第二章 ツギハギ(56)
土方は突然の物音と気配に、いち早く反応し境内の方に顔を向ける。
先刻まで腰を掛けていた鈴音の姿がない代わりに、鞘がその身を転がしていた。
抜刀……。
空気が素早く真上から落ちてくる。
微細な変化に、土方がふと顔を上げると頭上には鈴音の掌が見えた。
日頃の癖で体がその手を撥(は)ね除けようとするが、彼は普段とは逆の意味で体を力ませる。
顔面に華奢な手を感じたのは暫時のこと。しなやかな五本の指は、力強く土方の顔を鷲掴む。
後頭部が地面から引かれるように、彼の体が湾曲になると、同じ頃合いに視界が晴れ右肩に重い衝撃が走った。
「悪ぃ。」
耳元で申し訳なさそうな鈴の萎びた声がする。
舌打ちをするよりも先に、土方は腹に力を込めた。右肩に乗った華奢な足が高々と宙に上がれるように。できる限り土台の揺れを堪え真上に上げてやる。
足下をよたつかせる土方を背中に、鈴音は刃を構えた。
遊びに夢中の近藤達も流石に異変に気がつく。
「何事だ。」
目を見開く近藤の眼前に、抜き身を持った鈴音が飛び迫っている。
訳は分からぬが、兎に角、総司を護らねば。 近藤は鈴音から目を反らさずに、沖田が立っていたであろう場所に手を伸ばす。
幼子の肩らしきものに手が触れると身を屈め、それを掻き抱くように腕に収めた。
小さな体がすっぽり腕に包まれる。
これで総司は護ってやれる。他の者は……。
気付けば式神達の姿がそこにはない。
総司一人を護ってやれる。
力が分散しないことに安堵した近藤は、土方の声を聞く。
自分の名を叫んでいる。
俺なら大丈夫だ。
そう叫び返そうとした時、生臭さが鼻孔をつく。
血生臭い、魚類の腐った臭い。
総司は、こんなに臭かっただろうか。
顔をしかめながら、近藤は間近に迫る鈴音から自然と顔を背け、自分の腕の中の童を確認しようとした。
赤い。
視界に映る全てが、ゆっくりに見える。
真っ赤に開いたな穴に、白く尖った乱杭歯。 そこから漂う腐臭。
「そう……じ……。」
腕に捕らえた童は沖田ではない。
囓られるっ……。
鼻先に近づく異臭に、近藤は腕の中のそれを慌てて突き放そうとするが、それは彼の腕を掴んで離れない。
童とは思えない強い力であったが、本来の近藤の腕っ節であれば投げ飛ばせる程度の力であった。
だが、童の姿に力を弱めた彼の優しさが仇となり引き離すことが出来ず、距離が近すぎて押し返す以外に手を打つこともできない。
「くっ……。」
食い縛った近藤の歯が、ぎりっと音を立てた時、険しく狭めた目に閃光が走って見えた。 どんっ、という衝撃。
近藤の体は仰け反り、目の前の化け物と体が剥がされていく。
「近藤さんっ。」
傾く体をさらに後ろからも引かれ、近藤は転がるように石畳に倒れ込む。
雪が着物から入り込む冷たさを感じたとき、自身を庇うようにして尻餅をついている土方の姿が目に入った。
「怪我はねぇか。」
立ち上がった土方は、近藤の脇に手を入れ持ち上げるように引く。
「あぁ、助かった。
総司は。」
辺りを見渡すまでもなかった。
袴を下に引かれた気がした近藤は、頭を下に向ける。
見慣れた無表情の沖田がそこに立っていた。
瞳の奥がわなないている。
だが、それを覚られまいと振る舞う童の姿が、近藤は悲しくも誇らしくも思えた。
「偉いな、総司。
怖がらないなんて、偉いじゃないか。
お前は立派な侍だなぁ。」
ごつごつした大きな手が沖田の頭を撫でる。
「さ、総司。
俺から離れるんじゃないぞ。」
近藤が沖田を抱き上げると、土方が代わりにと手を出すが、彼はそれを拒んだ。
「大丈夫だ、トシ。」
土方は渋々頷き、彼らは雁首揃えて鈴音のいる方を向く。
頭をかたかた揺らして笑うさとりと、白刃を構えた鈴音が間合いを取り合っている。
「痛い痛い痛い。」
さとりは、にたにた笑いながら顔を押さえている。近藤から引き剥がす際に鈴音が拳をぶつけた鼻から血が流れた。
「あいつと他の連中を元に戻さねぇんなら、もっと痛い目に合わせっからな。」
横一文字に払えるよう、鈴音は胸前に刀を上げる。
さとりのことは、いつでも仕留めることができた。ただ、羽召流(はめる)の笛に秘められた力が他にあるとしたら。
さとりに笛を渡した誰かが罠を仕掛けていたら。
あらゆることを想定すると、笛を力尽くで奪ったり破損させることは危険であった。
鈴音はじりじりと距離を詰めながら、さとり以外の気配を探る。
目の前の妖物以外に怪異の気配は感じられない。
「怖い、ねぇ怖いの。」
さとりのこぼれ落ちそうな目玉が、沖田を見ている。
「話かけんじゃねぇ。
お前みたいな気持ち悪ぃのが話掛けてきたら誰でも怖いに決まってんだろ。」
沖田への注意を逸らすために、鈴音が二人の間に入り込む。
さとりの頭がくるくる回る。
嬉しそうに耳まで裂け開いた口からは、涎が滴った。
鈴音は最善を考える。だが、他の妖物の気配がない以上、追加の襲撃はおそらくない。
説き伏せて笛を大人しく渡し、皆を元に戻す様子でもない。
そうなってくると選択肢は一つ。
鈴音は一気に片を付けるため、腰を僅かに下げ片足を後ろに引く。
飛びかかるための体勢は整った。
さとりは笑う。
「今、飛びかかろうと思った。」
鈴音ははっとする。
霊力の強い者やそれを意図して使えば、心を覗かれることはないはず。
その力が乱れるような動揺があれば、その隙から読まれることがあるが、今の鈴音にその心配はない。
何でだ……。
さとりが飛び跳ねながら声を上げて笑う。
今なら……。
さとりは単純だ。頭はそれほどない。あいつに知れた攻め方だろうと関係ねぇか。
「飛びかかろうとしているの。」
鈴音が腰を入れ直したのと同時に、さとりが覚る。
あたいが気付いていないだけで、やっぱり近くにあいつの仲間が……。
そこで鈴音は、はたと気がつく。
近くの奴……。
言葉を口の中でなぞりながら振り返る。
「おい、誰かあたいの動き見て、今から何するかとか頭に描いたりしてねぇだろうな。」
大の男の目線が直ぐさま合わなくなる。
まん丸な愛らしい童の眼だけが、こちらを向いていた。
「こっち見んな。
あたいの動きで何も考えんな。
筒抜けになんじゃねぇか。」
悟られる原因が判明した鈴音は、少々声を荒げる。荒げたところで、普通の人間にはどうしようもないことだとは分かっていた。それでも、二度の出鼻を挫かれた無念さをぶつけずにはいられなかったのだ。
先にそれを封じるか……。
さとりに向き直ると、変わらず笑っている。 悟る力そのものを封じ込めることは、さとり程度の妖物に対してなら容易い。
しかし、相手も無抵抗にさせてくれるということはないため、その反発を抑えながら封じるとなるなら、人間側の思考に幕を下ろす方が無駄に力を使わずにすむ。
「もどかしいと思った。
力が及ばないと思った。」
さとりが一歩近づいてくる。
近藤の申し訳ない、という言葉と鯉口を切る音が聞こえた。鬼の我慢の限界なのだろう。
これ以上、さとりの覚りが彼らを、特に土方を煽らせないために、鈴音は呪文を唱える。
さとりは笑顔のまま声をださなくなった。 嫌な臭気が強くなる。
「あれ。
あれれ。」
首をくるくる回すさとり。
臭いがさらに強まり、近藤達が顔をしかめる。
「んんっ……。
この臭いはたまらん。」
「あれれ、あれれ、あれれ。
見えない。
見えない。」
笑っていない。
表情は変わっていないが、目の光が虚ろだ。墨汁から光沢を消し去った真っ黒な瞳の奥。
さとりの目に怒りが見える。
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