第四幕「ファインダー越しの君に恋をする」

 幾つも峠を越えて村の反対側に抜け出ると、辺りはすっかり茜色に染まっていた。あいにく空は雲半分といったところで、せっかくの夕陽が見え隠れしている。傾斜のきつい山道を下り、自宅に続く一本道に合流しようとした時。

 突然、標識を無視した赤いスポーツカーが、猛スピードでT字路を駆け抜けていった。


「あっぶねぇ……」


 遊馬がかけていたゴーグルはボロスとリンクしており、ナビゲーションが衝突警報を発したおかげで、出会い頭の事故を回避することができた。

 ゴーグル横のボタンを押し、遊馬はARLモードを使って猛獣の如くけたたましい音と共に走り去った、暴走車の画像を抜き取る。このARLモードとは《拡張現実レイヤー機能》の略で、現実とボロスを重ね合わせて見る機能のことだ。

 車種検索にかけた結果、今の暴走車はランボルギーニ、ヴェネーノ・ロードスター。赤い流線型のフォルム、背びれみたいに伸びたウィング。それとトレードマークである暴れ牛のエンブレムがゴーグルに映った。


「これほど村に不づり釣り合いな車はねぇな……まさに暴れ牛だぜ。たしかあの先には《お屋敷》があったよな?」


 お屋敷。遊馬がそう口にしたのは古くから村にある洋館のことだった。来栖家という名家の別邸として大正時代に建てられたらしく、長らく人は住んでいない。

 それにその名字が頭の片隅に引っ掛かった。必死に記憶の糸をたぐり寄せようとする遊馬だったが……。


「来栖? はて、今日どっかで耳にしたような……あ、ダメだ、思い出せん」


 諦めるのも早かった。ギアをローに入れて再び走り出そうとした時。

 遊馬はひんやりとした空気と独特の匂いを感じ、ひと雨来ることを予見すると、案の定アスファルトにまだら模様が覆い尽くし、頭上に容赦なく雨が降り注いだ。


「うわ~、間に合わなかったか」


 遊馬は慌ててアクセルを回す。田園風景に続く長い一本道を疾走すると、大粒の雨が顔や体を打ちつけてきた。頭の天辺から爪先までびしょ濡れになり、運の悪さに悲観したが、ふと両眼に映り込んだ西の空がそんな淀んだ気分を洗い流してくれた。

 通り雨を抜けるとゆっくり減速して道の脇にバイクを停車させる。視線の先には、雨雲の隙間から夕焼けが顔を覗けて晴れ空が広がり、遠くにそびえるモノリスの上に見事な虹を創り上げていたのだ。


「……狐の嫁入りだ」


 遊馬は黒いショルダーバッグから今時珍しいフィルムの一眼レフカメラを取り出す。これも遊馬の数少ない趣味の一つだ。操作は全て手動。フィルムを巻き上げると被写体深度やピントを調整すると、シャッターが音を立てて優美な景色を切り取る。


 掲げたレンズが他の被写体を探していると……。

 ファインダーが天使の姿を映し出した。

 それは誇張などではない。

 遊馬が本心からそう思い、彼女の姿が心のネガに焼き付いた。


 青い瞳、灰色のおさげと額を広く見せる白い花の髪留め、白いミニワンピース。同じく、白いつば広帽子には青いバラをあしらったコサージュがあり、首元には黒いチョーカーを巻いていた。色白で細身の体、手には白いパンプスを握り、彼女は田んぼのあぜ道を、気持ちよさそうに裸足で散策していた。

 遊馬はシャッターを切るのを忘れ、ボ~っと少女の姿を追い続けていたことに気付くと、かざしていたカメラをゆっくりとさげた。


 高鳴る鼓動――そして遊馬はハッとする。

 息切れ? 動悸? まさか思春期にかかる言われる恋の病というヤツなのか? 


 いやいや、それはないと遊馬は自分を納得させようとしたが、今回は勘違いで終わらせることができなかった。


「あの子……誰だろう?」


 もちろん村の娘であるはずがない。夏の始まり、恋の始まり。一目惚れという名の恋に落ちたことを自覚した遊馬は、少女の姿をただただ見据えた。すると――。


「あっ」


 少女はぬかるみに足を取られてバランスを崩し、ド派手に田んぼへ転落してしまった。


「キャ~~~~~っ!」

「やっべぇ!」


 遊馬はサイドミラーにカメラの紐を引っかけ、慌てて少女の元へと駆け寄る。純白だったワンピースは泥水を吸って茶色くなり、パンプスはあぜ道に投げ出され、つば広帽子は稲に引っかかって大きく揺らいでいた。

 遊馬は水深わずか10センチで溺れる少女の腰を掴むと、田んぼから一気に引き上げてやる。


「ケホ、ケホケホ……」

「おま……キミ、大丈夫かい?」


 咳き込む少女に遊馬が普段より丁寧な言葉遣いで問いかけると、小さく、耳辺りの良い声が返ってきた。


「あ、ありがとうございます。見ず知らずの方にこんな恥ずかしいところをお見せしてしま…………っ!」


 頬に泥を付けた少女は遊馬の顔を見るなり大きな目をさらに見開くと、顔を真っ赤にして再び田んぼの中へダイブした――そして溺れる。


「おいおい、何がやりたいんだよコイツは……」


 驚くというよりも呆れてしまい、遊馬の胸に灯りかけた恋の炎は静かに鎮火した。

 もう一度ずぶ濡れの少女を引っ張り上げると、彼女は酷くショックを受けているようで、顔を隠したままその場にうずくまってしまった。


「やれやれ、これ使いな。洗濯仕立てだから」


 そう言って遊馬がショルダーバッグから白いタオルを引っ張り出すと、少女の頭に乗せてやる。草の上に座り込んでいた彼女は俯いたままタオルを手に受け取り、ゴシゴシと顔を拭うと、タオルを鼻に当ててスンスンを匂い嗅いだ。可愛らしい仕草につい見蕩れてしまい、その様子をじっと観察する。

 すると、彼女がこちらを気付いてもう一度目が合うと……またもや田んぼへ飛び込もうとした。遊馬は慌てて後ろから彼女のか細い体に抱きつく。


「分かったから! もう見ないから! だから飛び込むのはもうやめてくれっ!」

「――っ! ふにゅう~……」


 途端、彼女の頭から湯気を噴き出して可笑しな擬音を口にすると、少女はヘナヘナと崩れるようにその場に腰を落とした。


「あーあー、そんなじゃあ歩けそうにないな。送っていってやるよ、家はどっちだ?」

「あ、あっち……です」


 少女がか細い声と指で差す。

 遊馬の家とは反対方向だった。


 飛んでいったつば広帽子とパンプスを拾い、少女が田んぼに落ちないように手を引いてやったが、彼女は顎を引いてこちらを見ようともしない。困惑しながらバイクの所に戻ると、遊馬は予備のヘルメットを取り出して少女に手渡す。

 スターターボタンを押してエンジンをかけて軽く噴かすと、遊馬は縦長のシートをポンポンと叩いた。


「ここに座って」

「…………」


 少女は無言で頷き後部シートに跨がると、つば広帽子を押さえて軽く遊馬のシャツを摘む。


 ――この子は極度の照れ屋か、人見知りか?


 距離感が掴めない遊馬は緊張した面持ちでエンジンを吹かし、バイクを反転させる。すると怖くなったのか、少女は急に遊馬の背中にしがみついてきた。潤に比べれば控えめなサイズだが、ほど良い胸の感触に高ぶる気持ちを懸命に抑えた。

 気をよくした遊馬は背筋を伸ばして前を見据えると、アクセルを絞り込んで元来た道を逆走する。


 何ともぎこちない出会いであったが――。

 夏の始まりとともに、彼女はこうして村に訪れた。


 陽が沈むと周囲が薄らと暗がりに包まれ、涼しげな風が少女のおさげをなびかせる。静寂の中、聞こえるのは鈴虫が羽音とバイクの排気音だけ。遊馬はウィンカーを出して屋敷の門を潜り、古びた噴水があるロータリーを回ると、そこでバイクを停車させてエンジンを切った。


「……ここか?」

「ハイ、ここです……」


 少女の言われるまま来た場所は、お屋敷こと来栖家別邸であった。

 ――来栖、来栖……そういうことか! と、遊馬の中で途切れた糸が繋がる。


「ってことは、お前があのデメキンの――」

「…………」


 少女は恥ずかしげに遊馬の背中に顔を埋めて黙り込んだ。


「なるほどな。もうバレたことだし顔を隠すのはやめろよ。こうやって出会ったのも何かの縁だしな。ええっと、ナズナだっけ? 宜しくな」

「……はい」


 街灯がナズナを照らす。ようやく見せてくれた素顔は驚くほど無垢で、思わず遊馬の方が顔を背けてしまいそうだった。太く短めの眉におっとりとした大きな青い瞳、前髪を左から右へ半円状に垂らすように留めた白い髪飾りが煌びやかに光を反射する。さらにナズナが恥ずかしげに微笑むと、魅惑的なアヒル口がクイっと吊り上がった。


 ――か、可愛いじゃないか。


 彼女を直視できなくなった遊馬が少し視線を落とすと、ナズナの首元に巻いたチョーカーに目が留まる。そこにぶら下がっていたのは、半欠けになったコインのペンダント。


「ナズナ、一体ドコでそれを……」


 遊馬の顔から笑みが消え、ナズナのか細い両肩を鷲掴みにした時。


「お嬢様、ナズナお嬢様~!」


 慌てた声とともに、タキシードを着た白髪の老人と使用人たちが玄関から飛び出し、階段を駆け下りてこちらへやって来た。


「ごめんなさい、マッローネ。連絡できなくて」

「お嬢様、ご無事でなによりですが、黙って出かけられては困ります。御身に何かあってはご当主様に申し訳が立ちません。次回からは……はて、こちらの御仁は?」

「あ、俺? 俺はその、通りがかりの何というか……」


 マッローネと呼ばれた老人に声をかけられて、遊馬は慌ててナズナの肩から手を退かす。老いた猟犬の鋭い眼差しに口籠もると、ナズナがTシャツの裾をクイクイと引っ張った。


「この方は大丈夫です。縹遊馬さん、私の命を救ってくださった恩人です!」

「お、恩人……?」


 たしかに、僅か水深10センチで溺死したら死んでも死にきれない。

 ただ遊馬としては迷子を家に送り届けた、その程度の認識でしかなかった。


「なるほど、それでお召し物がお汚れに……よほどの窮地を救っていただいたのですな。我々が至らぬばかりに、縹様には多大なご恩ができてしまいましたな」

「こ、こちらこそ、すんません」


 一列に並んだ老人と使用人に頭を下げられて、つい遊馬も頭を下げてしまうと……そこへ聞き覚えのある爆音が中庭に入ってきた。

 赤い流線を引いたボディ。山の麓で危うく事故になりかけた、あのランボルギーニだ。ロータリーにタイヤ痕を残して停車すると、ド派手な赤いドアがから白いイタリアスーツに身を固めた金髪の青年が現れた。歳は25歳かそれ以上、マッシュルームカットと整ったモデル体型。キザったらしくて自信に満ちた面が実に腹立たしかった。


「マッローネ、これは何の騒ぎだ?」

「これはマリユス様。お越しになるのは明日と聞いておりましたが……」

「何、仕事が早く片づいたので、ドライブがてらに立ち寄ったまでさ。それにしても、どうして日本の道はこうも狭いのだ。フルスピードの半分も出せないじゃないか」


 ――何言ってやがる。


 こんな奴がいるから二輪愛好者が肩身の狭い思いを、と遊馬は心の中で悪態をつく。


「で、この見窄らしい小僧は誰だ? どうして敷地内に入れた?」

「も、申し訳あしませんマリウス様、こちらは……」


 失礼な物言いにカチンときた遊馬は、マッローネの説明に口を挟んだ。


「ほほう、見窄らしくて悪かったなキノコ野郎。俺の名前は縹遊馬だ。ついさっき、出会い頭にぶつかりそうになったのを忘れたか?」

「まったく覚えはないが、縹ねぇ。なるほど、キミが縹荒木博士の言っていた子供か」

「!」


 遊馬は思わず面食らった。見ず知らずのこんな無礼な男が、何故、叔父のことを知っているのか見当もつかないからだ。拳を強く握り、マリウスを睨みつける。


「テメェ、どうして叔父さんのことを知っている。まさかお前が……」

「おいおい、勘違いしないでくれ。ボクはマリユス・アルベール・ド・ブーゲンビリア。キミの叔父上が出向していた多国籍企業ブーゲンビリア社の取締役で、荒木博士が考案したボロスシステムの開発に協力していた一人さ。実は失踪したキミの叔父上を探していてね。何か知っていれば教えてもらいたかったが……答えてくれそうにないな」


 そう、遊馬の叔父である荒木は5年前から行方不明になっていた。

 まだ幼かった遊馬は両親を事故で失い、父親代わりに面倒を見てくれた叔父を第二の父として慕っていた。いや、それ以上に憧れの存在だった。それだけに叔父の失踪は幼い遊馬の心に深い傷となっていた。


 それにふとロロ子の言葉が脳裏に蘇ってくる。外資系企業、村の立地調査……彼女が注意しろと言っていた人物が今、目の前にいる。ただならぬ緊張感が遊馬の背筋に冷たく走った。


「…………」

「フーン、その様子では本当に何も知らないようだな。まぁいい、彼にはお引き取り願ってボクらは会食にしよう。たまにはフィアンセとの時間も大切にせねばな」

「フィアンセ……だと?」


 目を丸くした遊馬はナズナを見返すと、彼女はひどく怯えて遊馬の背に隠れる。

 驚く遊馬の表情を目にして、マリウスは嘲笑うように言葉を続けた。


「ハハ、本当に何も知らないんだな。彼女のフルネームはナズナ・クリスティーナ・ド・ソルフェリノ。伝統あるイタリア貴族、ソルフェリノ家のご令嬢だ。そして、うちの親会社にあたるソルフェリノ・コンツェルンは、ボロスシステム最大の出資者でもある。これで分かったろう、キミと彼女とでは住む世界が違うんだ。こちらに返したまえ」


 まったくもってそれは事実だった。

 叔父だったらここで彼女をバイクに乗せて逃避行するのだろう。けれど、遊馬にそれはできなかった。何の力もないただの庶民、王子様になれようはずもないからだ。

 そう自分に言い聞かせて、遊馬は精一杯の言葉をナズナにかけてやる。


「大丈夫、俺ん家はこの通りを真っ直ぐ行ったとこだ。会おうと思えばいつでも会えるさ」

「…………」


 ナズナは何も言わずに頷くと、そそくさとマッローネの背に移って小さく手を振る。遊馬はそれに笑みで返すと、ニヤニヤとこちらに視線を送るマリウスを無視してバイクに跨がった。




 その帰路で遊馬はふと思い返す。

 ナズナが身に付けていた花の髪留めのことを。


 エーデルワイス――高貴な白。

 どう頑張っても手が届かない高嶺の花。


 ムキになってマリウスと張り合おうとしていた自分に遊馬は失笑する。身分も住む世界も違うナズナに想いを寄せてどうなるのだ、と。

 自分に苛立ち薄闇に染まった風を引き裂くように疾駆すると、遊馬はバイクのキーにぶら下がった半欠けのコインに目をやる。それは叔父から譲り受けたもので、ナズナの首にあしらわれていたコインと同じものであった。

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