第十四幕「揺れる心と手作り弁当」

 ジリジリと肌に照りつける紫外線と風に乗った青い匂いを体全体で感じ、ナズナは遊馬の自宅まで続く長い一本道を歩いていた。

 お気に入りのつば広帽子といつもの白いミニワンピース。大きなバスケットを肘に掛け鼻歌を歌いながら、早起きして作ったお弁当を遊馬が頬張る姿を想像する。


「喜んでくれるかな、ちゃんと美味しいって言ってもらえるのかな……?」


 だが、不安と期待を胸一杯に詰め込むとナズナは急に立ち止まる。

 仮に食べてもらえなかった場合を想像して急に恐くなった。

 ――やっぱり帰ろうか、と。


「ダメダメ、きっとあの人なら私を救ってくれるはず。新しい人生を見つけるために、ここへ来たのだから……今日の目標はこれを遊馬に食べてもらうんだ」


 ナズナはバスケットに目を移してそう決意すると、震える膝にグッと力を込めて、再び前へと進み出した。

 遊馬の自宅まで約2キロの道のり。雑草混じりのアスファルトの脇に鎮座した地蔵に目が留まる。村人が着せたのか、風邪を引かないように毛糸で編んだ赤い帽子と前掛けを身に付けていた。

 ちょっとした心遣い。ほっこりとした気持ちを地蔵から分けてもらった気がした。

 最初は見慣れなかった田園風景も少しずつ自分の中に溶け込み、親しみが増していくのを感じる。いつか村の全てが息をすることと同じくらい、当たり前に思えるようになると良いな、と心の中で呟く。


 ナズナはこの国で産まれはしたが、すぐに父がいるイタリアへ移ったので日本に関する思い出は何一つない。けれど半分この国の血が入っているためか、白雨村に来てからずっと郷愁のようなものを感じ続けている。

 今は亡き母がナズナを身籠もった際、しばらくこの村で余暇を過ごしたと聞かされていたが、もしかしたら母が感じた記憶が自分にも受け継がれているのかもしれない。


 日本でも有数の旧家であった来栖家――。

 明治時代から鉱山や製糸場、造船所などを経営して莫大な富を築いた一族で、母はこの来栖家最後の跡取り娘だった。しかし、急激な近代化と目まぐるしく変化する時代の流れに呑まれ、かつての繁栄は次第に色褪せていった。

 そんな時、来栖家が所有する商社がイタリアの企業に買収され、その企業を仕切っていた父、ベルナボ・デ・ソルフェリノと、母であった来栖千歳に縁談話が持ち上がった。

 由緒あるイタリア貴族、ソルフェリノ家との関係が強まれば、落ち目の来栖家は安泰。親族の間で強引に縁談は進み母の意思は無視され、ソルフェリノ家に嫁いでいった。

 その母からナズナによく言って聞かされていた。望んだ結婚ではなかったけれど、父と出会えて幸せだった。何よりナズナを授かることができたことが一番の幸福だと。

 けれど、そんな母も第二次世界規模金融危機(G2D)に巻き込まれ、事件発生時の混乱で起きた飛行機事故によってこの世を去ってしまった。


 ――そして今度は、自分の番やってくる。


 ナズナは下唇を噛んで俯くと遊馬の叔父、荒木の言葉を脳裏で連呼する。


『もし困ったことがあれば縹遊馬を頼れ。アイツはお前の救世主になってくれる男だ。段取りは全て整えてある、後はお前が一歩踏み出す勇気があるかどうかだ』


 彼がナズナと遊馬に何を探させようとしているかは分からない。

 父、ベルナボもそれについて何も明かしてくれなかった。


 今は信じるしかない――。

 がさつで、面倒くさがり屋で、口が悪くて……。

 でも、困った時には必ず手を差し伸ばしてくれる遊馬。


 いつまで白雨村に滞在できるか分からない、突然別れが訪れるかもしれない。

 それでもナズナは内気な背中を押してくれる彼に惹かれずにはいられなかった。




 道なりに歩いていると、ナズナの行く手に朽ちかけた小屋が見えてくる。

 隣には錆びついたバス停の標識。廃線で野ざらしにされたバスの待合所だろう。

 ナズナが腰を屈めてそっと中を覗いてみると、


「わぁ……美味しそう」


 待合所は野菜の無料販売所になっていた。

 白雨村で栽培されたピーマン、南瓜、きゅうりにトマトなど、色とりどりの夏野菜が廃材で組んだテーブルの上に所狭しと並んでいる。海外では考えられない。

 話には聞いていたがナズナは目にするのは初めてで、ちょっとした感動すら覚える。

 これも村人たちの信頼と正直さがあるからこそ成り立っているのだ。

 するとナズナはふと、販売所の隅に設けられた長椅子に目が留まる。


「花梨ちゃん? こんな所で何してるの?」

「…………」


 しかし返事はない。花梨はただじっとこちらを睨み足をバタつかせていた。

 ここは村人が雨宿りや避暑するのに適した場所で、花梨は容赦ない日差しから逃れようと一休みしていたのだろう。それに遊馬を盗られると思い込んでいる花梨に、何を話しかけても口を聞いてもらえそうにない。


 ナズナはそう思っただけでまたもや心が挫けそうになった。

 いつか花梨とも仲良くなりたい、これはナズナの本心だった。


 そこへ突然――。


 背後から騒々しいエンジン音が唸りを上げ、赤いランボルギーニがスリップしながらナズナの前に急停止する。車のドアが開かれて中から白いスーツに赤いシャツ、黒いネクタイを締めた金髪の男が降りてきた。


 マリユス・アルベール・ド・ブーゲンビリア。

 ナズナがこの世で一番嫌悪する男であった。

 彼は靴底を鳴らしてこちらへ近づいてくる。


「やぁ、ハーニー。こんな寂れた場所で何をしてるんだ?」

「マリウス……さん、おはようございます」


 サングラスを外して胸ポケットに引っ掛けたマリウスは、怯えたナズナを舐めるように見定める。手にしたバスケットに視線が留まると、ナズナの意を察してそれを嘲笑した。


「まぁキミがここで何をしようと自由さ、今のところはね。だが、こんな子供じみたことをいくらやっても現実は変わりはしない。キミはボクのフィアンセなのだから」

「…………」


 ナズナは何も答えられなかった。


「フン、相変わらずの黙りか。だがこれだけは忘れるな。キミがあの小僧をどれほど好こうが、貴族階級の我々と生きる世界が違うんだ。所詮、下賤な労働階級の人間はどこまで行っても、奴隷根性が染みついた卑しい存在でしかない。金という信仰で彼らを縛り導くことこそ、持つべき者の使命であり特権なのだ」


 高らかと語るマリウスにナズナは違うと反論したかった。

 この無料販売所みたいに人々が信頼し合う心ことこそ、得難いモノなのだと。

 いくらお金があっても、本物の愛情や友情も値札は付けられない。

 仮に付いたとしても、それは偽りに過ぎないのだから。


 ナズナが俯いて顔を隠すと、いきなりマリウスにアゴを掴まれる。


「キミの役目は何だ? お父上がわざわざこんな片田舎にキミを寄こした理由を考えて見ろ。ここには我々の《未来》がある。それを持ち帰ることこそ、ボクとキミに課せられた役目だ。これ以上、お父上のご不興を買わないように心して行動することだ」

「…………」


 マリウスが投げるようにアゴから手を放すと、よろめいてナズナはバスケットを地面に落としてしまう。慌ててバスケットを拾い上げるナズナを流し見すると、マリウスはその様子を鼻で笑って車に戻っていった。


 最後に、彼は車の窓を開けて吐き捨てるようにナズナに告げる。


「この調子で残り二つも探し出せ。あの遊馬とかいう小僧をたぶらかしてな」

「ど、どうして……わ、わ、私はそんなつもりなんて…………!」


 悔しい。精一杯の声を張り上げてマリウスの言いようを否定したが、エンジンの爆音がそれを掻き消してしまう。急発進したランボルギーニの背後を見送ると、ナズナにできたのは、目頭に熱く込み上げた涙をグっと堪えることだけだった。


「グス、早く行かなきゃ……」


 ナズナはハンカチで湛えた涙を拭うと、あることを失念していたと想い起こす。

 それは無料販売所に座り込んでいた、花梨のことだ。


「そういえば、花梨ちゃんとお話ししようとしてて……あれ、花梨ちゃん?」


 だが、休憩所に彼女の姿はない。

 もしかして、さっきの会話を聞かれて完全に嫌われてしまったのか?

 そんな不安が脳裏で渦巻き慌てて花梨の姿を探したが、やはり見つからない。


「遊馬の家へ先に行っちゃったのかな……後でちゃんと誤解を解かなくちゃ」


 落ち込んでいても仕方ない。

 そう自分に言い聞かせると、ナズナは残りの道のりを早足で駆け出した。

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