第三幕「放蕩者と気だるい午後」

 昼下がり――ボロスからログアウトした遊馬は、ボロスグラスを外して畳の上に倒れ込む。Tシャツにハーフパンツ姿。大の字で仰いだ天井に一匹のヤモリが張り付き、室内灯に集まる羽虫を待ち構えていた。それに釣られて遊馬の腹の虫が弱々しく音を立てる。


「あ~、腹減ったぁ……」


 身をねじって軒先に視線を移すと板張りの廊下に瑠璃色るりいろで縁を彩った白い皿があり、大小異なる握り飯が乗せられていた。


 ――ナイス、婆さん! と、遊馬は上唇をペロリと舐める。


 ほふく前進で握り飯に這い寄ると、途中ハーフパンツがズレ下がったが気にしない。どうにかお尻が半分出たところで皿に手が届き、遊馬は唇をなめてラップを剥がした。


「ほほう、これは……」


 大きくて形の整った握り飯が三つ。それに一口サイズで歪な形をしたライスボールが一つ、目に留まった。もちろん、この美しい正三角形は祖母が握ったものに違ないが、隣にあった小ぶりな握り飯は、従妹がこしらえたモノだろう。つまり、叔父の娘だ。

 まずは大きい方、かぶりついた途端に海苔がパリパリと音を立てて舌に貼り付く。ほど良い塩味の奥からお手製の梅干しが顔を出し、酸味が食欲を促進させた。言うまでも無くパーフェクトな味わいだった。

 遊馬はあっという間に三つともペロリと平らげると、残された従妹のライスボールが存在感を増した。作り手はまだ5歳、小さな手で一生懸命に握ったくれたこと思うと、残すわけにはいかない。遊馬は崩れかけた米の塊を指で摘むと、ポイっと口の中へ放り込んだ。


「しょっぱ……」


 ザラザラとした塩の舌触り、少し辛いが食べられなくはない。

 最後に指に引っ付いた米粒を舐め取った。


「ごちそうさまでした」


 両手を合わせて一礼する、遊馬。すると皿の下に二つ折りした手紙に気付き、ベタつく指で摘み上げると、そこに書かれていた文字に目を通す。手紙には達筆な字でこう書かれてあった。


「火急ノ用、スグ来ラレタシ……って、今時、電報でもこんな書き方しねぇっての。あんのクソ爺、いい加減メールの使い方くらい覚えろよな」


 クシャクシャにした紙を皿の上に載せると、遊馬は半分下がりかかったハーフパンツを引っ張り上げて、伸ばしたゴムでパチンと音を鳴らす。腕を左右に振り、屈伸し終えると、容赦なく照りつける夏の日差しに手をかざした。


「あー、面倒くせぇが久々に顔くらい出してやるか」


 自宅横の古びた納屋で弾けるような単気筒エンジンの音が響き渡ると、カシューナッツベージュに塗装されたお尻が陽光を反射させる。遊馬が納屋から乗り出したのはレトロで風変わりな容姿のバイク――スズキ、SWー1。排気量250CC、ストロークエンジンを搭載した軽二輪車で、外見は大型のスクーターとミッション車の間いの子、と言った風体だ。

 発売当初はその斬新なデザインが話題となったが、性能に見合わない価格と大きな車体から、高い・重い・走らないの三拍子で売れ行きが乏しく、すぐに生産が打ち切られてしまった。


 そんな不幸な星の下に生まれたこのバイクは、持ち主だった叔父から遊馬に引き継がれて、今も現役で活躍している。ちなみに高齢化と少子化による人口減少で、路線バスなど地方の足が次々と無くなったため、道路交通法が改訂されて今では13歳から二輪車の免許が取得できるようになっていた。


 遊馬はサイドミラーに吊したショルダーバックを肩に掛け、足を振り上げてバイクに跨がる。革張りのヘルメットを被りアゴ紐をしっかりと留めると、ゴーグルを目に当てた。


「今日もゴキゲンだな、お前。用が済んだら後でひとっ走りしに行くか~?」


 燃料タンクを優しく撫でてやり、遊馬はクラッチレバーを握る。ギアをローに入れてアクセルを噴かし、ゆっくり田舎道を走り出す。Tシャツの脇から入り込む風。右も左も山に囲まれていて、蒼天の空に巨大な入道雲が形を変えながら流れていく。

 色褪せたアスファルトの脇には青々と茂った野草が背比べをしていて、さらにその横をノスタルジックな田園風景が道に沿ってどこまでも続く。


 そのまま5分ほど道なりに走る。山の麓にある細い坂道を登り、開けた空き地にバイクを停車させた遊馬は、ゴーグルをヘルメットに引っかけ鈍色の屋根瓦を見上げた。古ぼけてはいるが、しっかりとした木造の民家。二階が白壁、一階が媚茶色の木材で組まれた味わいある造りだ。庭先にはちょっとした庭園があり、そこには無数の盆栽が綺麗に列を作っていた。


 その盆栽に混じり、大きな麦わら帽子が上下に揺れているのを遊馬の眼が捉える。


「おい、爺。来てやったぞ、火急の用とは何だ?」


 麦わら帽子に向かって偉そうに声をかけると、これまた偉そうな返事が戻ってきた。


「おう来おったか、放蕩者の孫よ。小煩うるさい単車なんぞ転がしおって。そんなもん、さっさと廃車にしてしまえ」


 どこか自分と似た気質――失礼な物言いをするこの老人は遊馬の祖父、縹玄はなだげん。白髪交じりの無精髭と老眼鏡、首にはタオル。年期を重ねた深いシワ、頑固そうな太い眉毛に鋭い目つき。そんな厳つい面の祖父が盆栽バサミをチョキチョキさせて、こちらを威嚇する。


「まったく荒木もお前もとかいうヘンチクリンなもんに被れおって。それに比べ、お前の親父は良い男じゃった。あいつが生きておれば儂も気兼ねなく引退できたというのに、お前らと来たら……」

「爺、ワロスじゃなくてボロスな」

「知るかい、そんなもん! 儂には先祖代々守ってきた山々と、この盆栽があればええんじゃいっ! それなのに役場の連中は得体の知れんモンを儂に押しつけてきおって」

「何言ってやがる。その尻ぬぐいをしてやってるのは俺だろ、俺。それにまた盆栽増えてないか、道楽もほどほどにしとけよ」

「フン、大きなお世話じゃい」


 頑固でヘソ曲がり、はっきり言って気に入らない。けれど去年、足を怪我して林業を引退した玄にとって、盆栽はその代償行為なのだと思うとあまり強くは当たれない。人間、何かしらやっていないと駄目になるからだ。

 遊馬は少し俯く。それだけは身に染みるほどよく理解していた。


「んで、用事ってのは?」

「そうじゃった、もうじき杜若神社で祭りがあるだろう。そこの社務所に金封と酒を持って行ってこい。お前も、あそこの娘さんにいつも世話になっとるだろうが」


 一升瓶とのし袋、それと紺藍の風呂敷が廃材で作った机上にゴンと置かれる。


「めんどくせぇ~、さっき顔を合わせてきたばっかなのに」

「フン。どうせまたあのとかいう、けったいなモンでだろうが」

「もう……スしか合ってねぇよ」

「人間、ちゃんと顔を合わせて話さんと相手との距離が掴めなくなっちまうぞ。ごちゃごちゃ言わずにさっさと行ってこい! このヘソ曲がりが!」

「へいへい。じゃあな、クソ爺」


 遊馬は嫌々ながら遊馬はポケットにのし袋を突っ込み、風呂敷に《大吟醸萌桜》と書かれた一升瓶を包む。それを斜め掛けするように背負って胸元で結ぶと、バイクに跨がってクラッチを踏み、砂利を跳ねてその場を後にした。




 再び、風になって山の麓へ向けて疾走すると、山並みに伸びる白く四角いコンクリートの塔に目が留まる。あれは《モノリス》と呼ばれる現実とボロスを繋ぐ中継機。全高300メートル、全国50キロ四方に建てられており、エリア単位でスキャンしたデータは定期的に人工衛星を通じて、ボロスに反映させている。


 あの巨大なモノリスを目にする度に、遊馬は当時の荒んだ情勢が脳裏に蘇ってくる。それは2029年10月24日に発生した第二次世界規模金融危機(グレート・セカンド・ディプレッション)、通称G2Dの発生によって世界経済は壊滅的な打撃を受けたことに端を発した。不況の大津波に呑み込まれ、暴落する株価、底の見えないインフレ、止まらない失業率。もちろん日本もその例外ではない。


 元々、莫大な借金を抱えていた旧政府はあっという間にデフォルト(債務不履行)に陥り、海外の投資家たちは一斉にこの国から資産を引き上げてしまった。さらに高騰し続ける石油、資材、食料……多くを輸入に頼っていた日本が他国よりも厳しい状況に陥っていたのは言うまでもないだろう。


 幼かった遊馬も当時の混乱を今でも忘れられない。

 そんな状況を覆したのは無名の量子物理学者、縹荒木あすまあらきだった。


 当時の叔父はデジタルアース・プロジェクト、平たく言えばコンピュータ上に仮想の地球を造り出し、温暖化による影響や自然災害の予知をしようという研究に携わっていた。

 しかし、そんな悲嘆な世界情勢を目の当たりにした叔父はあるアイデアを閃く。それは仮想世界に架空の市場を生み出し、新たな雇用を捻出させて、壊滅した経済を復興するための起爆剤にしようというものだった。

 だが、そんな不確定で途方もない計画に国が資金を出すはずもない。上の人間から机上の空論だと罵倒されて口論になった結果、研究資金も立たれてしまい、叔父は職を失って白雨村に戻ってきた。


 ――それから僅か一年後、ことは急変する。


 叔父が提唱した机上の空論にとある海外の資産家が興味を抱き、莫大な資金を提供すると申し出たのだ。叔父は必死に政府を説得して開発の認可を取り付けると、僅か5年でボロスシステムを完成させ、都市部で試験運用を行いその実用性と効果も実証した。

 それからはとんとん拍子。各地でモノリスの建造が始まり、ボロス・ネットワークは瞬く間に全国を覆い尽くした。日本での普及率は97パーセント、全世界ではまだ46パーセントとまだまだ課題を抱えているが、ボロスは確実に今の世界に不可欠な存在になりつつある。


 他の大人たちとは違い最後まで夢を諦めずに戦った荒木は、遊馬にとって尊敬するヒーローであり、父親でもあった――それなのに。

 ふと昔のことが脳裏に過ぎって遊馬の目許が熱くなる。田んぼの間を連なる鳥居が歪んで見えると、遊馬は気を引き締め直してウィンカーを点灯させた。



 大きな松に挟まれた赤い鳥居と石畳。境内まで延びる道には、多くの提灯と旗が掲げられていた。金槌で釘を打つ音、夜店を組み立てる大人たちの活気に満ちていて、遊馬は軽く頭を下げてその間を早足で歩む。

 そして、山の斜面に差し掛かり注連縄を潜って石階段を駆け上がると、杜若神社の社が目に飛び込んだ。


「いつ見ても、村とは不釣り合いな神社だよなぁ……」


 歴史は古く、承和十四年――西暦では847年に始まり、比翼入母屋造の本殿は国宝指定を受けた格式ある名神大社だ。築千年を超える本殿、そこに佇む姿は見る者を圧倒し、普段は信心深くなくても畏敬の念を抱いてしまうほどだ。

 遊馬が酒瓶をかかえて誰もいない境内に立ち尽くしていると、和太鼓の重い音が鼓膜を振るわせる。人の気配を察して自然に足が敷地内にある舞台へと向いた。


「いよ~っ」


 ドンっと力強い打音と共に、畳を踏みしめる音――。

 そこでは祭りで披露する白雨神楽という巫女舞の稽古をする潤がいた。臙脂色えんじいろのジャージ姿で腰まである長い黒髪を一つにまとめ、右手には大きな扇を掲げている。音楽に合わせて舞台上を優雅な足運びでくるりと回り、顔元で扇を少しずつ開いていく潤の姿に遊馬はすっかり魅入っていた。


 潤は扇を畳んで振り返ると同時に遊馬の存在を知り、ポロリと扇を落とす。

 頬を真っ赤に染め上げてその場に座り込んだ。


「ア、ア、アンタ、来るなら来るって、ちゃんと言いなさいよっ!」

「い、いや、爺の使いでだな……これ毎年、お前んちに納めてるヤツだ」


 潤の慌てように遊馬もどう反応すべきか迷い、持ってきた大吟醸萌桜を掲げる。


「そ、そうなんだ、来るって知ってたら本番の衣装に着替えてたのに……」

「何か言ったか?」

「ううん、全然! 何も言ってないわよ~。じゃあそれ、私が預かっておくから」


 潤が舞台隅に屈むと耳許から髪が落ちてきて遊馬の左頬をさらりと撫でると、甘くて蕩けそうな匂いが鼻を掠め、急に心臓の鼓動が早くなる。戸惑いながらも遊馬は一升瓶とポケットの中でクシャクシャになったのし袋を潤に手渡した。


「じゃ、たしかに納めたぞ」


 そう言って遊馬は背を向けて足早に立ち去ろうとすると、潤が――。


「あの! 祭り、見に来るんだよね?」

「んーあー、たぶん、恐らく……きっと?」


 面倒くさいとはっきり言えず遊馬が歯切れの悪い返事をすると、潤はムスッと頬を膨らませて遊馬を頭ごなしに怒鳴った。


「来なさい、今年こそは絶対に来なさい! アンタだって村のお世話になってるんだから、年に一度の行事くらい顔を出しなさいよ」

「かったりぃな~、分かったよ」

「もう、昔はもっとシャキっとしてたのに荒木さんのことがあってから……って、あっ」


 しまった、という顔をして潤は口に手を当てる。


「気にすんな。じゃあ、またな」


 振り向くのを止めて遊馬は軽く手だけ振り、外縁にある坂道をゆっくりと下った。


 ――気にすんな、あれは自分に向けて言ったのではないか? と自問する。

 だが、そんなことよりも遊馬にはもっと重要で憂慮すべきことが他にあった。


 ――さっき感じた胸の高鳴りは何だったのか? 息切れ? 動悸?

 まさか思春期にかかる言われる恋の病というヤツなのか?

 いやいや、それはない。


 心に隙ができると普段にはない変調が起きる。

 つまりは魔が差した、そういうことなのだと。


 坂道を下り終えて納得のいく答えを導き出した遊馬は得意げに笑うと、寂しそうに主を待つ愛車にこう語りかけた。


「待たせたな相棒。ひとっ走り行こうぜ!」

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