第十八幕「さようならとの再会」

 ダムの周囲を囲うように造られた側道――。

 右へ左へと山の側面を模って川の上流へと続いている。途中に少し拓けた高台に展望台があり、そこだけ斜面が緩やかになっている。二台のバイクは展望台の駐車場に到着するとダム側にほど近い場所で駐車した。


「到着っと。テッド、お前に預けたローブをくれ」

「オ、OH~、もう着いたんだネ……」


 テッドは手にしていた携帯端末をズボンのポケットに押し込み、尻に敷いていたロープを遊馬に手渡す。高台をぐるりと囲った丸太の手すりに受け取ったロープをしっかりと巻き付けた。遊馬は最後に二、三度グッと引っ張って解けないか確認する。


「これだけしっかり括っとけば大丈夫だろう。さぁ、誰から降りる?」


 三人のうち、ナズナと視線が重なると……。


「わ、わ、わ……私、無理です。こんな高いところ降りられません……!」


 彼女は全力で首を横に振った。先日、二階から飛び降りようとする勇気があったので、てっきりナズナはついて来ると思ったが、遊馬の勘違いのようだった。

 次にテッドの顔色を窺うと……。


「……ミ、ミーも頭脳派だからパスネ。地理に詳しい遊馬とナズナの二人で行っておいでヨ」

「ったく、情けねぇな。潤、お前は行けるか?」


 結局、拒否されて最後の一人に望みをかける。

 けれど、遊馬が気にかけることなどなかった。


「なーに言っちゃってるの。幼い頃から野山を駆け回ってたんだから、このくらい朝飯前よ。アンタこそ、ずっと引き籠もってたから体が鈍ってるんじゃないの?」

「随分と大口叩くじゃないか、頼りにしてるぜ」

「まかせときなさいっ!」


 さすがは山育ち。遊馬が思わず笑みを溢すと、潤は腕組みした腕で大きな胸と自信満々の口元を持ち上げた。彼女とこうして意気投合するのは数年ぶりのことで、当時の懐かしさと楽しさが少しだけ脳裏に蘇った。


 ――すっかり忘れていたこの気持ち、悪くない。


 そして、ナズナが首のチョーカーを外しボロスコインを遊馬に手渡す。


「いつもこのコインに変化があったので持って行って下さい。半分は遊馬さんのモノですし、成功するって信じてます」

「そうだな、こいつは預かっておくぜ。絶対にお宝を持って帰ってナズナを自由にしてやるからな」

「はい、お気を付けて……!」


 遊馬はロープを握って意気揚々と斜面を降りる。日照りで斜面の土がカラカラに乾燥しているので踏みしめる度、砂が谷底へと流れ落ちていく。後から潤も続いて降りてくるのを確認し、遊馬が足場を確かめながら先へと進む。

 もうじき斜面を下り終えようとした時、潤が足場を崩して頭上から野球ボール大の岩が幾つも転がり落ちてきた。


「わ、馬鹿! 危ねぇだろう!」

「そんなこと言ったって、どこ踏んでも崩れちゃいうんだから仕方ないでしょ?」


 遊馬が顔を上げると、黒いホットパンツに包まれた大きな尻がそう答える。

 太ましい露出したふともも、薄らと浮かび上がった下着のライン――。

 足を止めると、その魅惑的なお尻が左右に揺れながらズイズイと遊馬の顔に迫ってきた。思わず伸びる鼻の下。素晴らしい眺めについ見蕩れていると……突然、そのでかい尻が遊馬の顔面に落下した。潤が踏みしめた足場が脆く崩れたからだ。

 柔らかな弾力が頬に当たった直後、途轍もない重量が首にのし掛かり、遊馬は耐えきれずにロープを手放してしまった。


「キャッ!」

「ぶはっ!」


 目まぐるしく入れ替わる天と地。揉みくちゃになった二人は砂埃を上げて斜面を転がり落ちると、ダム底で大の字になって止まった。肘や膝など打ちつけた箇所は多少傷んだが、それ以上に両頬を柔らかい太ももに挟まれ、遊馬は幸福の境地へと誘われていた。


「遊馬~、うるみん~! 無事ですか~?」


 高台から見下ろしていたナズナが血相を変えて叫び、声が周辺の山に反響して戻ってくると遊馬は右手を掲げてグッと親指を立てた。


「い、生きてるぜぇ……」

「イタタタ……私も平気よ~」


 潤が土まみれになったお尻を叩いて立ち上がると、遊馬は少し名残惜しそうに身を起こす。本来ならありがとうございました! と、最高の賛辞を送りたいところだったが、敢えてお決まりの苦情を申し立てることにした。


「ったく、何がまかせとけだ。死ぬかと思ったじゃないか」

「そ、そこは、アンタが私をしっかり受け止めないから。昔の遊馬だったら……私の一人や二人くらい死ぬ気で支えてたわよ」

「いつの話をしてんだ。だいたい俺がひ弱になったってよりも、お前が重くなったんだよ。その育ちに育ったプリッとしたデカ尻と、ほどよい弾力の太ももがだな……」


 つい頬に残った余韻から本音を口にしてしまい、遊馬は慌てて両手で口を塞いだ。

 が、すでに潤の鼓膜に伝達された後だった。顔を真っ赤にした潤みが砂まみれの拳をギュッと握りしめる。


 そして、無言で突き出された強烈な正拳――。


 遊馬の頬を抉るように窪ませると、そのまま勢い任せに振り抜かれる。

 反対側の頬が地面に打ち付けられて一瞬、意識が遠のいた。


「な、な、な、何てこと口走るのよ、このヘンタイ! まさか、ずっとそんな目で私のことを見てただなんて…………気持ち悪い!」


 頭上から言いたい放題に罵声を浴びせられた遊馬は、地面に顔の型を残し、ジンジンと痛む頬を押さえて再び立ち上がった。


「グ……グーで、この娘、グーで殴りおった……」

「自業自得よっ!」

「お、お前に一つ教えといてやる。男はな、上と下に二つ頭があってだな、別々の思考を持つ生き物なんだ。全てはホルモンのせい。だから俺は悪くない」

「やめてよ、大昔に流した美少女アニメ《二人はなんとか》っていうのみたいじゃない。神聖なアニメを穢さないで、気持ち悪い」

「……もう少し、大人になろうな」


 遊馬は改めて思った。全てにおいて評価基準が幼稚な子供向けアニメというのはどうなのかと。テッドといい、潤といい、周囲には誰一人としてまともな友人がいないと気付かされた瞬間でもあった。


 ――まぁ、それは置いておいて。


 それ以上に気に掛かっているのはいつの間にか分厚く膨れあがった雲だ。今は日照り続きで足場が乾燥しているが、一度、雨が降り始めればここはあっという間に沼地と化してしまう。

 それを危惧して遊馬が曇り空を見上げていると、隣にいた潤もようやくそのことに気付いて険しい表情を浮かべた。


「降られる前に終わらせちまおうぜ」

「そうね、先を急ぎましょう……」





 二人はボロスグラスを耳にかけ、地図に標された場所を目指して歩き始める。

 昔は桜で満開だった並木道、潤と一緒にザリガニを釣った小川……。

 今は全て色褪せた土色に染まり、生命の息吹が何も感じられない死の世界だ。


「もしかしたら東地区も同じことになっていたかもしれないのよね……」

「かもしれない……けど、半分は無事に残ったんだ。若い俺らが少しでも守らないとな」

「……そう、できたらいいわね」


 急に肩を落として俯く、潤。

 彼女はアイドル声優という夢を追う以上、花梨の母みたいにいつか都会へ出てくことになる。そうなれば村に残った若者は遊馬と花梨だけになってしまうだろう。

 潤の複雑な心境を察した遊馬は、これ以上この話題に触れないことにした。


 そして、GPSを頼りに遊馬と潤はボロスグラスに指定された場所に到着する。

 だだっ広い場所で所々に朽ちた鉄棒やブランコ、ジャングルジムなどが点在していて、眼前には窓ガラスが無い木造の建物が莫然と立ち尽くしていた。


 白雨村分校――かつて、ここはそう呼ばれていた。


「まさか、もう一度ここに来るなんて思っても見なかったな……」

「そうね……」


 二人は緊張した面持ちで学舎の敷居を跨ぐと、見覚えがある下駄箱の前を通る。

 上から三段目の、左から六つ目……。当時、遊馬が上履きを出し入れしていた棚は空っぽで、喪失感を形にしたらこんな感じなのだろうと遊馬は思い、左胸のシャツをギュっと掴んだ。


 薄暗い木造の廊下に体重を乗せる。ギシギシと今にも底が抜けそうな悲鳴を上げ、一歩、また一歩と踏みしめる度に耳を塞ぎたくなる。当時、廊下の壁にある掲示板には子供の頃に遊馬と潤が図工で描いた校舎の絵や、卒業生が残した写真など、旧白雨村分校が歩んた歴史でびっしりと埋められていた。

 だが、今は全て濁流に呑まれて跡形も無くなっていた。もちろん遊馬はこの有様を予想できてはいたが、イメージすることと肌で感じることはまったく違っていた。


 そして二人は――10年ぶりに別れを告げた教室へと足を踏み入れる。


「机も椅子も、みんな無くなってるね……」


 潤の一言が肩に重くのし掛かる。


「木製だったし、全部水に浮いて窓から外に流されたんだろうな」


 ガランとした室内。あるのは石や泥、流木が転がっているだけ。他に視認できるものと言えば黒板だったがこれも泥に覆われていて、かつてここに書き残した別れの言葉もすっかり消えていた。これが潤にとってトドメとなった。


「私……もうここに居たくないっ!」


 目尻に大粒の雫をたわめて潤がやるせない想いを吐露する。


「……無理するな。後は俺一人で探してみるから、お前は外で待ってろ」

「うん、ゴメンね……」


 痛いほど潤に共感できてしまう遊馬自身もここにいることは辛かった。こんなことでも無ければ一生近寄りたくもない場所、これ以上彼女を付き合わせるのは酷だと思い、気遣ってそっと彼女の肩に手を伸ばそうとした――その瞬刻。


「うわっ!」


 目映い光が二人の視界を遮った。

 ボロスグラスが強制的にVRBモードに移行したからだ。


 目の前が真っ白になり徐々に焦点が合ってくると、そこには夕方の陽射しと綺麗に整列した机と椅子。それと……すでに消えたはずだった別れのメッセージが刻まれた黒板が、当時と寸分たがわぬ姿で蘇っていた。


「これって、最後の日に私たちが書いた……」

「……ああ、あの日のままだ」


 きぼう――。


 それは白や紅、青や黄色のチョークを飾られた花の中心に、大きく記された言葉だった。思い出した、遊馬の目頭と胸が急激に熱くなる。たとえ仮想世界の中だとしても、再びあの日に戻れるとは思ってもみなかったからだ。


「叔父さんが残しておいてくれたんだな。いつか俺たちがここへ来ると見越して……」

「うん、荒木さんも分校が無くなるのを惜しんでいたものね」


 遊馬の言葉に潤が相づちを打つと、二人は感慨深い気持ちになってもう一度、自分達が残した黒板のメッセージに魅入る。

 すると、描かれた文字や装飾が突然微粒子となって入り乱れて複雑にシャッフルし、チョークの粉が黒板に新たに文字を形作った。


《フェーズⅢ――最後のゲーム、忘却された一手を指せ》


「最後のゲーム?」


 そう遊馬が呟き潤が首を傾げた、その時――。


「見て遊馬、天井が!」


 縦9マス、横9マス、計81マス。


 タイル状に区切られた羽目板に《将棋》の盤上が浮かび上がる。

 そこに無数の駒が配置されていくと、遊馬が叔父と最後に対戦した戦局が再現された。


「別れの日、叔父さんとやった……あの一局だ」

「そういえばアンタ、昔は村のお爺ちゃん連中をよくやってたわよね。将棋のルールはよく知らないけど、これどっちが勝ってるの?」


 その言葉に遊馬は苦笑いする。


「俺のボロ負けだよ。叔父さんは俺みたいな凡人と違って天才だからな、それも人類に貢献できるような逸材だった。だからこそ俺が憧れるヒーローだったんだ」

「初めて村から出た学者だ、村の誇りだって、小さい頃から聞かされていたものね。陽気で、聡明で、尊敬できる人だった。私にも同じ想いが残っているわ」


 潤も懐かしそうに当時を振り返り、喪失感を埋めるように盤上を眺めた。

 すると、遊馬は天井に並べられた駒の配置に違和感を覚える。


「あれ? 待てよ、もしかしてあの時……俺がここに、こう打っていれば……」


 遊馬は指を天井に翳して持ち駒の《角》をタップする。

 それを盤上に移して、《3一》に鎮座した玉将に《1三角》と指す――王手。


 途端、VRBモードが解除されて天井一面にあった駒が次々と消えると、《角》を指したタイル状の羽目板だけが赤く点灯していた。しばらく二人でボロスグラスに赤く映り込んだ羽目板を見上げていると、潤が先に沈黙を破った。


「正解……だったの?」

「だと、思うけど」

「本当に? 失敗したから、VRが解けちゃったんじゃないわよね?」

「知らねぇよ……」

「じゃあ、あの板……外してみましょうよ」

「マジか? いくら背が伸びたといったって、天井に手が届かないぞ」


 遊馬が弱気な言葉を吐くと、潤はフフンと鼻を鳴らした。


「アンタ、肩車しなさい。もやしっ子でも、か弱い女の子を一人くらい担げるでしょ?」

「か弱い? そいつぁ、聞き捨てならないセリフだ……ナァタタタタタッ!」

「や・る・の? や・ら・な・い・の?」


 潤に首を羽交い締めにされた遊馬は必死に彼女の腕をタップする。


「ゲホゲホ……本当、お前って容赦ないな」

「失礼なことを言うからよ。ほら、さっさと屈みなさい!」

「へいへい」


 赤く点灯する木板の下で膝を折ると、遊馬の両肩に有り得ない重みがのし掛かる。

 思わず愚痴をこぼしそうになったが、羽交い締めはもう嫌なので苦笑いしながら吐きかけた言葉をゴクリと呑み込む。


「いいわよ~。そのまま立ち上がりなさい」


 ――簡単に言ってくれる。


 遊馬は丹田に全ての力を集中させて息を止めると一気に潤を担ぎ上げた。

 そして、プルプルと震える遊馬の膝。


「少し左……いや行き過ぎよ、戻って。ああもう、しっかりしなさい!」


 しかし、潤の細かな指示を受けながら遊馬は別の敵と格闘していた。

 それは若さゆえのリビドー(欲望)。


『太ももに挟まった左頬が右回転! 太ももに挟まった右頬が左回転! その二つのももの間に生じる圧縮状態の圧倒的破壊空間は、まさに歯車的エロスの小宇宙!』


 と、思わず某人気漫画のナレーション的ツッコミを自分自身に入れた遊馬は、歓喜と苦痛の間で意識が別宇宙へと昇天しそうになった。

 だが、木板の重さが後ろに加算されて遊馬が大きくバランスを崩すと、潤の両ももがこれまでにない力で遊馬の顔を挟み込んだ。


 ――このままだと窒息する。いや、むしろこのまま窒息したい!


 感情は複雑に入り交じり意識を失いかけた遊馬がうつ伏せに倒れ込むと、潤みの悲鳴とともに泥まみれの床に額をぶつけて、遊馬はようやく自我を取り戻した。


「イテテテ……無事か?」

「そ、そっちよりはねぇ~……」


 背中で馬乗りになっていた潤が大きなお尻を退けて、倒れた遊馬に手を差し伸べる。その握った手の柔らかい感触があの太ももの肉圧を想い起こさせて、遊馬は再び心拍数が跳ね上がった。

 しかし、そんな遊馬の異変に気付きもしない潤が外した木板を持ち上げると、板の裏側に焼き印されたQRコードを発見した。


「ふふーん、どう? 私がいて良かったでしょ?」

「はいはい、潤さんのおかげですよ」

「アンタはいつも投げやりなんだから、もっと感情を込めて感謝しなさいよね」


 ――はぁ、面倒くさい女だ。


 遊馬がため息に込めて声にならない愚痴を吐き捨てた、瞬間。

 雷光と共に、地鳴りのような轟きが朽ちた校舎を激しく震わせた。


「キャアアアアアア~っ!」


 雷に怯える潤が遊馬の胸に飛び込む。


「ヤバイな……こりゃ本格的に降られるぞ」

「さ、さっさと取り込んで、ナズっちの所へ帰りましょ……」


 雨が降れば、周囲は一瞬にして沼地になってしまう。そんな中をズブ濡れになって帰ることだけは勘弁なので、遊馬は手早く、木板のQRコードをボロスグラスに取り込む。


「認識――」


 パシャリと音を立てて切り取った情報が電子化されると、画像がグラスの記憶領域に保存される。それが解除コードとなって封印されたプログラムが実行された。

 遊馬の胸元で閃光が爆ぜる。ボロスコインに最後の宝石が追加され、それがエメラルドグリーンの輝きを放った。


「やったわね、これで全部揃ったみたい」

「いや、まだ何かあるぞ!」


 完成したボロスの紋章が三つの宝石と呼応して、コインの縁から白く光る突起が現れ、《鍵》の形が形成される。そして鍵の先端が映写機のように映像を映し出し、手前の壁一面に《ある場所》を示した地図が映し出した。


「あそこに隠していたのか。毎週通ってたのに今まで気付かなかったなんて……」

「知ってるの?」

「知ってるも何も、あそこは……」


 潤に《あの場所》のことを話して良いのか、ロロ子の顔がチラつき少しまごつくと、再度唸った雷鳴に打ち明けるタイミングを奪われてしまった。

 肩を強張らせた潤が、遊馬のシャツの裾を引く。


「もう限界、早くここを出ましょ!」

「そうするか……」

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