第六幕「幼女の罵倒はご褒美でした」

 彼女は杜若花梨かきつばたかりん、5歳。

 あの塩辛いライスボールを作った張本人であり、叔父の娘だ。気の強そうな眉、髪は胡桃色のツインテールで、肩紐が付いた緑のサロペットに白いシャツを着ている。

 母方の姓を名乗っているが母親は仕事が多忙で滅多に会えないため、今は祖父と祖母の元に預けられていた。父親である叔父は花梨が生まれる前から海外でボロス開発に携わっていたので、二人は一度も顔を合わせたことはない。

 そのため花梨は遊馬を父親代わりとして慕うようになり、こうして懐いているのだった。


「よしよし、一人の時はちゃんと鍵を閉めておかないとダメだって教えただろ?」

「うん、ごめんなさい。だけど、怒ったあんたんもしゅきしゅき~」


 ――しかし、しかしである。


「アメイジン~グっ! 誰だい? このスンバラシイ、ロ~リコンはっ! 彼女の容姿はまるで、マジカル・モモカルたんの生き写しじゃないカ~イ!」 


 遊馬にじゃれる愛らしい花梨を目にして、幼女好きのテッドが鼻息荒くソバカスまみれの下種顔をグイっと花梨に寄せる。その瞬間、彼女は容赦なくテッドの両眼を指で突いた。


「ていっ」

「オ~マイ、ガァアアアアアアアアアアアアアア~!」

「……軽々しく近づくんじゃねぇ、この萌え豚野郎!」


 そう、こんな幼女にも致命的な欠点が存在する。

 それは――従兄を溺愛し、異常なまでの嫉妬心を抱く重度のブラザーコンプレックスであったからだ。忠義を果たした子犬のように、花梨はクンカクンカと遊馬の匂いを嗅いで回る。


「許してやってくれ、こんなきもいヤツでも俺の客だ」

「え~、ヤダヤダ。今日からお休みなんだから、花梨はあんたんと二人きりがいいの~」


 すっかり恋人気取りの花梨は媚びた目つきで遊馬を見上げる。


 ――愛い奴よ、こんな甘えん坊に育ったのは全て爺のせい。

 祖父に全ての責任を押しつけた遊馬は、困り果てた顔で花梨を宥めてやった。


「分かったよ。今夜は舛花神社で祭りがあるだろ? 潤に来いって言われてるし、一緒に連れていってやるよ」

「やったぁ! あんたんと二人きりでデート……テメェはついて来るなよ、萌え豚」

「お、恐ろしい子ネ……だが、それがイイ!」


 不意の凶撃を受け、地面を転げ回っていたテッドはゆっくりと起き上がる。超アグレッシブ(攻撃的)な花梨をすっかり気に入ったようで、間合いを計り多彩なアングルから花梨を舐めるように観察し始めた。


「テッド、こんな場所に突っ立っててもしょうがねぇから早く上がれ。それに腹も減ってるだろう? 素麺を湯がしてやるから出来上がるまでの間、居間でくつろいでろよ」

「イエース!」

「花梨、お客さんを案内してやりな」

「は~い。あんたんのお許しがでたぞ萌え豚。靴は並べておけ、一番端っこにな」

「ハァハァ、花梨たんの靴はちっちゃいネ~。フフフ、一体どんな匂いがするのカナ~?」


 花梨はまだ懲りないテッドを無表情で見下ろすと指を受話器の形に模り、ボロス通話の真似事で彼に脅しをかける。


「もしもし、おまわりさんですか~? うちの玄関に変態な変態さんがいます――」

「プ、プリーズ! ちょっと待って花梨たん、もうやらないヨ。ミーは大丈夫なヘンタイさんダヨ! ポリスマンは勘弁ネ!」

「……フン」


 花梨は玄関にテッドを残してドタドタと遊馬の元へ走る。警察に突き出されると真に受けたテッドだったが、冷や汗を拭うと飽きもせず、可愛らしい足取りで駆けていった幼女の後ろをウキウキと追いかけた。


「OH~、これがジャパニーズマット、タタミネ~。スベスベしてて気持ちいいヨ~」


 日本文化に興味津々のテッドはちゃぶ台が置かれた居間を転がり、ふすまや押し入れを開けて回った。その迷惑行為を遊馬は台所から眺めると、軒先にある廊下をガニ股で踏み鳴らしていたテッドが、不安そうな表情で問いかけてきた。


「ヘイ、遊馬。この廊下、歩く度に奇妙な音がするヨ。リフォームしないのかい?」


 含み笑いした遊馬は菜箸でカチカチと音を立てて、その問いに答えてやる。


「フッ。テッド、お前は日本文化の神髄を知らないようだな」

「ホワッツ? シンズイ……?」

「その廊下はうぐいす張りといってな。踏みしめる度に鳥の鳴き声みたいな音を奏でる、いわば国宝級の文化財なんだぜ?」

「オゥ、たしかに言われてみればバードのさえずりに聞こえる気がする……ネ。イッツ、ジャパニーズファンタジー! 記念に写真撮っておくヨ!」


 ――そんな訳ねぇだろ、バーカ。

 と、遊馬は心の中で呟く。


『ピピピピピ……』


「よ~し、できたぞっ!」


 丁度そこで、キッチンタイマーが鳴った。遊馬は茹で上がった素麺をざるに移して冷水に浸すと、二人と半人前を器に選り分けて居間へと運ぶと、腹ばいになって大人しく絵本を読んでいる花梨の姿しかない。


「あれ、アイツ何処に行きやがったんだ?」


 遊馬は尻を掻きながら庭が見える軒先の廊下に顔を出すと、突き当たりにある便所で何かをやっているテッドを発見する。床に這いつくばり、何かを探しているようにも見えたが、


「飯だぞ、あんまりフラフラするな。後で好きなだけ……」


「アメイジング! ビッグなスリッパかと思たヨ、これがジャパニーズスタイルダネ~! 早速ボロスにアップして、パパやみんなに教えあげなきゃっ」


 執拗に携帯端末で和式便器を撮影している最中だった。


 呆気に取られた遊馬は我に返ると、便所の扉で力一杯テッドの頭を挟む。

 彼は側頭を押さえて倒れ込み、そして悶絶した。


「オオ……オウ、ノ~!」

「嬉しげに人ん家の便器を世界配信してんじゃねぇ!」


 そして、テッドの首根っこを掴んで居間に戻ると、お行儀良く座った花梨がお椀に麺つゆを注いでちゃぶ台の上に並べているところだった。誰かさんとは大違い。遊馬は花梨の隣に腰を下ろし、気が利く彼女の頭を優しく撫でてやる。


「テヘヘっ」

「お前は将来、いいお嫁さんになれるな」

「うん! わたし、あんたんのお嫁さんになるの~」


 ――愛いヤツめ。


 そんな花梨はお気に入り矯正箸で底に残った麺を懸命に掬おうとするが、なかなか上手くいかなくて眉をハの字に歪める。初々しさに遊馬の口元がわずかに緩んだ。

 それに比べてテッドはというと、ガラスの器に盛られた素麺をじっと見つめて微動だにしない。あまりにも物静かなので少し打ち所が悪かったかと心配し、遊馬は頬に散った汁を拭って彼に声を掛けた。


「大丈夫か?」

「遊馬、この貧相な白いヌードルは何だい? 具さえ入って無いじゃナイカ。てっきり水に浸ったモップかと思ったヨ。日本人はこれほど食べ物に困っているのかい……?」



 またもや遊馬は不敵な笑みを浮かべる。


「テッド~、お前はまだまだ日本の奥深さを理解できていないなぁ。手元に小ぶりのお椀があるだろう? その中にネギとゴマを少し入れて、箸が使えないお前に用意してやったフォークで軽くかき混ぜろ」

「こ、こうかい?」

「あとは素麺を麺つゆ浸してスルっと食べろ」

「ゴクリ……」


 言われるがままテッドは訝しい白い物体をフォークに絡め、音が立たないよう大口を開けて食いつく。途端、彼の目玉が大きく見開いて賛美の言葉を吐露した。


「デリシャ~ス! 何だい、この素朴で味わい深いヘルシーな味は? 野草とツブツブがヌードルに絡まって、ミーをさらなる高みへ誘ってくれるヨ!」

「分かったか? 和食は量じゃなくて質なんだぜ」

「ところで今、遊馬が麺つゆに入れた緑のペーストは何だい? それも隠し味かい?」


 計画通り――ここまでは全て仕込み。

 でっかい釣り針に食いついたと、遊馬はほくそ笑んだ。


「これのことか? ワサビっていうんだ。でも、テッドにはちょっと早いかな~?」

「き、気になるヨ~……。プリーズ、ミーの麺つゆにも入れてほしいネ!」

「花梨、お客さんのお椀に入れて差し上げなさい」

「はい、あんたん!」


 相づちを打った花梨はニヤリと悪い顔をして、チューブに残っていたワサビをテッドのお椀に全て絞り出す。これがアウェーの洗礼とも知らず、愛らしい幼女におもてなしされてテッドは鼻の下を長く伸ばしていた。


「どうぞ召し上がれ、お兄いたん!」

「花梨ちゃんがブレンドしてくれた、この麺スープ。最後の一滴まで飲み干すからネ~!」


 素麺を緑色になった麺つゆにどっぷりと浸し、テッドがそれを吸い上げると、


「ゴヴァ……オゲ~ッホゲッホ、ゲホ……。イッターイ、イッタ~イヨ!」


 涙とともに、鼻から白い麺と麺つゆを垂れ流した。


「こんなトラップに引っかかるとは、まだまだ勉強不足だなテッドくん」

「ケホケホ、二人ともヒッド~イヨ……」


 ようやくテッドの咳が止まり、遊馬がティッシュを手渡してやる。彼は口のを拭くと、鼻から垂れた素麺をつるりと引き抜いた。


「悪い、悪い。何事も体験してみなきゃ分かんないだろ? これが日本の美徳、侘び寂び――略してワサビだ。よく覚えとけ」

「忘れるに忘れられないトラウマになりそうだけど、理解したネ……」


 こうしてテッドは、また一つ間違った日本語を覚えた。


 すると、普段は他人に懐かない花梨がテッドの隣にあどけなくちょこんと座り、屈託のない笑顔を彼に向ける。その途端、テッドのテンションが一気に跳ね上がった。


「ハァハァ。どうしたんだい、花梨ちゃん?」

「おつゆ、まだいっぱい残ってる。最後の一滴まで飲み干すんでしょ? お兄いたん!」

「…………」


 幼女にワサビの塊が浮いた麺つゆを差し出されて、テッドは顔を青くする。

 隣で見ている分は面白かったが、これ以上、花梨が内に秘めた潜在能力を開花させるのはマズイと思い、遊馬は助け船を出してやった。


「花梨、傷口に塩を塗るのはやめなさい」

「は~い。チィッ、命拾いしたな萌え豚」

「花梨ちゃん、恐ろしい子ネ……だが、それがイイ。我々の業界ではご褒美デース」


 けれど、まんざらでもないテッドであった。




 食べ終えた器を片付けて、ようやく落ち着いた一時を居間で過ごす。

 腹持ちが良くなった遊馬は片肘を突いて横になり、庭先のキンモクセイに留まった蝉の声に耳を傾ける。いつの間にか、おねむになった花梨が隣で寝そべっていて、可愛らしい寝息を立てていた。寝不足だった遊馬も、それに釣られてコクリコクリとアゴを下げる。


 ようやく手に入れた、穏やかな午後の余暇――。

 しかし、そんな平穏をあの男がまたもや台無しにしてくれた。


『アワワワワワ~』

「何やってんだ、テッド」

『知ってるかい、こうやって扇風機の前で喋ると……』

「大人しくしてくれ、花梨が起きる」


 それから二分後――。


「遊馬~」

「今度は何だ?」

「時差ボケで寝付けないヨ。ミーにも添い寝してほしいネ……」

「くっつくな!」


 遊馬がすり寄るテッドの顔に蹴りを入れていた――その時だった。

 玄関の呼び鈴が鳴って、予期せぬ来客が来たことを知らせる。


「こんな時間に誰だ、婆さんが何か差し入れでも持ってきたか?」


 面倒くさい。テッドに掴まれてズレ下がったカーゴパンツを引っ張り上げると、遊馬はお尻を掻きながら玄関へと出向く。遊馬の感触を失った花梨が目を擦って起き上がると、寝ぼけ眼で周囲を見渡し、何処かへ行こうとする遊馬の背中を追いかけた。


「あんた~ん、おいてかないで~……」


 遊馬が玄関の前に立つと、磨りガラスに馴染みのないシルエットがぼんやりと浮かぶ。

 祖母ではない。怪訝な顔で目を細めた遊馬はサンダルを履き。玄関の戸をそっと横に引いた。


「は~い、どちらさんで――」

「こ、こ、ここここここ、こんにちは……」


 一瞬、視界を真っ白なつば広帽子が覆い尽す。

 聞き覚えのある弱々しい声……。

 大きなつばが上を向き、肩から胸に垂れた灰色のおさげが覗けると、

 そこにはカチカチに緊張したナズナの顔があった。


 しばしの無言――今、この時間が永遠に続けばと遊馬は無意識に願った。

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