第二章 ツギハギ(52)
ちゃらん。
銅がぶつかり合う音とともに布団へ投げ出されたのは、穴あきの銭のようなものだった。月の光と夜目で見る限り、見慣れた銭の文字とは違う。丸い形や雰囲気を見るうえでは、銭に酷使はしている。
それが九枚。
中央の穴に古ぼけた組紐を通され、鈴音の首から下げられている。
「今の寛永何とかと同じで銭だよ、昔のだけど。」
手枕をやめた鈴音が痺れた手に繋がれた銭を乗せ、その連なる一枚一枚を掌に広げていく。
柔らかに弛んだ口元に、物寂しそうな彼女の顔を沖田はこっそり見つめる。今までに見たことのない、哀愁のある表情から目が離せなくなったのだ。
その銭には何があるのか。
童の胸が騒がしくなる。
「三途の川の渡し賃。」
温顔な面持ちで銭を見つめていた鈴音がぽつりと言う。
心の内を見透かされた。
沖田は目をまん丸くさせるが、物憂げそうな女の目には自分が映っていないように思えた。どうしてだか肩が落ちたような気分になり、憮然とした面持ちになる童。
むず痒くなる足を意識してそわつかせると、鈴音の瞳がゆっくりこちらに流される。
切れ長の瞳に月の光を乗せる長い睫毛。
澄みきったそれと交錯した刹那、沖田はぎゅっとした息苦しさと静寂に包まれる。
この部屋に。
この世の中に。
今こうしている自分達二人しか存在しない。そう思えるほど静かだった。
「どうした。」
鈴が鳴るのと同時に音が戻ってくる。
水滴が盥にぶつかる。
どこかから雪が滑る。
野犬の遠吠え。
変わらず鼾の音もそこにある。
先ほどよりか小さくはなっているが、音はなくなってはいない。
ただの錯覚。
やむを得ず現実を受け入れさせられる沖田はもの悲しくなった。言葉に言い表せない感情はむず痒い。そんなもどかしさに気がつくと足がそわそわしている。
どうして良いのか分からない。
姉上の前ですれば叱られるが、ここでは叱られない。どうすることが正解なのか。分からない沖田は、鈴音に視線を向ける。
先ほどから口を開かなくなった鈴音は、ゆっくりと銭に心を戻そうとしているように見えた。
しなやかに動く指は銭を模るように、円の輪郭や中央の穴を滑っている。軽く触れる程度にしか乗せられていないはずの指は、しっかりと形を確認するかのようであった。
それを見つめる眼は、内側から懐旧の色味が滲み出る。完全に染まってしまえば、先刻のように自分は見てもらえなくなってしまう。
沖田は嫌だと思った。
どうにか自分に繋ぎ止めておきたい。
自分を見ていて欲しい。
重石が外されている幼い感情は、その蓋を押し開けようと両手を伸ばす。
「こ……このつ……。」
童は赤面した。
どうすれば気を引くことができるのか。思考を目眩させて考えても答えは出せない。
だが刻もない。
鈴音の視界からは徐々に自分が消えている。堂々巡りしかできない頭は焦るあまり、目で見た物の数を口にさせた。
沖田は幼くはある。童ではあるが、言われた言葉を同じように返したり、見たままのことをそのまま口にしていれば良い無垢な幼子の歳ではない。
年相応の振る舞いを知らずにここまできた彼の生い立ちを思えば仕方のないことではある。ただ、当の本人がそれを理解し得るには、まだ多くのことが足りていなかった。
熱を出した時のように火照る頬は、冬の寒さすら忘れさせた。沖田が赤くなる顔を隠すように俯き加減のままでいると、ころんと鈴が笑う声がする。
「そうだな、九つある。」
恐る恐る顔を上げると、鈴音はどことなく笑っているように見えた。その笑顔は沖田の言葉からのものではない。聡く敏感な童は感じ取る。自身の言葉をきっかけに、その銭としか分かち合うことが出来ない何かを思い出しただけのことだと。鈴音はその記憶に向けて、頬を弛ませているのである。
沖田は満足できなかった。できはしないがそれ以上のこともできない。せめて鈴音の意識が完全に自分を切り離さなかっただけ、増しなように思えた。
「三途の川を渡るには六枚あれば良いんだけどよ。」
沖田は姉から聞かされていた知識を辿り、確かにと無口に思う。
あの世の川を渡るには、六つあれば良いというのに、何故九つも持ち合わせているのだろうか。
疑問に思いながらも口には出せず、沖田は気付けば鈴音を見上げていた。
頬が寒さを思い出す。
「昔よ、あるだ……。」
話しを始めた鈴音が口をつぐみ、何かを考える素振りを見せてから、再び開く。
「ある奴と出会ったんだけどよ、この三枚はそいつのなんだ。」
三枚の銭を分けるように、銭と銭の合間に鈴音が指を割り入れる。
「そいつはとうの昔に死んじまってんだけど、あたいが持ってるこの三文を、三途の川で待ってんだ。
届けるって約束したからよ。」
でも……。
鈴音の声が先ほどより潜まる。
「本当に待ってんのかね。」
憐れみを交えて笑う様を、沖田は初めて彼女の顔に見た。いまにも涙を溢してしまいそうな哀愁のある笑みに、沖田は眉を下げる。
困り顔の沖田に鈴音は力なく笑むと、小さな頭を優しく撫でた。
「別に約束破るような嫌な奴じゃねぇんだけどさ……。
もう……ずっと……。
何百年も待たせてっから。
流石に愛想尽かせて先に行っちまったかもしれねぇなと思ってな。
銭がいるつったって、川を楽に渡れるだけの船賃であって、責め苦を受ければ渡れないこともねぇだろうし……。」
待っていてくれたら嬉しい。
率直な鈴音の気持ちであった。
だが、どんなに待っていてもらおうと、彼女がそちらにいける日は形も見えない。
それならば、渡っていて欲しい。待たずにいて欲しい。
そう思う心もまた、鈴音の本心であった。どうしようもない我が儘な心を持ったまま、平生を落ち着いて過ごせるのは、想う誰かと再会する明日がこないということを、死ねなくなった自分が自覚しきっているからかもしれない。
「一緒に死ぬ選択もあったのに。」
見るからに寒そうなこんな日は、人肌が恋しくなり感傷的になってしまう。温度なんてもう分かりもしないのに。
鈴音は自分が滑稽に思え、乾いた笑いを漏らす。
「あたいさ、そいつとお別れしたんだ。
そいつが少しでも長く生きられるようになれば良いと思って。
だから離ればなれになったんだけどよ、後悔はしてねぇんだ。
……してねぇけど、たまに会いたくなって寂しくなっちまう。
そしたら考えちまうんだよな、別の道があったこと。」
こんな話しを聞かせて何になるのだろう。
鈴音は僅かに頭を振った。
意味のないことだ。童に聞かせることも。
あったかもしれない日々について考えることも。
鈴音は自分の選んだ道を悔いている訳ではなかった。それは本人にとっての紛うことない真実と結果である。
ただ、孤独は人を惑わせ弱くさせる。その狭間に囚われている彼女は、そうして考えても仕方のないことを考え、苦しむことも与えられた罰、支払った対価の一つなのだと思った。
ふいに頭に何かが乗せられる。鈴音が意識を帰路につけると、沖田の短い手が自身の頭に乗せられていることに気がついた。
その柔らかく頼りない手は、そっと鈴音の頭を撫で下ろす。
頭から首に向かって。小さな手は何度も行き来を重ねる。
何も間違った行いではないが情けない顔をして手を震わせている童の姿に、鈴音は切れ長の目を細めた。
心許ない手の力であるが心地良く思える。幼い情けをされるがままに受け取っていると沖田がぽつりと言った。
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