第二章 ツギハギ(45)



「朝のことだが……。」



 朝のこと、という言葉に鈴音は憂鬱そうな表情を見せる。



「何故に味を見てはくれない。」



「自分で確認して覚えていけよ。」



「だが、教えを請うた者からの評価が欲しい。」



「あたいじゃなくて、お前の飯食った連中の反応みりゃ良いだろ。

それで上手くできたか分かんだから。」



「教えを請うた者からも欲しい。」



 食い下がらない斎藤に鈴音は困ってくる。語気を強めて振り払おうとしても、食らいついて離そうとしない。悪い質や悪意を持っての行動でないことは分かるが、非常に手間である。どことなく投げやりになってきた鈴音は、斎藤にぐっと近寄る。

 下から顔を見上げるように、可能な限りその距離を詰めていくと斎藤の首元に鈴音の鼻息が触れてきた。



「なっ、なにを……。」



「あんましつこいと、手伝ってやんねぇからな。」



 重みのある鈴の音に斎藤は口を閉ざす。


 恵みを与えてくれる者の足下を見るような真似をすればするほど、この展開になることは容易に想像できる。だが斎藤には、その点に関する視野の広さはない。戦で相手の策略を読むことは得意でも、日常生活を攻略する術は欠けている。日々を上手く過ごすための指南書でもあれば、斎藤はすぐさま貸本屋に向かったことであろう。


 書き写すだけ書き写した『徒然草』が、埃にまみれていた様が彼の脳裏に浮かぶ。

 吉田兼好殿の生き方に、もう少し真摯に向き合っていれば、こんな状況も上手く切り抜けられたのであろうか。



「心得た……。」



 悲壮感漂う斎藤に、鈴音の胸がちくちく痛む。


「自分は味が分からないから見てやれない。」と、そうはっきりと答えてやりたい気になってくる。だが、斎藤の性格を垣間見る限り、次は何故味が分からないのか、などとさらに好奇心が満ちてくるのだろう。


 斎藤の小さな身震いに鈴音が足下を見ると、鼻先が赤くなった沖田が自分の袴を握り立っている。寒さが原因ではなさそうな厳めしい顔つきを斎藤に向けながら、童もまたぶるっと体を震わせる。


 そんな二人の様子に、今が寒い季節であったことを思い出す。


 斎藤ほどの大人になれば風邪一つにそこまで怯える必要もないが、幼くなった沖田は違う。風邪一つで翌朝命を落とすかもしれないのだ。

 鈴音は袴を握る沖田の手を無遠慮に掴む。小さな手も体も、きっと冷えきっているはずだ。



「もう行くぜ。

こいつが風邪引いちまう。」



「あぁ……そうだな。

あの……夕餉もよろしく頼む……。」



 夏であれば蚊と間違えるほどの声に、鈴音は急ごうとした足を止めた。



「……。

なぁ……さっきのことだけどよ、あたいが味見したって仕方ねぇんだ。

だから、ごめんな。」



 黒い髪をひるがえらせた鈴音は、沖田の手を引くように歩き出す。



「何故……謝罪なのだ……。」



 尋ねたいことが、斎藤の胸から溢れ出てくる。だが、その言葉を常のように追い掛け投げかけることができないでいた。

 謝罪した鈴音の困ったような笑みに、しおらしくか細くなった声音。急くように去る背。


 彼女が見せた挙動全てが、斎藤の言葉を口の中に閉じ込める。

 引きずられそうになるのを懸命について行く沖田が何度もこちらを振り返った。足を必死に前後させながら、鼻の穴を膨らませ舌をだし、勝ち誇った色を瞳には浮かべている。


 斎藤はあらゆる意味の複雑な心情で、去り行く二人を見送るのであった。








 鈴音が書状を綺麗に並べると、幼い沖田が扇で紙に風を送る。


 いつもより遅れながら土方の部屋に辿り着いた鈴音は、また怒鳴られはしまいかとひやひやしていたが、何も咎められることはなかった。確認もなく連れて行ってしまった沖田のことも、土方はちらと一瞥こそしたが「騒がせるなよ。」の一言だけで、それ以上は何も言おうとはしない。



 気味が悪い。



 その一言に尽きた。普段あるものがないではないで、調子も狂い気味の悪さが際立ってくる。



 何だか嫌な予感がした。



 鈴音は胸の違和感に気付かないふりをしながらも、どことなく土方から距離を取りながら沖田と作業をこなす。

 扇で紙を扇ぐのが楽しいのか、童は斎藤の時と違って何故か機嫌が良さそうにも見える。

 部屋の中に入ったからだろうかと、鈴音が悟られないように沖田へちらちらと視線を投げていると、ふいに土方が自分を呼んだ。

 胸の違和が枝楊枝で突かれる。



「鈴音。」



「……何だよ。」



 文机に背を向けた土方は腕を組む。



「しばらくの間は昼の刻下がりから、市中に出てくれ。」



「は。」



「勿論、そいつも連れてな。」



 綺麗な顎筋が、沖田を指すように動かされる。


 抗議をするべく、直ぐさまに立ち上がった鈴音は土方の真正面にどっしり腰を下ろした。そうして下から睨めつけるように見つめると、土方は眉間に皺を寄せながら対抗してくる。



「近藤さんからの頼みだ。

別に何かしてくれって訳じゃねぇ。

ガキ連れてその辺ぶらぶら散歩してくれって言ってるだけだ。」



「それが気に入らねぇから、こんな顔をしてんじゃねぇか。」



 腕を組んだ手を懐に入れると、土方は巾着を取り出す。鈴音の眼前に半ば突きつけられたそれは、縫い目が開こうとしているのが見えるほど、ぱんぱんに膨れ上がっている。



「何だよ、それ。

あたいが金で動くと思ってんのかよ。」



 金で動くと思われていることに、腹の虫が暴れ出しそうになるが、そんな彼女の虫が戦闘の法螺貝を吹き鳴らす前に、土方が口を開く。



「お前への金じゃねぇ。

総司が何か欲しがったり、食いたがったりしたら、これで買い与えてくれとよ。

必要があれば、お前のもここから出してくれだとさ。」



 腹の中で虫がずっこける。

 鈴音は、肩口から着物がずり下がった脱力感に襲われた。



「色々させて欲しいんだろう。

本当はあの人が相手をしてやりたいのは山々なんだろうが、隊士の目もあるうえに隊務だってあるからな。

ガキのお守りなんてできねぇんだよ、してやりたくてもよ。


それに今のあいつは、近藤さんよりもお前に構ってもらいたがってる。


それも見越したうえでの話しだ。

だんだん厚かましさに拍車がかかりだしてるように思っているかもしれねぇが、頼まれてやってくれねぇか。」



 温かな眼差しが、紙を並べる小さな背に注がれている。


 伸ばしてしまった鈴音の手には、ずっしりとした巾着が乗せられた。少しばかり癪に思えた彼女は、それを乱暴に懐に仕舞い込む。



「言っとくけど、あたいガキの楽しめるようなことなんかしてやれねぇかんな。

あとで抜かすなよ。」



 鈴音は腰を上げた。思ったほどに重くはなさそうな足取りに、土方は人知れず失笑する。丸くなって屈み込む小さな背を鈴音が軽く叩くと、沖田は顔を上げた。



「行くぞ。」



 返事こそはしないが、飛び跳ねるように立ち上がった童。

 彼は既に背を向けて部屋を去ろうとしている女の後を、軽い足取りで追って行く。


 閉め忘れられた障子の口から、冷え切った風が入り込んでくる。


 平生なら「閉めて行け」と一喝するところであるが、今の土方は悪い気分ではない。


 やおら立ち上がった彼は、静かに障子を引く。その口元に僅かに微笑ませて。







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