第二章 ツギハギ(33)



 頭が重い。

 


 鈴音は人の気配のしない廊下を歩きながら総髪のこよりを解く。

 黒く長い髪が背中でたゆたい始める。

 軽くなった頭と自由を取り戻した髪。


 それらの開放感に続いて袴も脱ぎ、豊かな胸を押さえつけるさらしも毟り取りたい衝動にかられたが、それを見られでもすればきっと大目玉を食らうことになるだろう。


 幼い頃から当然のように髪を結い、袴を纏い、着物を正しく着ている者であれば、そう違和感のあることでもないのであろうが。


 鈴音は開放感を手に入れる代わりに、細い溜息をつく。


 きつくこよりで締め付けられていた後頭部を掻きながら、彼女は庭に顔を向けた。


 宵闇のなかにある小さな中庭は、布団を被せたように真っ白になっている。

 柊や水仙、梅木に加え、隣家から伸びる橙の木。抜き忘れられた枯れ草と、それを裂くように生える生き生きとした雑草。


 あらゆるもの全てが白い繭を携え、しんとした闇の中で凍えている。


 薄暗い世界に白はよく映え、月光もまたその白き反射を受け、澄んだ光を放って見えた。



 ぱさり。



 静寂の中に響く音。


 枝のしなった音である。


 濃い緑の葉で繭を預かれきれなくなった柊の葉と枝が悲鳴を上げたのだ。

 抱えるものがなくなった葉は、生命力を感じさせるその姿を露わにしたが、すぐに雪が溜まり緑を隠してしまう。


 その繰り返しに堪えられなければ潰えていく。

 それは自然に限ったことだけではないのだろうが。


 障子紙にぼんやりと灯りが見えた。その戸を横に押し開く。



「お前、帰ってたなら来いよ。」



 後ろ手に障子の端を合わせながら戸を閉め、鈴音は膳の前の座布団に腰を下ろす。

 真正面の静代は、鈴音が放った式犬と戯れながら平謝りである。



 何なんだか。



 不服さを隠せない鈴音は、口端の片側を釣り上げながら舌打ちをする。



 今日はお望み通り人らしい生活を少しはしてやったっていうのに。



 言うことなんか聞いてやるんじゃなかった。



 大きな後悔を息とともに吐き出しながら汁椀の蓋を開く。



「食ってんじゃねぇか、あたいの味噌汁。」



 鈴音が空になった椀へ乱暴に蓋を戻すと、静代は両手を叩きながら笑う。

 それだけでは飽き足らず、腹まで抱えて笑い出す。



「お前っ、ふざけんなよっ。」



 食べたい、という気持ちはないため、味噌汁を食べられていたことなど、正直なところ鈴音にとってはどうでも良いことであった。

 だが昼間のことを受け、静代の頼み通りにしてやっているその出鼻を挫かれたことが気にくわない。

 不平を滲ませるように、彼女は胡座をかいた膝横を畳に打ち付けながら、てめぇっ、くそっなどと品の欠いた言葉を投げる。



「美味しゅうございましたよ。」



 静代は座布団に座り直し、はしゃいで乱れた胸元を整える。

 いつもと変わらぬ落ち着いた物腰に戻った静代に改めて向き直ると、嬉しそうに目尻を下げ、こちらを見つめていた。


 まどろみの最中に見る燭台の火のような優しい眼差しに、鈴音は目を逸らしながら袂の角をいじる。



「気付いてたのかよ。」



 袂を揉みねじる鈴音は、静代を見るよりそっぽを向いていたかった。体内の血管を柔らかそうな虫たちがもぞもぞと這うような、そんなこそばゆさが体を駆ける。



「見くびらないで下さいませ。

何百年、お仕えしていると思っているのですか。

匂いですぐに勘付きますとも。」



 膝に前足を掛けて伸びをしてくる式犬を、静代は抱き上げる。

 小ぶりな犬は巻き上がった尾を左右に激しく振ると、彼女の手の中で身をよじらせた。


 高く小さな声で鳴き出す。

 まだ遊び足りないことを主張しているように思われた静代は、畳に犬を戻してやった。再びの自由に犬は、先ほど以上に尻尾をはためかせ、部屋を駆け始める。



「本当は……。」



 しばしの沈黙の後の一声に、思わず鈴音は顔を上げてしまう。

 静代は遊ぶ犬を見つめていた。


 その横顔が目に入る。


 丸みのない切れのある顔。その内に乗せられているそれぞれの部位もすっとした形をしている。


 全体的に整った綺麗な顔ではあるが、歌舞伎の女形を思わせるような男性性の方が強く感じられる美しさであった。


 随分昔、静代のこの顔を男顔とからかう奴がいたため、蹴倒して池に落としたことを鈴音は思い出す。

 女形が役に扮した時のような顔であっても綺麗であることには変わりがない。

 それを僻んだ連中の言葉であるが、本人は気にしているようで、顔のことに触れると卑屈になる。


 場合によっては手拭いも飛んでくる。

 手拭いだけなら良いが、酷いときには……。


 鈴音は、忘れていた恐怖を思いださないように頭を振った。

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