第二章 ツギハギ(46)
高く昇った日は、鉛色の羽織を着込んだままに町を見下ろす。朝方に舞い落ちていた雪は、どこかに去ってしまったのか。空からの来訪者は見られない。
そんな気まぐれな天気の中を、京の商売人達は涼しげな顔で、せかせかと歩いて行く。
雪が降り出せば、儲かる商いもあるが、人の足が減れば売れるものも売れなくなる。一分の遅れや見定め違いが、その日の売り上げ、大きくみれば一生の商売に影響を与え兼ねない。彼らはそんな胸中で密かに胸算用を行いながら足を急がせている。店をかまえ軒に立つ者も、籠や桶、小箪笥を抱えて走る者も、言葉や表情にそれを見せないのは京に生まれた性なのであろう。
晴れ間とは言い切れない空の下で、静代は人々に思いを巡らせる。
常であれば、そんな心のよしなしごとを主人の鈴音に話して聞かせるが、今日はそれが叶わない。
叶わないこともないのであるが、今はそれを行うべきではないと、彼女自身が判断を下したのだ。
静代が前方に目をやると少しの距離の先に、どこかみっともない結い方の総髪と綺麗に結い上げられた童の総髪が並んで歩いている。
縦になりながら横になりながら。
沖田は鈴音に遅れないように、ぶつからないように、よそよそしげに歩いている。古ぼけた袴の側へ、時に身をよせたかと思うと、歩幅が狭くなりその距離をあけてしまう。不器用な歩みであった。
童らしさを縛る縄は、まだ結び目が固くあるのだろう。
けれど、鈴音であれば……その結び目も……。
静代は後ろ手を伸ばす。腰の少し上に手を当てれば、今朝に鈴音が締め直してくれた帯の感触。
紐解くことも結び直すことも、自然に成し得てしまう主人への愛しさがこみ上げてくる。他の誰にもないものを鈴音は持っている。例え他の誰かが似たものを持っていたとしても、万分の一に同じではない。そんな彼女だからこそできることがあり、その背について行きたいと思ってしまう。
それが獣しか歩かぬ道であろうと。
何人たりともを拒む茨の道であろうとも。
鈴音を近くで支え、彼女が何かを動かす力を見ていたい。
良くない主人に出会ってしまった。
静代は眉尻を下げた笑みで、帯を優しく叩いてみせた。
「なぁ、なんかねぇの。
食いたいもんとか……欲しいもんでも良いけど。」
沖田が、ま横に並んだ機会に鈴音は声をかける。だが、童はうんともすんとも言わず、それが分かる動作も見せてはこない。
自分の隣りを付かず離れず。
ただそれだけであった。何かを尋ねれば、顔はあげるものの返答はしてこない。
鈴音は心許なくなった。
振り返ると散歩に無理矢理連れてきた静代が歩いているが、相談しようにも気軽に声を掛けられる距離にはいない。
「何であんな離れてんだよ、あいつ。」
こんな時のために連れてきたというのに、これでは意味が無い。
鈴音は肩を落とす。
童が求めるものを適当に見当付け、店先で足を止めてみたり、棒手振りを呼び止めて桶の中を見せたりするが、沖田の反応はいまいちよく分からないものであった。
童が欲しがる物、殊に武家に生まれた子供が喜ぶ物など皆目想像がつかない。
野山で人様から物を奪い生きる。
そんな幼少を過ごした鈴音であるからこそ、余計にそれが難しく思えた。
全然分かんねぇな。
万策尽きた鈴音は、まばらな人を避けるように往来を逸れた。沖田もそれに倣ってついてくる。彼女の足は、すぐ隣りにある川沿いの土手に運ばれた。枯れ草を踏み分けながら斜面の中程まで歩くと、鈴音はその場に座り込む。
雪は多く敷かれているが、踏めば水が滲むほどに柔らかい。そんな溶けた雪水が交じる地面は、草を挟んでいても着物を濡らす。
温度を感じ取ることのできない鈴音は冷たさを尻で確かめることができなかったが、袴が丸みに添い、じっとり肌に貼り付いてくる感触から湿っていることは感じ取る。
だが、そんなことはお構いない。
彼女は後ろに倒れ込んだ。尻と同じように背中に着物がぴっちゃりと密着してくる。
かさり。
草を踏んだ音に横を見ると、沖田が屈み込んでいた。袴の裾が濡れないように足と一緒に大事に抱え込んでいる。
きっと寒さを感じていた頃であったとしても、自分はあんな風には座らないだろう。
鼠色の空では太陽が忙しない。
雲が急いでいるのか。
太陽が慌てているのか。
答えのでないことである。ただ、どちらでも良いが、幼い子供を連れていることを思うと、太陽には頑張って貰いたい。鈴音は頭の後ろで手を組んだ。
後頭部がぐっちょりと濡れている。雪が覆ってはいるものの、少しばかりの土も混ざっているのだろう。昨日のほうれん草のおひたしが思い出された。
沖田が小さく身震いをする。
長居はできねぇんだけどなぁ。
流れる雲を仰いでいると、肉体の疲労とは異なる疲れが、頭から肩にその気怠さを降ろしてくる。
次、どうするか早く決めねぇと。
そうは思うものの、鈴音には何の案も浮かんではこない。
あいつはどうしてくれたんだっけ……。
ふいに記憶の蓋が開かれる。
初めて人の優しさを知ったとき。自分は握り飯を差し出された。
その次に優しさを貰ったとき。
華やかな着物に見たことも聞いたこともない食事。噂としてしか知り得なかった娯楽。
それらを広い部屋一面に並べられた。
好きな物を選んで良い、自由にして良い。そんな言葉を掛けられたとき、自分はどうしたのだろう。断片的な記憶を繋ぎ合わせているうちに、鈴音は、はたとあることを思い出す。
だらけていた体は自然と起き上がり、足の裏を地面にまでつけさせた。突然立ち上がった鈴音に、沖田は目をまん丸にさせる。
太陽が鉛の袢纏を脱ぎ、柔らかな光が地上に降り注ぐ。
鈴音が沖田にくるりと背をむけると、彼も慌てて立ち上がろうとした。
「待ってな。」
日差しを背負った鈴音は、童を軽く手で制すと、斜面を早足で登っていく。
置き去りにされはしないだろうか。
そんな不安を感じながら、沖田は屈み込んだまま足下の雪に視線を落とす。
水っぽくはあるがきらきらと輝く清い白。誰の足にも汚されたことがないのか、綺麗で生白いような雪が、爪先から向こうに続いている。
誰かが見ている。
視線を感じたような気がした沖田は振り返った。
さとりだったらどうしよう。
胸中をよそに背後には誰もおらず、通行人も特別彼に視線を向けている者はいない。
後ろに向けた頭を戻そうとした時、童は地面に視線を奪われた。視界を満たすのは雪や枯れ草、土が敷かれただけの土手。
何の変哲もない見飽きるような土手の姿であるが、沖田には自身が歩いてきた道が他の部分よりも薄汚れて見えた。
何だか言葉にできない嫌な気持ちが胸の奥で揺らぎ出す。
さっきまで鈴音が寝転んでいた場所も、自分の歩いてきた道も、今屈んでいる場所も、そう変わりは無い。どこもかしこも同じである。
それだというのに童は自分の足が触れたところだけ、必要以上に汚く思えた。
尻と足が無性にむずむずしてくる。
沖田はまだ穢れのない純白に草鞋を滑り込ませた。
白と輝きの領域に黒ばんだ土や、枯れ草が侵入する。
薄く汚された雪白。
それはもう真っ新と呼べる状態ではなくなってしまった。
だがそれでも……。
沖田は続けざまに小さな足を前へ滑らせた。
何度も何度も繰り返す。
白い足袋が濡れ、土の汚れで黒ずみ出す。
汚してはいけない、いけないのに……。
沖田は足を止めようとするが、筋肉に力が入らず、心もどこか定まらない。脳を包む靄の中。止まれ止まれと足に指示を出すが、足は、それは自分で意志を持ったかのように動いてやまない。
病的な足はぐちゃぐちゃと音を立てながら白い世界を壊していく。
まだ白い……。
まだ輝いている……。
僕の所だけ……皆と違う……。
みんなの所より汚れている……。
他も同じにしなきゃ……、同じにしなきゃ叱られるかもしれない……。
僕だけが汚いと……。
僕だけが汚したと……。
もっと……もっと……ぐちゃぐちゃに……。
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