第一章 ヒトダスケ(19)

 流石にきついな。


 昼頃、鈴音に体調のことを指摘された時は乗り越えられる気概でもいたが、時間が経つにつれてその考えが負けてくる。


 適当な理由でもつけて、上手く切り上げるか。


 土方への疑念を失った近藤は、他の者達と談笑に戻っている。


 あらかた仕事も片付けていた土方は、普段より少し早めに休むことに決め、

食膳に手を掛け立ち上がろうとした時だった。



 膝を震わせる程の揺れが土方を襲い、薄茶に濁った汁が波打ち膳に広がる。


 めまいか。


 土方は浮かせた腰をすかさず下ろす。


「何だ何だ、地震か。

っくそ、酒が溢れちまったぜ。」


 原田が、食膳の椀を浸す無色の水を悲し気に眺めている。放っておけば、そのまま膳を舐めそうな見入り具合なため、駄目ですよと藤堂が小さな声で嗜める。

 周囲が揺れにざわめいている様子から、土方は自分がめまいに襲われたのではないと知った。


 めまいでないならと、再び膳に手を伸ばし立ち上がろうとした時、

廊下を力強く踏み鳴らす音が凄い早さでこちらに向かってくる。


「こっ、今度はなんだっ。」


 徳利を慌てて握りしめる原田の叫びと同時に障子が勢いよく開け放たれた。


「す、鈴音さんっ。」


 男装もせず、微かに肩を上下させる鈴音が立っている。

 何事かと近藤が尋ね、また、土方が苦い顔で怒鳴ろうとした刹那。



 鈴音は広間の中に向けて駆けだしていた。その足は、横並びに座る近藤と土方の方に向けて真っ直ぐ加速していく。


「えっ、ちょっ……。」


 事情も分からぬままに向かって来られ慌てふためく近藤に対し、土方は冷静に事態を把握しようと視野で捉えられる情報の欠片を繋ぎ合わせていくが、駆けだしていた鈴音の早さには間に合わない。



 チリンチリンチリン。



 帯刀された彼女の刀の鈴が激しく身を揺すり、その音がどんどん大きくなってくる。


 土方の頬を汗が伝った。


 食事の時間帯、広間に刀を持ち合わせている幹部は誰もいない。



 しまった、謀られたかっ。



 土方は、隣の近藤を守るために腰を上げ覆い被さろうと、

上体を横にひねり身を乗り出すが、それと同時に鈴音が飛び上がる。


 畳から跳ね上がった彼女の体は真横に脚を開脚させながら、一直線に土方へ向かって飛んでいく。



 彼は近藤に向けて手を伸ばす。



 大将だけを捉えた視界を遮るようにぼろ衣が眼前に広がる。



 狙いが俺なら、近藤さんは総司あたりがしっかり守ってくれるだろう。



 二本の腕に頭を包み込まれた土方は覚悟を決め瞼を閉ざす。柔らかな二つの肉塊が布越しに頬に触れ、土埃と日向の匂いが鼻孔に広がる。


 懐かしい匂いだった。土方が生まれの武州にいた頃に、よく嗅いでいた故郷の香りがしたからだ。

 殺られると覚悟を決めたものの、彼はどうした訳か気持ちが穏やかになった。


 ぐらりと半身が傾く。


 土方は、鈴音の勢いに押され体勢を崩しながら仰向けに倒れていった。



 沖田や原田など組長連中が自分の名を呼ぶのが聞こえるが、その声が遠いのは鈴音が頭に回した腕が、両耳に重なっているからであろう。

 畳に打ち付けられ、その衝撃に伴う痛みが背中に走る。不調もあってか、背骨を襲う痛みは重く、常より倍に感じられた。

 土方は続けてすぐにくるであろう頭部の痛みに歯を食いしばるが、一向にその痛みは伝わってこない。


 代わりに、すっすっという何かが畳に突き刺さるような音が幾度か聞こえ、大きくなった周囲のざわめきだけが遠巻きに聞こえた。


 刃で皮膚を裂かれたような痛みもないため土方は瞼を押し開けるが、

視界は闇に包まれたままだ。


 埃臭い臭いと、人一人の重みが頭にのし掛かっているため息苦しい。体格的に鈴音は華奢な方であるため、そう重みに苦しむことはないが、頭をきつめに包みこむように抱かれながら、人間の全体重が頭に乗っているのだ。

 やはりそれなりに呼吸がしにくい。だからといって大きく鼻を広げ空気を吸い込もうとすれば、古びた着物の臭いが鼻をつき咳き込みそうになる。おまけに鉄臭さも

混じっているような気がした。


 満足に呼吸をしようとすればするほど、二つの穴を行き来する臭いが何であるのか考えれば考えるほど、正しい呼吸というものが分からなくなってくる。

 近くでは足音や人の声がするが、何が起きているのかその目に映すことも叶わない。


 というよりか、何故誰も助けに来ないのかと考えると、土方は段々と腹が立ってきた。

 その腹立ちをぶつけるかのように微動もしない頭の埃臭いおもしを払いのけると、それは思っていたよりか楽に横に転がっていく。


 外の世界を遮断していた腕が視界を離れ、その現状を眼が捉える。


 まず始めに映ったのは、後頭部をさすりながら沖田の背に庇われている近藤の横顔だった。


 土方は大きく息を吐いた。ようやく十分な呼吸を取れたかのように胸が楽になったのは、頭のおもしがなくなったことだけが原因ではないだろう。


「トシ。」


 視線に気がついた近藤は、土方に顔を向け近寄ろうとするが眼前の若い剣士に遮られ叶わない。よく見ると近藤の顔が細長く赤らんでいる。


 鈴音の綺麗な開脚に足蹴りされた跡だろうか。


 土方は頭を動かし、さらに周りの状況を確認すると、壁際に座っていた近藤の近くに組長達が寄り集まっているのが見えた。

 広間を幹部と組長で集まり使用する際、その並びはなんとなく決まっている。奥の壁を背に近藤と土方が両隣に座り、その横から障子に向かい、縦二列でそれぞれの組長が顔を合わせるように座っているのだ。


 それが一カ所に全員で集まっている。


 近藤を守ろうとして集まったのか、と土方は一瞬思う。ただ、それにしてはどこか表情が強ばっており、不思議なことに全員が開け放たれた障子側に顔を向けている。


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