第二章 ツギハギ(55)
「さっきはすまなかったな、鈴音さん。
いや……。
さっきも、の方が正しいのやも知れん。」
困り眉のまま、こちらを見る近藤。鈴音は頭を下げられる前に、「別に気にしてねぇから。」と返した。
「あいつは、あぁいう性格だから、たまにあんな物言いをしてしまうが、内心では鈴音さんを頼りにしているんだ。」
「さぁ。
あたいは知らねぇけど。」
思い当たることを土方に言われた気もしたが、鈴音は白を切った。
「気休めで言ってる訳じゃない、本当にあいつはそう思ってる。
俺には分かる、昔馴染みの悪友だからな。」
鈴音は黙って追い掛け合う二人を眺めていた。
悪い奴じゃないことは分かってる。
ただ、与えられた言葉をありのままに受け取るための時が、彼女にはまだ足りなかった。
頼りにされている、という事実に対する気恥ずかしさもある。それが邪魔をする。
……。
本当にそれだけだろうか……。
「貴方にも、そうなって欲しいなぁ。」
鈴音は、何か話しを聞き落としたのかもしれないと、近藤を見上げる。
「俺や総司のように……いいや、それ以上に。あうんであいつのことが分かる存在になってくれたらなぁ、鈴音さんが。」
眉尻を下げたまま、近藤ははにかんだ。
何で自分にそんなことを求めるのだろう。
素性の知り得ぬ得体不明の相手である。
鈴音は近藤が求めてくるものの意味を理解出来ずに、その照れくさそうな顔をただ見ていることしかできない。
「あ、それか……。
あいつの中では、もうそれに近い場所にいるのかも知れないな。
本人も含めて誰一人、まだ気付いちゃいないだけで。」
鈴音の綺麗な額に縦向きの皺が寄る。
「なぁ、さっきから何の話をしてんだよ。
あたい、よく分かんねぇんだけど。」
「ん……そうさなぁ。」
可笑しそうに、悪戯めいた顔で笑う近藤に雪玉が投げつけられる。
「ぬぉぉぉっ。」
白い塊が飛んできた方向を見れば、むすっとした顔の沖田が雪玉を抱えて走っている。
「近藤さん、俺じゃねぇぞ。
今のはこいつが投げたんだ。」
童と同じように白い玉を抱えて走る土方の顔に、雪玉がめり込む。
「総司っ。」
目では追いつけない素早さで土方の投てきが始まるが、ひょいっひょいっと童はそれを避けて走る。
「盛り上がっているなぁ。
よしっ、俺も今日は童心に帰って楽しもうじゃないか。」
さ、鈴音さん、と近藤は走り際に振り向き鈴音に一声掛けた。
さっきの話しは何だったのだろうか。
近藤の言葉を順に辿っていっても、鈴音には答えが見つからない。
学のある奴は話が難しくて、よく分かんねぇな。
溜息を一つ溢すと、鈴音は境内の階段に腰を下ろす。怒声やら黄色い声やらをあげながらじゃれあう三人を遠目に、両手で頬杖をつく。
今更、あの輪には入りにくい気分だったのもある。だが疎外感はない。見ているだけでも十分に楽しい気分になれたからだ。大の大人が無邪気に戯れている。一人は怒り狂っているだけだが、その大人げなさも子供らしい。 平和だな。
泰平が脅かされている江戸時代末期。こんな時分に、それを思うのは相応しくないとは思う。
人による血生臭い事件。
妖物による血生臭い事件。
三百年近く続いた安寧が綻んでいく。本当の意味で平穏だったか。
それは人によるのであろう。
ただ、戦がないという点においてだけ、誰もが幸福だった。
その安泰を捨ててでも成し遂げたいことがある。
変えていきたいことがある。
そう思う者が増えた結果がこれなのだ。
世の中がどう運ばれるのか。まだ見当も付きはしないが、変革のために日の本は再び穢れを纏うのだろう。多くの血が染みこんだ穢れを。
鈴音の視界に沖田がぴょこぴょこ映る。ガラス細工のようになった眼に命を呼び戻そうと、必死に飛び跳ねているのだ。
色を成した瞳で鈴音は微笑する。
そのまま駆けて同じように雪玉を投げつけたい衝動にかられたが、彼女はそれを躊躇った。輪に入るきっかけ以前に、鈴音は怪我をすることを避けていたからである。それは傷が痕になることを嫌に思っての行動ではない。 時の流れを忘れた体は、怪我や痛みには弱く脆かったからである。
大小関わらず、傷がつけば高熱と声を漏らすような痛みに苦しまなければならない。
どうしようもない負傷であれば受け入れるが、そうでないのであれば極力避けたい事柄である。どんなに野山育ちであろうと痛いものは痛いのだ。野生の知恵に長けていようと、倍もする痛みに堪えうる術などありはしない。 鈴音は沖田の光る瞳に申し訳なく思い、懐から人型の半紙を取り出す。
「あたいの代わりに頼む。」
小声で紙に呟くと、呪文を唱え半紙を宙に解き放つ。
自由に舞う人型は、すぐ様その身を人の成りに変える。
女に男、合わせて四名の式神がそこに姿を見せると、その場の感嘆を気にも止めず雪玉を作り投げ始めた。
「これは、堪らん。」
四方向からの間のない投てきに、近藤はかっかと笑いながら沖田を抱えて走り出す。
「総司、逃げねば明日は痣だらけだな。」
愉快そうにはしゃぐ近藤を、鈴音の更なる追撃が襲う。
立てた人差し指と中指を口元にあて、鈴音が呪文を唱えると、足下の雪が蛇の鎌首を持ち上げたようにその身を起こす。
呑気な近藤に、沖田は後ろからの攻撃に気付かせようと名を呼ぶが、その声に反応した時には、もう遅かった。
二人とも雪の滝に押し流された後だったのだ。
身を起こした近藤と沖田。
お互いに向き合うと、雪まみれである。痛みこそはないが、霜に焼けた顔や手先が赤らんでいる。
沖田は笑った。
それが可笑しかったのかは分からない。ただ、笑いたいという気持ちがどうしようもなくこみ上げてきたのだ。
抑圧されることのない自由。
誰に憚ることもなく、思うままにいることを許される。
ここはそんな場所であるということを、信じてみたい気になった。
目尻に涙の粒を乗せた近藤が、鼻先を摘まみ空を仰ぎながら、笑っている。
「楽しいなぁ、総司。
俺は楽しいよ、総司。」
羽交い締めに近い近藤の抱擁。少しばかり臭う着物。
息苦しく思ったが、心地良かった。だから沖田は抵抗せず、その柔らかく小さな手で広い背中にしがみつく。
鈴音や静代にされるのとは異なる安心感。腕の質や力の強さによるものだけではない、護られているという実感が沖田の荒れた心を平らかにさせる。
「俺達も負けておれん。
勝つぞ、総司。」
沖田は離れていく安らぎに物足りなさと名残惜しさを感じたものの、遊びに戻りたいという心がすぐにおこった。
勝ったらもっと喜んでもらえるだろうか。
もっと……褒めてもらえるだろうか。
近藤のためになれば……自分だけを見てくれるだろうか。
高揚していく内側に動かされるように、童も立ち上がり、近藤の横に並ぶ。
「トシ、さ、総司がやる気だぞ。
お前も協力してくれ。
皆であちらさんに勝とうではないか。」
沖田の変化に先ほどの怒りもうかりしていた土方は、苦笑しながら二人に歩みよる。
「しゃぁねぇ。
ここは共闘ってことで勘弁してやるか。」
不機嫌な顔でこちらを見る沖田の頭を、土方は乱雑に撫でた。
童は汚いものが乗ったような手つきで、自分の頭をぱっぱと払う。
「勝っても負けても、あとで良い飯を食いに行こうな。」
式神や距離のある鈴音にも聞こえるよう、近藤は大音声で言うと袖をまくり、駆け出した。
「……それじゃ、勝敗決める意味がねぇんだがな。」
薄く目を細めた土方も、沖田の背を叩いてから近藤の後に続き、その後をまた童も追う。
「おい、手加減してやれよ。
相手は人間なんだから。」
鈴音が式神に耳打ちすると、彼らはくすくす笑いながら滑るように走り出す。
飛び交う雪玉や、一方的に向けられる雪の滝。
比べるまでもなく人間側の劣勢。近藤が馬鹿力で踏ん張ろうとも、土方の策士が頭を働かせようと、所詮は人とそうならざるものである。何の知識も術も使えぬ人に勝機はみられない。
あちらの配慮で怪我こそせずとも、体力はどんどん蝕まれていく。
「おされてんなぁ。」
負けるとは分かりながらも諦めずに挑む侍達を見つめながら、鈴音は腰をあげる。見るからにご機嫌斜めな沖田は雪玉に小石を詰め込み始めた。
自分が勝つというよりかは……。
沖田の視線がちらちらと近藤に向く様を見て、鈴音は眉を下げた。
「変えらんねぇこともあるよな……。」
寺の階段を上りご尊像の飾られている扉の前を歩むと、鈴音は曲がり角に南天の低木を見つける。
廊下の柵から身を乗り出してその葉を三枚、引き千切ると、彼女は元来た道を歩き座っていた賽銭裏の階段で足を止めた。
「あと……あいつに足りないことがあんなら……。」
南天の葉に唇を押し当てた鈴音は呪文を乗せる。
呪文を背負い、するりと手から離れていく三枚の葉。それらは童の姿に変わると一斉に階段を駆け下りていく。
「お、なんだ。」
苦戦する近藤達の側に童達は駆け寄ると、にこにこ笑みを絶やさない。
沖田が近藤を庇うように前に立ちはだかると、その手に童達が雪玉を突き出した。
「遊ぼう。」
式童達の言葉に、沖田は雪玉と笑顔を交互に見つめる。
「おぉ、これは有り難い。
総司、加勢だぞ。」
沖田は戸惑いながら、近藤の後ろに隠れようとするが、その腕を童はさっと掴む。
「行こう。
勝たなきゃ。」
腕を振る沖田を引きずるように、式童達は走り出す。
「子供には負けてられんな、トシ。
俺達も頑張ろう。」
さぁ、という近藤の呼び掛けに、土方は溜息だけで返事をする。
見るからに劣勢であった人間側に、式童が加わったことで、少しずつ傾城が傾き始めた。人間がかわしきれなかった雪玉も、式童達が手を引けば、寸でのところで避けることができ、彼らが渡す雪玉を投げれば敵組の式神に当てることもできる。
涼しい顔で逃げていた式神達が押されていく。そこには優しさのある戯曲めいたものが加えられていることを、幼い沖田は気付くことができない。繊細で人の感情に敏感であったとしても、それは受けてきた経験から得たもの。思いやりある虚言を向けられたことのない童は、そんなものがあることを頭によぎらせることもなく、全てを見たままに受け止め喜ぶ。
両側に立つ式童も、沖田を見てはしゃいでみせた。
こんなことをしたところで、元に戻れば何の意味もなさないのかもしれない。
鈴音は階段の刀を手に取る。
柄の根元に結び垂らされた鈴が、小気味良い音を立てた。
自己満足に終わることになったとしても、一分の可能性があるというのに、それに賭けないという選択肢を選ぶほど、鈴音は器用ではない。
鍔を親指で押すと、金属の擦れる音が薄く聞こえる。
もう少し……、あぁさせてやれたら。
眼前には式童に笑みを向ける沖田がいる。どこかまだ気を張っているのか、笑った後にぎこちなさを顔に残してはいるが、それは時さえあれば解決できた。
限界だ。
鈴音は刀を抜き払う。
石畳に打ち捨てられた鞘が跳ねるのと同時に、彼女も飛び上がっていた。
空っぽの鞘が間の抜けた音を立てて身を揺らす。
冷えた空気の中、その音はよく響き渡った。
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