第二章 ツギハギ(47)
「おいっ。」
凍てつく日の水を思い出させる冷たさが、暴れる足を痛いほどに掴んだ。
同時に腕にも同じような温度を感じる。部分から伝わる冷えた力強さが、沖田の靄を徐々に腫らしていく。
屈み込んだ鈴音の姿を正確にとらえた時、爪先がじんじんと痛むことに気がついた。冷え切った末端を襲う痛みとは異なる、じんじんずきずきとした痛み。
沖田が視線を投げようとする前に、異常を伝える爪先が鈴音の手中に納められた。
「あーあ、こりゃ爪割っちまったんじゃねぇかぁ。」
南天の実だ。
足袋の先端に目をやった沖田はそんなことを思った。
と同時に、自身の足袋の現状を理解する。
赤を添えた泥まみれの足袋。
こんなに汚したのだ。
元に戻るまで洗うように言いつけられ、夕餉は抜きかもしれない。模造刀でぶたれる折檻がなければそれで良い。こんな寒い日にあれで叩かれると痛みが長引く。
蘇った痛みの記憶に沖田は体を震わせた。
「厠でも行きてぇのか。
この辺のことあたい分かんねぇから、我慢できねぇなら、その辺でしてこいよ。」
覚えのある雑な痛みが足を動き回る。
気付かぬうちに足袋を脱がされた足が手拭いで包まれていた。昨日、嘔吐を拭き取ってくれたときのように荒々しい拭き方ではあるが、血の滲む爪先付近だけは心なしか優しく布が宛がわれた。
片足だけでよろめく沖田の手を、鈴音が掴み自身の肩に押しつける。
「ちゃんと持ってな。」
一瞬強張った幼い手は、足の濡れや汚れが拭き取られるのに合わせて弛んでいった。
そうして今度は鈴音の肩口を掴むために力が入れ直される。
「……あっ。
怪我してるところは、あんまこすらねぇ方が良いのか……。
ほら、できたぜ。」
太ももに乗せていた足を草鞋の上に戻してやると、傷んだ足は鼻緒を指で挟み直す。血が固まった際に傷口に足袋が癒着し、脱いだときに悪化をさせるかもしれない。
考えた結果、鈴音は沖田の足袋を懐にしまった。冬や雪を思うと素足でいるなど、こちらから霜焼けにして下さいと頼み込む真似と同じことになるが、傷口から足袋を引き剥がすことを考えれば、まだそちらの方が良いように思えた。
だからといって、この爪先のまま地面を歩かせるのも傷には良くない。幸いにも爪が割れきる、剥がれるまでには至っていないため清潔にさせていれば悪化とは無縁の怪我である。
鈴音は先ほどよりも短く考えた後、立ち上がり際に沖田の脇に手を入れ抱き上げた。
目を剥くほどにまん丸にした眼の童は、鈴音の胸にその体を預けるように足や腕を操られ、息つく間もなく手に何かを握らされる。
耳の隣で鈴の声が鳴る。
「落とすなよ、それ。
やるよ、お前に。
好きかどうかとか分かんねぇけど、飴だよ、練り切り飴。
前に静代が旨いって喜んでたぜ、歯が持ってかれるとかも言ってたけど。
あれ、そういやどこ行ったんだ、あいつ。」
ぶつくさ言いながら斜面を上がった鈴音は店の並ぶ往来を歩き出す。先ほどと変わらず人影はまばらであった。
沖田は押し入れられた手の中の物を見つめる。指を開くと何かを包んでいる懐紙が、僅かにその口を開いている。
練り切り飴。
鈴音はそう言っていた。
恐る恐る包みを広げると、中には飴が数個転がっている。その切り口は乱暴ではあるが、白地の胴体には綺麗で華奢な色筋を持ち合わせていた。
練り切り飴として、ありきたりな装いである。
だがそんなただの縞模様は、躾以上に利己さを含ませた厳しさに身をおく童の口元を、綻ばせるには十二分な代物であった。
本当に食べて良いのだろうか。
沖田がちらと鈴音の顔色を窺う。
「喉に詰めたりすんなよ。」
進行方向に顔を向けたまま、鈴音は答えた。
素朴な答えであったが、温かみが感じられる。童は柔らかくなった心のまま、飴に手を伸ばし口に含んだ。
粘着のある硬い飴は歯にぶつかる度に、ぴたっと貼り付き、剥がすとぱきりと音を立てた。練り切りを長く同じ位置に置いていると、歯が連れて行かれるように思えるほどくっついてしまうので、舌先で飴を遊ばせる。
硬い。
甘い。
美味しい。
生まれて初めて食べた練り切りではなかったが、自分の思いに耳を傾けてこれなかった少年は、初めて飴を舌に乗せたような感覚であった。
誰にも脅かされず、誰かに護られている穏やかさ、心丈夫。
それらは練り切りの飴よりも甘く、強張る体や心までもを弛緩させてしまう甘美さを感じられるものであった。
ふと伸ばされた手に鈴音が視線を落とす。
小さく丸い手が、その手よりさらに小さな練り切りをつまみ、こちらに差し出している。
「いいよ、お前が食えば良い。
あたいはいらないから。」
降ろされない手は、少し待ってみても変わらなかった。
微震する小さな手。
引かれようとしたり、押し戻されたり。
小刻みに忙しそうな手を見た鈴音は、頭を低くした。
溜息の代わりに唇で飴を挟む。
引かれていく腕に、口内に消えていく練り切り。
できたてだからなのか。
硬いわりに歯にぶつかると、引き離す際、めきりと音が立つ。歯の表面が剥がされた気になってしまう。そんな音が口に広がった。
本来であればここに甘みがあり、人々はそれに頬を溶かされてしまうのであろうが。
味のしない飴が歯に触れないように、鈴音は舌先で上手に転がした。
嘘でも甘いと言ってやるべきか。
いや、それは通じない、この童は聡いのだ。何度か食事の場を共にしていることを思い返しながら、鈴音は口を開いた。
「歯がもってかれそうだな。」
薄らと柔らかな笑みを浮かべた童を、物陰から覗く白髪の老人。
それに反した威厳は若さすらも滲ませている。
「いつの世も、そのまぬけさは変わらぬな、鈴音よ。
お主のその平和ぼけが、あれをも殺めたことを忘れたのかのぉ。
馬鹿な女子じゃ。
のぅ。」
蔑むような笑いを落とす爺に、低い声音が答える。
「それが、鈴音の良さにございます。
だからこそ、絶望と強さを知り力を得られる。私だけの鈴音にございます。」
女は路地に向けて下駄を運ぶが、はたと止め、爺を振り返る。
「あまり、このような場で接触は避けてもらえますか。
人目につくでしょう。
何百年もかけてやってきたことが水の泡になれば、貴方の望みとて、叶わぬのですよ。」
「分かっておるわ。」
窘められたことに、うんざりしている爺を一瞥すると、女は物陰から路地に身を割り込ませる。
人通りが多ければ、まだ目立たぬものを。
頭の足りない白髪に、僅かに苛立つ心を隠し、足を速める女。
あたかも以前からそう歩いていたように。
師走を文字通り急ぎ、用をこなす者であるかのように。
女は人のまばらな路地に馴染んでいった。
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