第二章 ツギハギ(20)

 頭から垂れ下がっている下手な縫い目まみれの手拭いを乱暴に引き下ろし、顔をあげると、下唇をわずかに噛んでは感情を押し堪えている静代の顔が見えた。


 鈴音は視線をそらし、握ったままの手拭いの縫い目を指でなぞっていく。


 整列を知らない糸の並びは、まっすぐに指を添わせることを拒んでくる。


 そんなじれったい様子に、少しばかりの冷静さが呼び戻された静代は、頭を冷やしたくなった。主人の言い分も分からない訳ではなかったからである。


 生きるためにとる必要がなくなった食事を、何のために取らなければいけないのか。


 一切の味覚を失ってしまった舌に、何故食事を運ぶ必要があるのか。


 味のしない無意味な行為は、自分が人から遠退いていることを明確に示すことである。


 鈴音がそこまで考えて食事を拒絶しているのか。真意のところまでは確信を持ちかねたが、愛すべ主人が大抵のことを深刻に捉える癖のないことを、静代はよく理解していた。


 だからこのことも、人間の行為の一つが失われたことに対する自暴自棄さや、投げやりな考え方によったものではなく、不要なことは不要といった極めて楽観的な理由からきていることも推し量ってはいる。


 人が平等に持ち得ている幾つかが欠けたからといって、そこから距離を取ったとして、主人の根本的な何かが変わる訳ではない。


 そんな人物でないことは、心の音色が示してくれている。



 ただ……それでも。



 それでも人の輪から外れずに、世の中の人らしくあって欲しいという、愛を秘めた静代の我が儘が、時に彼女自身の心を乱してしまう。



「少し……。

外を散歩して参ります。」



「……あぁ。

分かった。

食ってから行くから。」



 障子戸に手をかけた静代は振り返る。



「小姓としての務めは、食ってからやりに行くから。」



 揃った前髪からのぞく下がった眉尻。


 伏し目がちな瞳から伸びる長めの睫毛。


 程よく主張する顔中央の三角の突起。


 そんな横顔が、無性に愛らしく思える。


 目こそ合わさることはないが食い違う言ノ葉の枝は、同じ根元からなっているのだ。それが揺るがぬことを知っているからこそ、想いをぶつけられる。

 情感においては思慮深い主人を、今すぐに両の腕におさめたい気持ちになったが、静代は頭を振る。


 この部屋に留まるためには、まだ幾ばくか冷静さに欠けているように思えたからだ。

 長く連れ合うと遠慮も忘れてしまう。

 それを僅かばかりでも取り戻すために、やはり外へ出ることを静代は選ぶ。



「はい。

夕餉には戻って参りますね。」


 静代が障子を閉めると、鈴音は膳に手を伸ばす。投げ散らかされた箸を手にすると、物も言わずに飯を口に運ぶ。


 口論になった際は、どうなることかと焦りを覚えたが丸く収まったようであるため、沖田はほっと息をつく。


 静代が出て行き鎮火された部屋は、食事の音と風で揺れる障子戸の音が響くだけである。



 しばらくの間、鈴音も沖田も言葉を交わそうとはしなかったが、食事を終えた沖田が鈴音をじっと見つめていると、それに気付いた鈴音が口を開く。



「食いたりねぇなら食っても良いぞ。

あたいの飯はくれてやるから。」



 沖田は激しく首を振る。


 こんな飯をお代わりだなんてとんでもない。


 そんな言葉が伝わるような首の振り方である。


 だが、口に含む全ての物から味を感じ取れない鈴音は、少年が何をそこまで抵抗しているのか分からなくあった。


 再びしんとする部屋の中。


 少年は目の前の相手と、何か話をしてみたいと思いはするが、上手く言葉にできずにいた。膝に乗せられた小さな拳に力が込められる。

 切れ長の瞳は、そんな沖田の姿を一瞬だけ映すが、すぐに茶碗に帰っていく。

 もじもじとしてしまいそうな、おしりのむず痒さに少年は袴をそっと握りしめた。



「これ食ったら、あたい行かなきゃなんねぇんだけど。」



 ……。



 あたい……。



 口の中で少年はあたいを反芻させる。



 女なのか。



 どちらであるのか決めきれずにいた答えがようやく放り出されるが、それを知ったところで、特段に驚くことはなかった。答えにしきれてはいなかったが、隠しきれない体つきや顔立ち、声音から、察するものがあったからである。


 合点がいった沖田は、どこか嬉しく思えた。



「お前、どうする。」



 突然の問いかけに、体が微かに反ってしまう。



「……ん……。」



 どうする……。




 どうすれば良いのか。



 正しい返答が分からなかった。自分はどうしておくことが正解なのか。どんな選択が喜ばれるのか。

 何かを考えようとする度、自分を残して去った姉の背がちらついてくる。



「部屋に帰るなら、誰かに頼んでやるし。

近藤のところに行きてぇなら、それも誰かに頼んでやるよ。


あたい、あんまりここの部屋事情が分かってねぇから連れてってやれねぇんだ。


だから、そうだな。


自分でどこか行けそうか。」



 香物から魚からご飯に至るまで、あらゆる食い物を汁椀の中に詰め込みながら、鈴音は聞いてくる。


 見ているだけで胃の中の物が湧き上がってきそうになった。



「あ、これ、静代には内緒な。


あいつ五月蠅いからさ。

別にあたいだって、んな食い方したくねぇけど、こっちの方が早いんだよ。

飯味わうとか関係ねぇんだから、こうやって食っても、あたい的には同じなんだよなぁ。


ま、他人様から見たら行儀だなんだがあっからなんだろうけど。」



 全てを箸で潰すように汁に浸していく。酸っぱい物を口に広げながら、沖田は行儀の問題ではないように思った。



「どっちにしろ、一端はあいつの所に連れて行った方が良いか。

一人にして迷子になられても困るし。」



 汁椀で女の顔が塞がれる。



 どんな味がするのだろう。



 興味と恐怖が同じほどの分量で胸を占めている。


 中身が空になった椀を膳に戻すと、女は箸を置いて手を合わす。

 色々なことがちぐはぐに思えたが、どんな所作も芯が通ったように綺麗に見える。


 沖田が目を離せずにいると、膳を手にした鈴音はさっと立ち上がる。



「ほら、行くぞ。

お前も膳持てよ。」



 沖田は立ち上がり膳を持つ際、一つ残された膳に気がつく。散歩にと部屋を出た、静代の膳である。


 自身の膳を片手に残る膳を取ると、「おい、それ貸せ。」と、障子を開けようとしていた手が伸ばされてきた。


 その白く形の良い手に膳を乗せると、体勢を整えた鈴音は足で障子を開ける。


 両手が膳で塞がっているといえばそうであるが、女が足で障子を開ける様を生まれて初めて目にした沖田は見とれてしまう。



「何してんだよ、行くぞ。」



 廊下に向かって歩んでいた鈴音が、反るように部屋へ顔を戻してきた。沖田は小さな体を飛び跳ねさせながら、鈴音の後を追うために小走りとなる。


 部屋を出た際、鈴音を真似て障子を足で閉めてみようと伸ばしてみるが、体勢が取れず軽くよたついてしまう。沖田は仕方なく姉に厳しくしつけられた通り、一度膳を床に置き、屈み込んではその戸を横に引いた。



「おい、しょうもない作法良いから、早くしてくれよ。

また怒鳴られちまうだろ。

もう既に怪しいってのに。」



 作法はくだらないのだろうか。



 沖田は小首を傾げながら急ぎ足で後を追う。


 姉には礼儀作法や体面を重んじるように事細かに叱られてきた。酷い時には外へ立たされ、食事を抜かれるという折檻も受けた程だ。

 

 男の格好をした小柄な女の背は、目の前を颯爽と歩いていく。

 


 そんなものに拘らないと言うのなら、この女は何を重んじているのだろうか。

 


 姉とは真逆の生き物が、少年には不思議でならなかった。



















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