第二章 ツギハギ(34)
「本当は、行こうと思ったのですよ。」
「えっ。」
鈴音は慌ててしまい声がわずかに上ずった気がしたが、静代は無反応であった。
「貴方様が広間で食事なんて、生きている人間と食事なんて、これほど久しいことはございませんでしょう。
だから、すぐに駆けつけて、私もお側にと思ったのですが……。」
静代は自身の食膳に乗った汁椀を手に取る。空になった椀を、慎重に撫でるように掌に包むと言葉を紡ぐ。
「これもまた久々である、貴方様のお味噌汁の香り……。
いてもたってもいられず、私、口にしたら、なんだかもう広間に行くのが嫌になってしまって。」
「はぁ。」
静代が何を言いたいの分からない。
そんな疑問を含ませ相づちに、静代はふふっと笑う。
「独り占め、したくなったのです。
賑やかな場所などではなく、ただ落ち着いてこの匂いに味に、貴方様を馳せながら、ゆっくり味わいたかった。
だから、行きたくなくなったのです。」
「それであたいの分も食ったのか。」
静代はむせた。
顔を向けると、主人はどこか冷め切った視線を自分に送っている。
「べ、別に構わないではありませんか。
どうせ食べたって分からないでしょうに。」
「はぁぁっ。
お前、昼言ってたことと違うじゃねぇか。」
「それとこれとは別にございます。」
いそいそと椀を膳に戻す静代。
「どう違うんだよ。
食い意地はって、あたいのこと見捨ててただけだろ。
こっちは夕餉も食わなきゃならねぇこと考えて、わざわざ味噌汁に柚をいれたってのに。味しなくても匂いで楽しもうと思ってたんだぞ。」
「あ、あの柚の香り、食を誘う良い香りでした。」
「だろ、ちょうど流しのところに転がってたから入れといたんだ。」
匂う程度に鼻高々さを見せた鈴音は食膳を足で押し蹴る。
「違ぇんだよ。
んなこと言ってんじゃねぇんだよ。」
「お行儀悪いですよ。
足蹴りなんて、罰があたってしまいますからね。」
ひょひょうと食膳を手で押し戻してくる静代は、主人の小言が飛ぶ前にぽつりと漏らす。
「殿もお好きでしたね。」
鈴音のなかで火花を散らそうとしていた癇癪玉が水底に沈んでいく。
今日は久々と思える事が多い日だ。
殿という懐かしい呼び名。
「あぁ。
あいつ、食うこと好きだったからな。
食は味と香りが大切なんだって、よく言ってたぜ。」
鈴音は引いた芋のように蘇る思い出に、穏やかな笑みを浮かべた。色白の肌に蝋燭の橙が映え、頬を染めているように見える。静代は、そんな主人にもの悲しさを含ませた微笑みを向け口を開いた。
「お喜びですよ、殿も。
鈴音様がこうして料理をされたり、人と交わって過ごされていることに。」
「どうだかな。
分かんねぇよ、そんなの。」
「分かります。」
食い気味な静代は、真っ直ぐに鈴音を見つめている。
「ずっと、お二人のお側にいましたもの。
私には分かります。
喜んでおいでですよ、殿は。」
どうしてそれほどまでに自信を持って言えるのだろう。
あいつの考えそうなことは、おおよそ察しがつくというのに。
ことに殿から自分へ向けられる気持ち云々になると、鈴音は自信を持ちきれないでいた。
想像できなくもないが自信を持つ確信にまでは至れない。
いや、違う……。
あいつがいた時も、その後も信じてこれたはずなんだ。
あたいがあんなことを試さなければ……。
自業自得。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
かけがえのないと言える思い出が、偽りでなかったことを確かめる術はないのだ。鈴音は悔いた。
どうしようもないことであるからこそ、後悔が大きく膨らむ。
でも、悩んだところで仕方もない。どうにもならないことなのだから。
後悔に悲哀が混ざりきる前に、鈴音は胸の底にそれらを押し戻す。
「そうかもな。」
自分のような何の身分も持ち得ていない人間に付くことを選んでいる、物好きな侍女を困らせないように、鈴音は笑ってみせる。
「えぇ、そうですとも。」
同じように笑った静代は、食膳をぐっと鈴音に押しつける。
「さ、早く食べながら話して下さいませよ。」
鬱陶しがりながら箸を手にする鈴音。
「何を。」
静代はぐいぐい膝を詰めてくる。
「何って、何故味噌汁を作ることになったのかに決まっていますでしょう。」
「あぁ、それか。」
ごちごちに固まった飯粒を鈴音は口に運ぶ。
「さぁ、さぁ話して下さいませよ。
その残ったくそ不味い食事を取りながら。」
鈴音は箸を投げて、再び食膳を蹴飛ばしたくなった。
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