第一章 ヒトダスケ(9)

 自分の後を追う足音を耳にしながら、傾斜の終わりで足を止め、前方に目を凝らす。


 微風によってつくられる霧のまにまに、ぼんやりと川が見えた。これほど濃い霧の中で反射するはずもない月の光が、水面を照らしている。


 月明かりに照らされた夜露を、白玉に喩える和歌があるほどだ。


 水面のきらきらとする光は、靄の合間からもはっきり見えた。こんな状況でなければ、幻想的なこの川面の美しさに浸ることもできたのだが、土方にそんな余裕はない。


 細めた視界を、見落としのないように注意深く向ける。


 くるぶしほどの高さに伸びた雑草の中に、人らしきものが倒れているのが見える。


 「橋本っ。」


 思わず橋本の名を叫ぶが、本当にそうなのかは、はっきりと分からなかった。


 そうあって欲しいという願望が、何の根拠もなく口から漏れ出たにすぎない。


 だが、土方はそれを橋本だと信じて駆け寄る。あとになって思えば、敵の罠であったかもしれないが、それを疑わなかったのは直感もあったからだ。説明を伴わぬ曖昧なものではあるが、幾度もの窮地をくぐり抜けるような戦略家は、自覚こそないものの皆、それを秘めていたと言われる。


 ある意味で直感とは、特殊能力とそう相違ないものなのであった。


 倒れている人影に駆け寄った土方は屈み込み、それを正面に向けるように抱き起こす。 顔を少し寄せて見ると、それは見知った顔であった。

 

「しっかりしろ、橋本っ。」


 意識を失っているために、目こそ閉じられているが橋本の体は温かい。


 まだ死んでいない。


 ぐったりする橋本からは、微かに鉄臭い香りがしている。 


 土方は、橋本の体を撫でるように探り、その臭いの根源を探す。


 首元から順に撫で付けていくと、左脇腹付近で掌がねっとり湿ったのが分かる。


 その辺りに、すかさず土方が顔を寄せると、血なまぐさい臭いが鼻をついた。


 顔を背けたくなるような臭いに堪えながら脇腹を見ると、着物とその奥の皮膚が二寸ほど裂けており、そこから赤い血が滴っている。 


裂けの深さ自体は浅くあるが、出血は相応の量になっている。


「おい、腹にさらしを巻いている奴はいか。」


「あ、自分巻いています。」


 土方の背に、べったりとくっついていた一人の隊士が答え、腹からさらしを巻き取る。


 衛生的に良くないと思いながらも、手ぬぐいで腹の止血はできないため、汗で湿気ったそれを受け取り、橋本の腹にきつく巻き付けていく。

 

汗と汚れの臭いが、血なまぐさい香りと混ざり余計悪臭と化したが、仕方がないことだ。


 結び目がほどけないように、ぐっと締めると橋本の口から、声が漏れ聞こえた。

 傷口への圧迫による痛みからか。

 何にせよ、生きているとはっきり確認できたことを、土方は嬉しく思えた。


 それにしても……。

 重い……。


 自身の背や腕付近に、隊士がしがみついていることは分かっているが、止血を始めたときと比べると、体重のかけ具合が限度を超えてきていた。


 寄りかかる、いや、のしかかるに近い。

 さすがに注意しておこうと、ひっつき虫達を払うように勢いよく立ち上がる。


 どさっ、どさっ、どさっ。 


 身軽さと同時に異音がした。


 微風で袴の裾がなびいたのが分かる。


 それなりの重さのものが地面に打ち付けられた音と風だ。


 何がぶつかっての音なのか。


 深く考えるまでもなかった。

 

この距離で、あの音で、地面にぶつかれるものなんて限られている。


「おい、どうした。」


 土方は、足下に倒れ込んだ隊士達の肩を順に揺さぶった。


 どこに誰が伏せっているのかは、当然ながら分からない。


 ひとしきり呼びかけると、額から伝った汗が霧の中に消えていくのが見えた。

 

「うっ……うっうううううううう。」


 足下から呻き声が聞こえ出す。

 知らぬ者の声ではない。

 聞き知った仲間の苦しむ声である。


「大丈夫か、しっかりしろ。」


 足の近場に倒れている一人の肩を、再度揺すろうと手を伸ばした時だった。

 

「ぐぁっ……。」


 土方を激しい頭痛が襲う。


 屈んでいることもできぬほどの額の痛みに、体勢を崩し思わず地面に片手をついてしまう。 と同時に、耳鳴りが起こる。


 これ以上ないと思われるほどの頭痛をさらに増させるような、鼓膜を突き破るかのような耳鳴りに、土方はとうとう体を支えきれなくなる。


 おそらく他の隊士達の呻き声の原因もこれなのだろう。


 痛みとめまいのあまり、声が勝手に口から漏れる。


 くそっ。このままじゃ殺られる……。


 土にひっつけた体を引き離そうと腕に力を入れてはみるが、回る視界に体勢を整えることができない。


 それだけではなく、這いつくばるように伏せっている背を、得体の知れない力で圧迫されているような、そんな気配さえ感じ取れた。 


平生の余裕があれば、漬物の気持ちが分かりそうだ、などと軽口を飛ばすところであるが、今の土方にはできそうもない。


 自分の脳内から聞こえていると錯覚しそうなほどの劈く音と、頭痛が視界を霞ませる。


 気が遠くなっていこうとしているのが分かる。 


 思うように開くことすらできない瞼に力みを利かすと、靄の向こう、川がありそうな位置で大きな影が揺れているのが見えた。 



 

 

  

 

 

 

 

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