第十三幕「呼鈴に連打機能はありません」
今日も庭先のキンモクセイに留まった蝉が勢いよく声を張り上げて、遊馬は枕元にあった目覚まし時計を掴む。片目で時刻を確認すると針は午前8時3分を指していた。
――何だ、まだ寝られるじゃないか。
目覚まし時計を元に戻して寝返りを打とうとすると、背中に違和感を覚える。
「スウスウ……」
この感触は花梨だった。恐らく実家から公民館横にある空き地へ向かい、ラジオ体操を済ませたその足でここへやってきたのだろう。遊馬も昔、嫌々ながら行かされた記憶がある。
蚊帳の天幕を見上げて再び意識がウトウトし始めると、遊馬はタオルケットを頭から被って夢の世界へ戻ろうとしていた……次の瞬間。
『ピンポーン……』
玄関のチャイムが鳴らされた。
「こんな朝っぱらから新聞の勧誘かぁ~?」
――あー、無理。面倒くさい。
今時、新聞なんてテレビ欄さえ見やしない。
しばらくすれば諦めて帰ると思い、遊馬は耳を塞いで放置していると……。
『ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピンポ~ン……』
「あ~、うっせぇ! 誰だよっ!」
タオルケットを蹴り飛ばしズカズカと足音をたてて玄関に向かうと、遊馬は寝ぼけた顔で勢いよく引き戸を引く。半開きの瞳に映り込んだのは、大きな麦わら帽子だった。
「ふぁ?」
「ふぁ? じゃないわよ、この裏切り者!」
その声色にピシっと背筋が伸びると、昨日の出来事が脳内にフラッシュバックして、本能が今すぐ戸を閉めろと警告する。
「ちょっ、何で閉めるのよ!」
「うちにテレビはありませんからっ!」
既の所で潤に阻止されて戸の内と外で唾競り合いが始まる。麦わら帽子が上を向くと、彼女の怪訝な眼差しと片方だけ吊り上がった口元が露わになった。
「ほほう、この私から逃げようってか」
「ぐぎぎぎ……どなたか存じませんが、生憎、主人は出張に出ておりまして……」
「往生際が悪い! 末代まで水虫の呪いをかけるわよ!」
――えっ? それはちょっと困る。
遊馬が力を弱めると潤が勢いよく戸を開放しズカズカと中に押し入ってくる。
彼女に胸ぐらを掴み上げられ遊馬はそのまま玄関に押し倒されると、覚悟を決めてグッと
すると、耳許で荒い息づかいが短い言葉で
「教えなさい、昨日の続きを。私も最後まで付き合ってあげるから」
「……は、はい」
遊馬は招かれざるお客を居間に通して、キンキンに冷えた麦茶をお出しする。
本日の装いは白と紫を基調にしたボーダー柄のキャミソールと、黒地のホットパンツ。弾けんばかりの胸が縞模様を膨張させ、さらには丈の短いパンツから露わになった悩ましい太もも。首筋に垂れた汗が胸元も流れてキャミソールの中に消えていくと、お客様は扇風機に向かってキャミソールを引っ張り、大胆に汗ばんだ胸へ風を送り込んだ。
――ありがとう、真夏の太陽よ!
「ちょっと、ドコ見てんのよ」
「い、いえ、何でもございません!」
「フンっ!」
しかし、お客様はまだご立腹のようで遊馬が出した麦茶で一気に喉を潤し、勢いよくコップをちゃぶ台に叩きつける。遊馬は肩を強張らせてお客様の顔色を
すると、お客様は大きく息を吐き吊り上げた眉をやんわりと下げて、いつも遊馬に見せる明るくて勝ち気な潤の顔に戻った。
「本当~に大変だったんだからね、あの場を切り抜けるの。もう怒ってないし、アンタの背信行為も無かったことにしてあげる。だから教えて……どうして、そこにいる馬鹿は、ちゃぶ台に涙のシミを作って放心してるの?」
「あ、はい……コイツのことですね?」
言うまでもなく、それはテッドのことだった。
昨夜、帰宅した後、彼は慌ただしくボロスにフルダイブし、本日午前0時に販売開始されるマジカル・モモカルのスペシャルコンプリートBOXを予約購入するため、受付カウンターに貼り付いていた。
しかし丁度、その時間帯にボロスへの接続エラーが発生してテッドは発狂……。
約5分後、再接続できた時には、すでにモモカルは完売。
それ以降、彼はずっとこの調子で魂が抜け、ちゃぶ台に伏せていたのだった。
「ふーん、ザマ~無いわね。でも私はちゃんと予約できたのに、どうしてアンタん家だけ回線が落ちたのかしら? そもそもボロスが繋がらないなんて聞いたこともないし……」
「何はともあれ、コイツはもう使い物にならない。そっとしといてやろう」
すると、小さなお姫様がお目覚めになる。
「う~ん、おはよ~あんたーん……あ、乳女だ」
「はい、おはよう。よく眠れたか?」
二度寝していた花梨が目を覚まし、トタトタと畳を蹴ると、遊馬の膝にちょこんと腰を下ろす。微笑ましい朝の一幕に潤がほっこり目尻を緩めたが、只でさえ蒸し暑さに耐えている遊馬にとってはいい迷惑だった。
肩身の狭い不快な朝。それもこれも、我が物顔で扇風機を独占している潤のせい。
「あっ」
ふと、遊馬の脳内でシナプスが発火し、短期記憶から長期記憶に変換された記憶が呼び覚まされる。
「花梨、今日はお前のママが実家に来るんじゃなかったのか?」
「はっ、そうだったん!」
「こんな所にいちゃダメじゃないか。早くばーばの所へ帰りなさい」
「ヤ~ダ~、花梨はあんたんと一緒の方がいいのにぃ~」
「ダ~メ~だ。ほら、行った行った」
遊馬がなかなか膝から降りない花梨に手を焼くと、潤が物珍しそうに花梨のしょげた顔を覗き込む。途端、機嫌を損ねた潤の恐ろしさをよく知る花梨は、急に大人しくなって遊馬の背中へ逃げるようにして隠れた。
「へぇ~、舞花さんが白雨村に帰って来るんだ。久しく会ってなかったし、色々お話聞いてみたいなぁ~!」
すると、抜け殻と化していたテッドの耳がビクリと動く。
「何、何、花梨ちゃんのママンがどうしたんだい?」
「どうしたも何も、舞花さんは仕事でいつも東京なんだから。こんな機会、滅多にないわよ。ファンならそのくらい分かるでしょ?」
「ホワイ?」
「まさか……知らないの? そのために、アメリカくんだりから出てきたと思ったのに。スペシャルコンプリートBOXも買い損なって、何しに日本に来たわけ? 馬鹿なの?」
「いやいや、潤の話がさっぱり見えてこないヨ……。遊馬、このデッパイ女は何をこんなに興奮してるんだい?」
「あ~あ、やっちまったな……潤」
ついにバレてしまったと、遊馬は額を突いて首を振る。本当ならば、一生隠し通しておきたかった機密情報だ。ただ一人、事情が呑み込めないテッドは右往左往して遊馬と潤の顔を交互に見返す。
「潤、お前から説明してやれ」
「本当に知らないとはね、こっち方が驚きよ。まぁいいわ、耳の穴をかっぽじってよく聞きなさい、ロリコン変態男」
口元を吊り上げた潤は、優越感に満ちた顔で今まで隠されてきた真実を語り始める。
「花梨ちゃんの名字は杜若、お母さんの名前は舞花よ。つまり花梨ちゃんのお母さんは、杜若舞花。
中の人って言うな。と、遊馬は突っ込みを入れたかったがここは堪える。
そして、この衝撃的事実を突きつけられたテッドが自失状態から立ち直って雄叫びを上げるまで、約1分30秒を要した。
「……ナ、ナ、ナ、何デスとぉおおおおおおおおおおおおおおおおお~っ!
本当カイ? どうしてなんだい? どうしてミーに教えてくれなかったのサ!」
「いや~? お前が死んだ時のサプライズにとっておこうかと思って……」
「ソレ、ダメじゃない! ソレ、死んでたらアウトじゃない!」
テッドは落ち込んでいた理由をすっかり忘れていつもの調子に戻ると、二年もの間、自分を謀ってきた遊馬に憤怒した。遊馬としては、やれマカロンに合わせろとか、サインもらってきてなど、非常に面倒な頼み事をされるのが嫌で誰にも知られたくなかったのだ。
「悪かった。悪かったから、少し気を静めろよ……」
しかし、テッドは怒りよりも困惑と驚喜が入り交じっていて、こちらの声がまったく耳に届いていない。彼は突然ハッと息を呑み、青い眼を遊馬の膝に座った花梨に移した。
「遊馬――」
「何だ、真面目な顔して気持ち悪い」
「初めは花梨ちゃんをモモカルたんによく似た幼女としか思ってなかったケド、実は正真正銘、モモカルたんからDNAを受け継いだ神の申し子だったんダネ! そこで折り入ってお願いがありマス」
「……まぁ、話してみろ」
嫌な予感したが、遊馬はとりあえずテッドに言い分を聞いてやることにすると、
「花梨ちゃんを《オレの嫁》にください、マイブラザー!」
「め、目が血走ってる……恐いよ、あんたん!」
花梨は怯えて遊馬の背中に身を隠すと、遊馬はパンパンと手を叩いた。
「はい、潤さん出番ですよ。コイツが二度とフザけたセリフが吐けないよう、しっかりと懲らしめてやって下さい」
「あら奇遇ね。私も今、同じことを考えていた・ト・コ・ロ・よ!」
「ギャ~っ! ギブ、ギブ! 頚動脈に入ってるヨ、ブラックアウトしちゃうカラ~!」
潤が背後からテッドの首を羽交い締めにすると、彼が逃げ出さないように両足を腹にクロスさせる。必死に藻掻くテッドだったが、潤が後ろへ体重をかけて仰向けにされると、彼は完全に体の自由を奪われてしまった。
――ふくよかな胸が背中に密着して、肉付きの良い太ももに肺を圧迫されるなんて。
と、遊馬は少しテッドを羨ましく思ったが決して口にはしない。
そして、テッドは気持ちよさげにヨダレを垂らしピクリとも動かなくなった。
「フン、大人しくなったわね」
本当にテッドを絞め落とした潤は抱えた彼の頭を畳に投げ捨て、キャミソールをパンパンと叩いた。これでテッドが目覚める前に花梨を実家に返してしまえば、全てが丸く収まる。グッドおっぱい、ナイス潤。
「花梨、早く支度をしておいで。怖いヘンタイさんが目を醒ましちゃうぞ」
「でも~……」
「そうだ、朝ご飯もまだだろう? このバナナを二本、お前にやろう。これをあんたんだと思って大事に食べなさい」
「そんなこと言われたら、もったいなくて食べられないおっ!」
「冗談だ、冗談。さ、行ってきな。舞花さんに宜しくな」
「ちぇ、つまんないの……最近ちっとも遊んでくれない」
花梨はフテ腐れて頬を膨らせると、手渡したバナナを黄色いポーチに押し込み、名残惜しそうに廊下を走っていった。玄関の引き戸がカラカラと音を立てて閉じられると、遊馬はようやく朝の静けさを取り戻した。
「さ~て、飯にするか」
重い腰を上げてちゃぶ台の上にあったコップを片付ける。
予期せぬ来客のせいですっかり眠気も吹き飛び、盆を片手に台所へ向かうと、それを呼び止める声が遊馬の背中に届く。
「ねぇ、もしよかったら……私が朝食、作って上げようか?」
「潤が? 俺のために? マジか?」
「へ、変な勘違いしないでよね! どうせアンタじゃ、ろくな物は作れないだろうし、たまには美味しいご飯を食べたいでしょ?」
潤は照れくさそうに頬を掻いてこちらをじっと見つめてくる。けれど、彼女は少し思い違いしているようだ。たしかに遊馬は自炊が得意ではないが、一日一食、祖母の蘇芳が何かしら手料理を届けてくれるのでさほど味に飢えてはいなかった。
それに彼女の手料理が旨いという根拠は何か?
己の料理が旨いと宣言するヤツほど、とんでもない一品をこの世に生み出すと、漫画で得た知識で知っている。それに幼少の頃、潤がままごとと称して、遊馬は様々なゲテモノを食わされ続けてきたトラウマもある。
つまりは――食べるな危険、なのだ。
「お、お気持ちだけはありがたく……」
「何よ? 私が作った料理は食べられないって言うの!」
「いや、そういう意味ではなくてだな。俺はまだ死にたく……」
『ピンポーン』
するとそこで、救いの鐘が廊下に響く。
本日二回目のチャイムが鳴らされたのだ。
遊馬はこのチャンスを逃すまいと必死に話題を変える。
「だ、誰か来たみたいだな! ナズナかな?」
「もう、せっかく二人きりになれたのに……」
『ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピポ、ピンポ~ン……』
「うっさいわねぇ……近所迷惑って言葉を知らないのかしら?」
――いえ、それはアナタも一緒ですから。
と、遊馬は潤に文句の一つも言ってやりたかったが決して口にはしない。
それにナズナだったらこんな傍迷惑なことは絶対にやりはしない。
だとすると、玄関先でチャイムを連打する人物は誰なのか?
「花梨ちゃん、忘れ物でもしたのかな? ちょっと見てくるわ」
「ああ……ん?」
いや、花梨がチャイムに手が届くはずもない。
悪い悪寒――。
悪い予感のさらに上を行く表現を用いて潤を呼び止めようとしたが、
彼女はすでに玄関で引き戸に手をかけていた、そして……。
「キャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア~っ!」
家中に響き渡る潤の悲鳴――。
「ど、どうした?」
遊馬が慌てて玄関に駆け出すと潤は蒼白した顔を浮かべ、死に物狂いで引き戸を押さえながら叫んだ。
「で、で、で、出たのよ!」
「出たって何が?」
「決まってるじゃない、ラスボスよ!」
「……はっ?」
ピンと来なくて首を傾げると、潤が押さえていた引き戸の隙間に陽光が差し込み、赤いマニキュアが塗られた指がガシっと玄関に差し込まれた。戸の隙間から見えた目玉がギョロリと動き、あの魔女の声が遊馬の鼓膜を恐怖で震わせた。
「――ウフフフフ、この程度で私の進撃を止められると思って? 潤ちゃ~ん……」
「イヤァアアアアアアアアア~っ!」
戦慄の悲鳴。遊馬は《映画シャイニング》で、ジャック・ニコルソンが斧でぶち破った扉の隙間から顔を覗けたワンシーンを連想し、思わず腰を抜かした。
そう、潤が告げたラスボスとは山吹ロロ子――その人であった。
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