第一章 ヒトダスケ (29)
「別に怒ってねぇよ。」
土方が頭を上げると、
鈴音が流し目気味に自身を見つめていた。
「仕方ねぇこともある。
どんな連中に出会って来たかなんか知らねぇけどよ、会ってすぐの他人を簡単に信じられるってことの方がおかしな話だ。
ましてや、こんななりだしな。」
年季の入っている襦袢の袂を振って見せた鈴音の口元は少しほころんでいる。
「お前は自分がやらなきゃなんねぇことに従ったまでのこと。
謝ることなんざ何もねぇさ。
やるべきことをやった、ただそれだけじゃねぇか。
それにこの怪我は、あたいが上手くやれなかったからで、これもお前とは関係ない。
あの日、橋の魔が仕返しにくることを読み切れ
なかったあたい自身のせいだ。
だから、お前が謝ることなんざ、何一つねぇんだ。
それなのに頭なんか下げてっと、安い頭だと思われちまうぜ、侍のくせにってな。」
土方の口元が歯も覗かぬほどにでも開いたままになってしまったのは、彼が思い描いていた鈴音の
性格と、目の前にいる彼女の性格があまりにも相違していたからだ。
そんな彼女が初めて見せた緩みのある顔に、
視界は奪われている。
言葉こそに品はないが、女の物わかりの良さは、それなりの家で育ってきたような教養の匂いを含ませていた。
何者なんだ、この女。
土方の胸中で、興味と言い換えることができる
疑問が湧きおこってくる。
先日までの疑念と異なる感覚は頭を悩ませこそはするだろうが、そう悪いものには思えなかった。
「いや、悪かった。」
土方の言葉に鈴音は、目を丸くする。
「お飾りの侍は体面だけが大事かも知れねぇが、
誠を掲げる俺たちは自分に恥るような行いをしちゃならねぇ。
俺の読みが違えていた。
そのことでお前達に働いた無礼は謝る。」
遅れながら土方の口元も、先ほどの鈴音に倣う。
まことの……武士……。
口の中で言葉をなぞりながら、鈴音は遠くに消えた夢の中の広い背を思い返す。
「……橋本のことは悪かった。
死にはしないにしろ、怪我をさせて悪かった……と、今は思ってる。」
真っ直ぐに向けられた視線に、自分も同じ物を
返さなければならない。
鈴音は、気にかけていた橋本のことを口にする。本人は良くないことをしたと承知していたため、
その言葉を口から吐き出すには袂をいじらないではいられなかった。元来の性格もあったのだろうが、今回に関しては罪悪感の方が大きかった。
「あぁ。」
隊士一人の命を顧みないような行いに対して、
土方の返事はさっぱりしていた。
たかが隊士だからであろうか。
いや、そんな素振りを見せることもあるが、
人一人を軽薄に扱うような冷淡さを、土方からは
感じたことがない。
「それだけなのか。」
思わず聞き返してしまう。
「あぁ。
俺がお前達に対して、あの判断のままで突っ走っていたら、いずれお前が怪我を負っていただろう。
……違うか……。
現に負っちまった訳だから、橋本の件を咎めることはできなねぇし、するつもりもない。
まぁ、ここで使うのに良い言葉かは分からねぇが
お相子ってやつだ。」
少しの間の後、そうか、と小さく鈴音が呟くと、土方は金子を懐に仕舞いながら、
今度は薬包に折られた小さな紙を幾つか手にし畳に置いた。
「……なんだよ、それ。
……もしかしてお前、甘言並べた挙げ句、
あたいを毒殺しようってのか。」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。
んなことしたら、術者を探すことがまた振り出しに戻んだろうが。」
それもそうか。
鈴音は確かにと思い口を閉じる。
「薬だ。
万能薬になるから、お前の切り傷にも効果がある。
よく効く良い薬だから、毎日必ず飲めよ。」
土方はさっと腰を上げると、眉根を寄せながら
目を細めて薬包を訝しんでいる鈴音に背を向け去ろうとする。
「あ、待てよ。」
揺れる総髪が向けられたまま動きが止まる。
「あたい、薬もいらねぇよ。
それに、そんなに良い薬ならお前らが持ってる方が良いだろ。
あたいは薬なんかなくても平気だからよ。」
去られる前にと、慌てて薬包を手に立ち上がろうとする鈴音の手首が、自身よりも一回りほど大きな手に掴まれる。
顔を上げると土方の顔がよく見えた。息が触れあうほどの距離に、男は腰を屈めている。
こちらを捉える蒼い炎の瞳は、月光をわずかばかりに受け煌めいていた。
「そんな傷に薬がいらねぇはずねぇだろう。」
もう片方の手が鈴音の首筋に伸ばされる。
目的の場所に辿り着いた掌は、血が滲むさらしの上にそっと添えられた。
「この薬は多く手に入れられる。
気にすることはない。
よく飲んで治せ。」
さらし越しに重なり合っていた肌の温度が離れていく。
その刹那に瞳の奥が交じり合い、遠ざかる。 土方はくるりと踵を返し、今度こそ、部屋を後にした。
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