第十九幕「陰謀が鎌首を持ち上げる」

 急いで外へ飛び出した遊馬と潤の頭にポツポツと大粒の雫が落ちてくる。次第にその数が増え続けると土砂降りの雨に変わっていった。薄暗く灰色になった視線の先を見据えて前へと進むが、ぬかるんだ泥が足に纏わりつきどんどんと体力が奪われていく。ようやく二人がロープの場所まで辿り着くと、斜面に泥を含んだ雨水が滝のように流れ落ちていた。


「テッド、テッド~! クソ、この雨じゃ声が掻き消されちまう。潤、お前が先に登れ」

「うん……」


 上にいるテッドにロープを引かせようとしたが声は届かず、遊馬は潤の背中を手で支えて刻々と足場が悪化するダムの底から脱出を試みることにする。だが、乾いた土はすでにペースト状になっていて踏ん張りが効かない。時折、潤が足を取られてバランスを崩すと、その度に遊馬の顔へ泥が飛び散った。


「もう少しお淑やかに登ってくれよ……」

「こ、こっちも必死なの。こんな目に遭うなら来るんじゃなか……キャッ!」

「あ、危ねぇ!」


 潤の足元が大きく崩れて遊馬はもろにその土砂を被る。前が見えないまま右手をかざすと、とてつもない重量とともに至極柔らかいお尻の感触がのしかかった。

 そのふっくらとした手触りに反応して指がピクリとひと揉みしたが、これは本能であり、条件反射であり、決してやましい下心からやった行為ではない。


「ちょっと遊馬! ドコ揉んでるの!」

「ふ、不可抗力だ……」


 すると――。


「二人とも大丈夫かい~?」

「大丈夫じゃないわ、泥だらけよ!」


 ようやく顔を出したテッドが潤の腕を掴んで彼女を引っ張り上げる。潤はどうにか足場を見つけて踏ん張り直し、どうにか頂上へ辿り着くことができた。これが知り合って以降、初めて彼が役に立った瞬間だったかもしれない。

 ふとそんなことを思い、ほっと胸を撫で下ろした遊馬は顔を上げてテッドに向けて手を伸ばす……だが。


「テッド、俺も頼む……テッド?」

「…………」


 どこか様子がおかしい。彼は酷く動揺して目を合わせようともせず悲嘆な表情でこちらを見下ろすと、突然ギュッと目を瞑ってこう言い放った。


「ソーリー……ダヨ、遊馬!」


 テッドの腕が遊馬の伸ばした手をすり抜け、首にぶら下げていたボロスコインを鷲掴みにするとそれを勢いよく引き千切る。


「テッド、お前!」


思いもしなかった彼の行動に遊馬は面食らいその場で硬直する。だが、奪われたボロスコインを放っておくわけにもいかず、遊馬が木製の柵に手をかけて最後まで斜面を登り切ると、そこで聞き覚えのある酷く耳障りな声が甲高い笑いを上げた。


「アッハッハッハ。ご苦労だったね、遊馬くん」

「て、てめぇは!」


 黒い傘をさした白スーツの男――。

 マリユス・アルベール・ド・ブーゲンビリアの姿があった。


 事故のせいか金髪のマッシュルームヘアには包帯が巻かれ、首には黒いアームホルダーが骨折した左腕を支えるように吊り下げていた。さらに彼の他にも黒服を着た屈強なボディガードが数人立ち並び、先に登った潤は彼らに捕らえられていた。


「フゴフゴっ!」

「すぐ終わるから、少し我慢してほしいネ……」


 テッドは俯いたまま遊馬から奪ったボロスコインを、いけ好かないキノコ野郎に手渡す。望みのモノを手にして口元を吊り上げたマリウスは、満足げにコインを空に翳(かざ)して見せた。


「こ、これでダディの会社から手を引いてくれるよネ……?」

「ああ、たしかに受け取った。これでスマルト・マックス社の買収計画は白紙にしよう。キミの働きにお父上もさぞかし喜んでいることだろうさ」

「…………」


 テッドは拳を握ったまま返事はしなかった。


「テッド……お前」

「本当にソーリーネ。昨日、祭りの時にメッセージが来たんダヨ。ダディの会社に敵対的TOB(株式公開買い付け)を仕掛けて買収するって。遊馬には悪いと思ったけど、他にどうすることもできなくって……」


 雨粒と涙が混ざり合ってテッドの頬を流れ落ちると、彼はアスファルトの上に膝を突いて遊馬に土下座した。理由はどうであれ、遊馬は一言も相談してくれなかったことに腹を立てたが、それ以上に親友をここまで落とし入れたマリウスに最大限の敵意をぶつける。


「人ん家の庭先で……好き勝手やってんじゃねーぞ!」


 普段は表に出さない怒りの感情を剥き出しにして遊馬が吠えると、マリウスはそれを軽く鼻であしらった。


「フン、愚民風情が粋がるな。白雨村一帯の土地買収に色を付けた額をここの政治家たちに提示した途端、彼らは二つ返事で首を縦に振ってくれてね。近い将来、この村は地図から消滅することになる。つまり、これからここはボクのになるということさ」

「お、俺たちの同意も無しに、そんなことが出来るはずがないだろう……!」


 あまりにも突拍子のない話に困惑してしまい、遊馬は言い返す言葉が出てこない。

 人を陥れる手段をよく熟知するマリウスはあざ笑うように喋り続ける。


「全ては金。これが持つ者と持たざる者、絶対的な力の差だ。我ら貴族階級と労働階級の間には、決して渡ることのできない神聖不可侵な断崖があると知れ。キミらはなだ一族には随分と手を焼かせられたが、元はと言えば、荒木が我々との契約を反故にしてこんな片田舎に《アレ》を隠したせいだ。そのせいでこんな回りくどい手を使う羽目になるわ、ボクの愛車は大破するわ……。チッ、まったく忌々しいガキ共だ」


 急に苛立ち募らせたマリウスが舌打ちをする。

 何故、マリウスがそんな顔をするのか不可解だったが、遊馬はふと彼の後ろにいたボディガード、さらにその後ろにあった黒いリムジンに目が留まった。


「ナズナっ!」


 彼女は分厚い窓ガラスを拳で叩いて何かを叫んでいる。けれど、その声はこちらに届くはずもなく、こちらの言葉も黒塗りのドアとガラスに阻まれていた。身の毛がよだつほどの怒りが湧き出し、遊馬はマリウスに向かって腹の底から込み上げた声をぶつける。


「てめぇ、ナズナをどうするつもりだ!」

「どうするも何も、彼女はボクのフィアンセだぞ。G2D以後、百年近くかけて築き上げた金融という錬金術を失った我々プルトノミー、金融寡頭勢力きんゆかとうせいりょくは、廃れた近親婚を繰り返してどうにか財産を守ってきた。それが持つ者に課された責任であり、彼女はソルフェルノ家の財産そのものということだ。ただ婚姻はまだなのでといったところだが、この件が片づけばボクは正式にソルフェルノ家に迎えられることになるだろう、フフフ……」


 つまりマリウスにとってナズナの価値は《金銭》であり、ただの《所有物》だということだった。人を物としか見ていないマリウスの腐りきった思想に、遊馬は吐き気を覚える。


「ナズナ、お前は俺に自分の夢を語ってくれたじゃないか。こんなヤツの言いなりになることなんてない、俺のところへ戻って来い!」


 この時、どうしてこんな行動に出たのか分からない――。


 気が付いた時にはすでに走り出していた。遊馬は無我夢中でマリウスの脇を抜けると、肘が当たり黒い傘が宙に飛ばされた。ただ彼女だけを見据えて駆け寄り、ガラスに手を当てたナズナに指が届きそうなった瞬間、遊馬は黒服の一人にタックルされて思い切り地面に叩き付けられた。

 倒れた衝撃で遊馬の顔から叔父のボロスグラスが外れ、アスファルトの上を音を立てて滑った。


「ぐはっ!」


 天地がひっくり返って空を仰ぐと豪雨はいつの間にか小雨へと変わり、雲の隙間から陽が漏れ始めた。まだらな水たまりに光が反射させると、マリウスが落とした傘を拾い上げてこちらへ向かってくる。


「うーん、実に良い負け犬の顔が見られて気も晴れた。キミのとのおしゃべりは充分楽しませてもらったよ。さぁ、余興は終わりだ。犬は犬小屋に逃げ帰りたまえ」


 彼はそう言い残してこの場を去ろうとする――だが。


「待て、まだ話は終わってねぇぞ! 俺から奪ったその鍵を……叔父さんが残したお宝をどうするつもりだ!」


 遊馬がありったけの声をマリウスの背中にぶつけると、靴底の音がピタリと止まり、彼はアゴを上げてこちらに振り返る。すると、彼の蔑んだ眼差しと悦に入った表情が混ざり合い、それが笑いへと変わっていった。


「ハハッ、まさかキミ……の価値も知らずにこんなゲームを続けていたのかい?」

「てめぇ、何がそんなに可笑しいんだ!」

「いや~、ここまで間抜けだとは思わなかった。そのおめでたい小僧を放してやれ」


 軽く会釈して遊馬を開放する黒服。抑えつけていた太い腕が退かれると肩に圧迫された痛みが少し遅れて伝わってくる。

 そして、最後にマリウスは遊馬が知りたがっていたお宝の正体についてこう告げた。


「キミがボクのために見つけてくれたのは、ボロスの根本を制御するプログラム、《マトリクス・コード》を操るキーだ。今や金融の時代は終焉を迎え、まだ規模は小さいがボロスによる平等経済が幕を開けようとしている。今夜、各国で稼働しているボロスが一つに繋がれば、莫大な資金が濁流となって廻り始め、再び世界で新たなマネーゲームが展開されることになるだろう。つまり――」


 マリウスが指先でつまんだボロスコインを己の横顔に並べる。


「このコインはボロス内で自然産出する資源、生産物、果てには気候さえも操ることができる魔法の鍵だ。これさえあれば、好きな時、好きな場所に、好きなだけの利益を生み出し、逆に刃向かう者から富を巻き上げることさえ可能だ。これぞまさしくだよ!」


 その嫌らしい言葉を耳にして、遊馬はマリウスのニヤケ顔が止まらない理由をようやく理解した。ボロスは人間には解決できない不平等を穴埋めするため、叔父が造り上げたシステム。

 それをこんな小悪党に手渡すため自分たちが利用されていたとも知らず、浮かれた気分で子供じみた遊びに興じていたのだと。


「ちくしょう……」

「荒木は何故こんな小僧に託したかは知らないが、これでナズナのお父上、ソルフェリノ氏を恐れる必要も無くなった。あの方はボクよりも残忍で冷徹な人間だ。彼に渡さなかっただけキミは良い行いをしたんだ、誇りに思いたまえ。では、もう会うこともないだろう――さらばだ」


 マリウスが黒塗りのリムジンに乗り込み、分厚い扉が音を立てて閉められる。

 ガラ空きの駐車場を大きく一回りして、マリウスとナズナを乗せたリムジンは曲がりくねった林道へと姿を消していった。


 ――世の中なんてどうでもいい、自分には関係ない。


 日頃からそんなことしか考えていなかった遊馬だが、やるせない感情で胸が押しつぶされそうになり目頭も熱くなる。小雨で体に付いていた泥が流れ、濁った雫が握った拳の先に溜まると、それは一筋の涙みたくぽたりと水たまりに落ちた。


「ごめん……ナズナ」


 気概を失ってしまった遊馬からしばらく言葉が出てくることはなかった。

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