第一章 ヒトダスケ(10)
そろそろ頃合いだな。
鈴音は、敵の霊気に中り土まみれになりながらもがく、土方達を見つめている。
冬の吐息のような靄で彼女の視界も悪くはなっているが、地面で苦しむ彼らほどではない。
霊気に慣れているということもあるが、自身の体内から放たれる霊気が護りとなっているため、耳鳴りや頭痛に関しても、鈴音にはさほど影響がないのである。
「……うっ、う……。」
身を捩りながらも、妖物に向かって行こうとする土方を、川で蠢く闇が笑っている。
強い闘志も精神も限界に来ているのだろう。 立ち上がろうとうめく声より、頭を押さえ悶える声の方が多くなっている。
他の隊士など、戦意の欠片も見られない。 その中で、よく持ちこたえた方ではあるが、それも時間の問題だ。
堪えきれない痛みと不調に、気が遠退いている。
このままいけば確実に意識を失い、魔の物の餌食だ。
元より、彼らを見殺しにする気がなかった鈴音は、霊気で十二分に苦しんだ新選組一行にため息を送ると、柄と一緒に握りしめていた鈴をその手から解放する。
柄と唾の間に結ばれた鈴は、自由になれたことを知ると、その身を宙で踊らせた。
こんなところで、くたばってたまるか……。
歯茎が痛むほど歯を食いしばろうと、手元の草を引きむしりながら体を前進させようと、視界はぼやけていく。
百戦錬磨の兵も、それは相手が人であるが故に成し得た所業・功績である。
虚しくも土方の瞼が閉ざされていこうとした、その時だった。
リーーーーン。
研ぎ澄まされた清い鈴の音が、不快な耳鳴りを追い越し、鼓膜を突き抜け脳裏を駆けた。 圧迫されていた体が軽くなり、一切の不調が消え失せる。
……何が起こった……。
訳も分からぬまま、土方は体を起こす。
僅かに残る額の痛みに、頭を撫で付けながら隣を見上げると、鈴音が真横に立っていた。 柄に吊られた鈴が左右に揺れながら、時折り耳に心地の良い音を鳴らす。
霧が晴れてやがる。
辺りをさっと見回すと、倒れている隊士や、きょとんとした面持ちで、地面から体を起こし座ったたままでいる隊士がいた。
あらゆるものが、平生のようにはっきり見てとれた。
土方は再度、鈴音を見上げる。
「お前が何かやったのか。」
鈴音は変わらずその問いに答えなかった。
だが、黒き御簾の奥からは、呆れの眼差しを向けられているような、そんな気がする。
土方は、ばつが悪いようなむず痒さに、それとなく視線を逸らす。
そして息を飲んだ。
一見すると半裸の女ととれそうなものが、川から身を乗り出し、こちらを見つめていたからだ。
それは土方と視線が交わると、耳まで避けた口を薄く開けながら嫌な笑みを浮かべる。
恐ろしい。
その一言に尽きた。
芝居や蒔絵、隊士のくだらぬ落書き等で物の怪類いの絵を幾度か見たことはあるが、そんなものでは到底計り知れない恐怖がそこにはある。
視線を敵から背けるなど、性格上しない土方も流石にたじろぎ、心ばかり黒目をそれから避ける。
背けた先では妖物の下半身が見えた。あれが女体であれば、どれほどましだったことか。 青黒くうねる蛇の胴体のような半身に、僅かな頭痛の存在も忘れてしまう。
川からのぞくその半身と、上半身を軽く勘定すると八尺~九尺の長さがあるように見える。
乱れて額にかかる髪を、土方はため息交じりに吹き上げた。
これが本物ってわけか。
あらゆる容姿容貌を想定していたが、やはり実物を直視すると足がすくむ。
初めて刃で人間を斬り払う時も、それと同じようなものを感じた。
いや、人間の時の方がまだ幾ばくかましだったか。
今となっては、そんな戸惑いも薄れてしまったが、初めての体験を前に朧気になっていた感覚が呼び覚まされる。
そんなことを噛みしめながら再度、鈴音を見上げてみると、寸ほどの恐怖も見せずに川の妖物を見つめている。相手がかかってこようものなら、いつでも斬り捨てる。そんな様に見て取れた。
鞘を握り鍔に添えられた親指が、抜刀を意識している証だ。その親指は余裕を知っているようで、鍔を押し上げたさそうにしながらも、装飾彫りが施された鉄を撫でたり弾いたりと遊んでいる。
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