出した。
「おい、あれ。」
くぐもった土方の声に、鈴音は頷く。
「羽召流(はめる)の笛だ。」
この場にいる者で、あの笛の影響を受けるものは決まっている。
大人であれば童の頃に返りたい、と過去への執着が強い者に力を発揮する。
だが、その効果が強く出た沖田はもう幼い姿になっているというのに、笛を持ち出してどうするつもりだ。
鈴音は後退しながら、足下の雪をさっと分け、手頃な石を拾う。
その動作を五回ほど繰り返し、石を握った手を近藤達の方へ伸ばす。
「これを星形に配置してくれ。」
さとりの方を見ながら鈴音は声を掛ける。
「おい、どういうことだ。
五つでどうやって星形なんかに配置する。」
手が軽くなるのを感じながら、彼らには一番始めに結界について教えようと鈴音はげんなりする。
「星形の角、五点の位置にその石を配置して、その中央に入れ。」
分かった、ぶっきらぼうな返事の後、がさがさと衣擦れの音が聞こえる。
鈴音は、煽るように近づくさとりを睨めつけた。
目の前で敵が何かを企てているというのに、落ち着いたままでいるさとり。
鈴音は苦虫を噛みつぶしたような顔になる。 どこからの余裕かは薄々勘付いていた。
結界を張った所で護られるのは、恐らく……。
「おい、できたぞ。」
振り返ることなく、鈴音は呪文を唱えた。 すると土方の配置した置き石の点と点を繋ぐように光が伸びては消える。
一瞬のことに土方は目を凝らしてみるが、もう光は見えず、ただ石が転がっているだけであった。
失敗だったのか。
そう問い掛けようとした土方は口を閉ざした。
「トシ……。
臭いがしなくなったな……。」
同じ事を考えていた近藤は、呆けたように感心している。
「総司、もう臭いはしないぞ。」
胸の中で縮こまる沖田は、顔を上げようとはせず、嘔吐きも治まらない。
近藤は様子を見守っていた土方と顔を見合わす。
「す、鈴音さん。
総司だけ、まだ苦しそうなんだが……。」
背中を向けたままの鈴音は口を開く。
「……。
そいつには結界が効かなくなってる。」
さとりがにんまり、悦に入った顔で鈴音を見つめる。
「どうしてなんだっ、何で総司は……。」
「そいつは呪いにかかってる。
前も言ったが、苦しんでなかろうと何かしらの変化が術で起こったのなら、そりゃもう呪いなんだ。
良いも悪いも、受けてる期間が長けりゃ長いほど、呪いは体に巣くう。
木の根っこみたいにどんどん体中に広がっていくんだよ。
……そうして……。
広がれば広がるほど……呪物と術者との繋がりが濃くなっていく。」
さとりが小躍りをしながら笑う。
そんな知識を持つ妖怪ではないはずなのに……。
「どうにかできないのだろうか。」
「体の中に、さとりが……敵がいるようなもんなんだ。
だから、その元を絶つ以外にはない。」
「笛ってことか。」
土方の問いに鈴音は頷き、さとりに向かって地面を蹴った。
さとりは笛を口にあて、息を吹き込む。
その場の大人には、何の音色も聞こえない。鈴音がかろうじて妖力の流れを風で感じる程度だ。
だが、笛の音を耳にすることが出来る沖田は苦しみ出す。
それは涙が滲むほどの物が腐った臭いによるものだけではない。
沖田の脳に響く弾んだ音は、彼が閉めたはずの記憶の引き出しを開いていく。
見たくもないもの。
聞きたくなかった言葉。
数珠繋ぎに思い出されるそれらに、沖田は嘔吐した。
「総司っ。」
近藤が自身を揺さぶる。
腕の中は心地良かったはずなのに、そんなことを思う余裕も与えられぬまま、異臭と記憶の波が沖田の意識を取り込む。
こんな事があっただろうか……。
現実にあったことなのか、自分が思い込みで作り出したものなのか。
どちらがどうであったのか。
考えることもできない。
涙が流れる。
言葉の代わりに嘔吐きと嘔吐がこみ上げる。
「総司っ、総司っ。」
近藤の声が震えている。
泣いているのだろうか……自分のために。
土方の呼び掛けも聞こえるが、悪態をつくこともできない。
そんな声をもろともしない闇が迫ってくる。
般若の形相が自分を叱る。暗い物置、寒い外、木刀で一歩的にぶたれる痛み。
般若が笑う、歪んだ笑みだ。
でも、その笑みが欲しいなら、ぶたれたくないなら、捨てられたくないなら……。
頑張らなければいけない。
言う通りにしなければいけない。
般若に姉の顔が重なる。
自分を近藤のいる道場に捨てた姉の背中。
一度も振り返ってくれなかった背中。
やっぱり頑張っても捨てられるなら、どうすれば良いのだろう。
答えは決まっているじゃないか……。
頭の中で声がする。
嫌な声だ。
さとりの声にも姉の声にも聞こえる嫌な声。 分かっているのに聞きたくもない、そんな答えを告げようとしてくる。
沖田は首を振る。
「嫌……。」
「総司っ、頑張れ。
今、鈴音さんが戦ってくれてるからっ。
もう少しだ、総司っ。」
「嫌……姉上……。」
近藤は、はっとする。
沖田がどうして苦しんでいるのか。
その察しがついたからだ。
「卑劣な……。
総司の心の傷を抉るような真似を……。」
抱きかかえた腕が震える。
鈴音はまだなのだろうか。
近藤が見ると、鈴音は必死にさとりとの距離を詰めようとしている。
どこから表れたのか分からないが、さとりを囲むように童が集っていた。それに苦戦を強いられているようである。
さとりを護るよう操られた童達は、鈴音に攻撃をしてかかるうえに、自傷をして見せていた。
近藤は腹がむかむかしてくるのを覚える。
幼い童を……。
奥歯がぎりっと音を立てる。
それを横目に土方は柄に手を添えた。
さとりは無理でも、あのガキだけでもどうにかできるように思えたからだ。
妖物は相手にできなくとも、その周りの人間を抑えることくらいなら何とかできるのかもしれない。
ただ、この結界からでるということが反って鈴音の足を引っ張ることにもなりかねない。 指を咥えて見ているだけの自身の絵面に、土方は唇を噛む。
「早くしないと、みーんな……死んじゃうよ。」
鈴音は、ちらと結界の方を見た後、呪文を唱える。突風が童達をなぎ倒し、さとりへの道が開かれた。
妖物の周辺はがら空きになり、何の護りもない。
一気に駆ければ……。
鈴音は足を止める。
踏み出そうとした瞬間、視界の端に童達が立ち上がる気配を感じたからだ。
そのくせ何故か攻撃をしてこない。
理由は分かっている、見るまでもない。
薙ぎ払われた童達が、自身の首に短刀の切っ先を押し当てて、こちらをみていることなど、察しがついたからだ。
致命傷とならない怪我をさせる程度なら、鈴音は躊躇わず、さとりに突っ込むであろう。
ただ、その場で命が奪われるとなると意識せずとも足が止まる。
前回のように強気でいくには、あまりにも人質が多すぎたのだ。
何かしらの動きをさとりに覚られたのなら、この場にいる童は刹那に命を失うことになる。
「どうするかな、どうするかな。」
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