第二幕「夏の始まりとともに彼女は訪れた」
目映い閃光で一瞬、世界の全てが白に染まる。ぽつぽつと浮かび上がった赤に青、緑に黄色、四つの菱形が合わさって回転を始める。それは加速度的に数を増し、まるでカレイドスコープ(万華鏡)のように広がり、壮美な幾何学模様が視界全体を覆い尽くした。
そして、最後にタイプされたアルファベットの一行がことの終わりを告げる。
《ウェルカム・トゥ・ボロス・ワールド――ログイン》
ガヤガヤと賑やかな声が耳に入る。
そして、これから始まる終業式を控え、明日から始まる夏休みが待ちきれないクラスメイトらが各々の夏のプランを語り、大いに盛り上がっていた。遊馬はその横を通り抜けてひっそりと席に着く。
この白雨村分校は仮想現実ボロスシステム内に設立された、初の《仮想教育校》だ。近年著しい出産率の低下で数多くの学校が廃校となり、中でも地方さらには過疎地での教育が危機的状況に陥って深刻な社会問題となっていた。
丁度その頃、時を同じくして稼働を始めたボロスの有用性を模索するため、様々な実験が始まり、そこで仮想現実内に学校を丸ごと作ってしまおうという計画が立案されたのだ。
ようは全国各地に散らばっている通学困難な生徒をひとまとめにして、人件費を安く抑えようというお役所らしい考えから、仮想白雨村分校は産声を上げたのだ。開校から5年、生徒数は現在36名。ほとんどが全国の過疎地から集められた子供なので、実際に顔を合わした相手の方が圧倒的に少なかった。
そして昨日の一件以来、酷く気落ちしていた遊馬はモサモサとした黒髪を掻くと、椅子にもたれ掛かって大きく伸びをする。と、いきなり背後から片言の日本語で語りかけられた。
「ヘイ、遊馬。今日もやる気ナッシングね。明日から夏休み、せっかく明日はミーがユーの家へ遊びに行こうっていうのに、少しはワクワクしなヨ?」
――そうだった、遊馬はすっかり失念していた。
この厚かましい喋り方をする男は、テッド・スマルト――15歳。
遊馬と同い年でアメリカからログインしている留学生だ。身丈は遊馬より一回り大きく、細身。刈り上げた金髪に青い瞳、憎たらしいソバカス混じりの顔をした親友だ。性格は遊馬と正反対で、ことさら陽気でよく喋る。こう見えても彼は日本が先駆けのボロスを学ぶため、試験的に設けられた特別優待推薦枠に入った数少ない《高度外国人材》の一人でもある。
彼の特技はプログラミングで、独特のコードを書く。ボロス内に存在する物体を読み解き、同じものを組み上げるだけでなく、ハッキングなどにも精通している。彼の父はアメリカ、シリコンバレーでベンチャー企業を立ち上げたやり手のビジネスマンで、彼もきっと第一線で活躍する人材になっていくことだろう。
しかし、しかしである。
そんな彼にも致命的な欠点が存在する、それは――。
「ヘーイ、遊馬。見てくれよ、ミーの最新作。色合いと表情、それにこの手触りを再現するのに、スリーデイズもかかったんだヨ~っ!」
テッドは遊馬の前で堂々とズボンのファスナーを降ろし、引き締めた尻を眼前に突き出してきた。見たくもないピンク色の下着が視界を遮って遊馬は顔を歪める。
「やめろやめろ、公共の面前でなんてことしやがる。昼飯が食えなくなるだろうが!」
「ノンノン、そこじゃないネっ! ココダヨ、ココ。ミーがこよなく愛する永遠の美少女キャラクター、マジカル・モモカルたんさっ!」
必死に意識を別世界へ飛ばして汚物を直視することを避けていた遊馬だったが、しつこくせがむテッドに根負けしてしまい、見たくもない男の尻にそっと視線を移した。
「ほう……」
たしかに、そこには10年前に大流行したアニメ、《マジカル・モモカル》らしきキャラクターがプリントされていた。だが、遊馬が《らしき》と例えたのには理由がある。それは再現にした下着が《低年齢指定》であり、絵柄がパツンパツンに間伸びしていたからだ。
そう、テッドは痛い日本文化にどっぷりと染まった、筋金入りの《オタク》だった。
「もういい、分かったから。早くその汚いモノをしまえ」
「オウ~、つれない反応ネ。なら特別ダヨ、ユーにだけなら触らせて……ア・ゲ・ル」
「ちょ、まっ……!」
鼻先に迫り来るマジカル・モモカル。遊馬が慌てて身を逸らし、椅子ごと大きく後ろへ倒れそうになった――その時だ。
「こんの……ド変態がぁあああああああああっ!」
赤縁の上履きがテッドの脇腹を抉るように凹ませると、彼はくの字に折れ曲がって蹴り飛ばされた。その際、風圧で広がった膝丈スカートからチラリと白いものが見え隠れすると、遊馬は咄嗟に身を乗り出して倒れかかった椅子を引き戻すことに成功した。
「朝っぱらから何やってんの、このお馬鹿コンビ!」
活発でよく通る声がキーンと右耳に響いて、遊馬は首を左へ傾ける。
「いやいや、待て待て……どっからどう見ても俺は被害者だったろう?」
「フン、遊馬が不甲斐ないからこの変質者が図に乗るんじゃないの。飼い主が責任を持ってしつけるのが、世間のルールってもんでしょう!」
横たわったテッドにもう一発蹴りを入れ、遊馬に無理難題を押しつけるのは幼なじみの
彼女は白雨村にある《舛花神社》の跡取り娘で、祭事には巫女も勤める文武両道の大和撫子だ。それに幼い頃は遊馬にベッタリで、お嫁さんになると言っては嫌がる遊馬を健気に追い回していたものだ。
しかし、しかしである。
そんな彼女にも致命的な欠点が存在する、それは――。
「これだけは言わせてもらうわ。モモカルなんてぜんっぜん、可愛くない。周囲に愛想をフリ撒くだけの底が浅いビッチよ。それに比べ、心の傷をひた隠しにして悪に立ち向かっていくブラック・クロカルちゃん。ああ、どうしてアナタはクロカルちゃんなの~」
潤は妄想に浸り、育ち盛りの大きな胸を腕組みした腕で持ち上げると、クネクネと身を捩らせた。そう、彼女もまたマジカル・モモカルに毒された筋金入りのファンであった。そして将来の夢は、アイドル声優になってブラック・クロカルのテーマ曲をカバーすることだと、小学部の頃に書いた文集に残っている。
「OH……イッターイじゃないか~っ! モモカルたんはビッチでないヨ、幼女ダヨ!」
ようやくラグから立ち直ったテッドがズリ下がったズボンを戻しながら立ち上がると、情けない彼の姿に潤が
「ふん、初放送からずっとリアルタイムで視聴し続けてきたこの私に意見するなんて10年早いわ。対等に意見したいなら、第5期までのセリフを丸暗記してから挑みなさい!」
「くっ、ミーはモモカルたんを見ながら日本語をマスターしたんだヨ。シーズン3までなら、今ここで披露したって……」
――ちょっと待て。
全てのセリフを言い終えるのに何日かかるんだと、遊馬は呆れ果てる。
「おいおい、お前ら。マジカル・モブカルで貴重な青春の一夏を無駄にする気か?」
「モモカルだヨ!」「クロカルよ!」
遊馬は冗談でこの場を諫めるつもりが二人の逆鱗に触れてしまい、鬼の形相に急変したテッドと潤が荒々しい息づかいで遊馬に詰め寄った。
が――次の瞬間、救いの女神が現れた。担任の教師が手を叩いて教室に入ってきたからだ。おかげで窮地を脱することができた。
「はいはい、席に着いて~」
テッドと潤は口をへの字にしてそっぽを向くと各々の席に腰を落とす。遊馬は安堵して滲んだ額の汗を拭うと、いつもより念入りな化粧をした担任が終業の言葉を述べ始めた。
「皆さん、明日から夏休みですねぇ。だからといって、羽目を外しすぎないようにしましょうねぇ~。お休み中、お友だちやご家族と、楽しく過ごす計画も立てていることでしょう。一生忘れない思い出作りをしてきて下さい。それと――」
教壇から人当たりの良い口調で語る彼女は、
しかし、しかしである。
そんな彼女にも致命的な欠点が存在する、それは――。
「先生はね、来週お見合いをします。今度で13回目になります。相手は35歳の男性で開業医をやっています。乗ってる車は黒のベントレーで、探偵に調べさせた年収はなんと2800万円! 120坪の土地に一軒家、愛犬はラブラドールレトリバーのエルメスちゃん。好きなタイプはお淑やかな黒髪のロングって聞いたけれど、カツラ盛っていけば大丈夫よね? さぁ取るわよ~、絶対に取ったるわよ~っ!」
その腹黒さに、教室にいる教え子全員がドン引きした。
そう、彼女は彼氏いない歴26年、張り切りすぎてチャンスを無駄にするストーカー予備軍。夢見るお姫様思想を卒業し、資産至上主義に身売りして白馬から高級車に乗り換えようと野心を抱く、さもしい女性だった。
欲にまみれた話に生徒たちが飽き飽きし始めた頃。鳴子はようやく話を本題へ戻り、休み中の注意事項や宿題、次回の登校日について説明する。これで終わりかと思われたが、最後に重大な発表があると言って、彼女は席を立った数人の生徒を座らせた。
「実はですね、終業式というこんなタイミングですが、転校生が挨拶に来ています。本来なら二学期からというお話でしたが、おうちの事情で早めのお目見えとなりました」
急に周囲がざわつき始める。無理もない、誰もが寝耳に水だったからだ。
「さぁ、入ってらっしゃい」
クラス全員の視線が扉へ集まる。磨りガラスに丸いシルエットがぼんやりと浮かび、左右にシニヨンぽい髪飾りが付いていた。つまりは女の子。興味が湧いた遊馬は背もたれから腰を軽く浮かせると、引き戸がガラガラと開かれて《彼女》が教室に入ってきた。
「……えっ?」
――のだが、クラスメイト全員が口を揃えて絶句した。
無理もない転校生は可愛らしいくもなく、女性というわけでもないく、人間でさえなかったからだ。声の主は黒いデメキン、金魚であった。
いや、正しくは《パーソナル・シンボリック・イマジナリー》という簡易アバターだ。ボロスにフルダイブできない、例えば電車の中や食事中などに仮想世界を覗くために用意された変わり身のことだ。長ったらしいので、世間一般では《パシリ》と呼ばれている。
フワフワと宙を漂いながら教壇に上がったデメキンは、泡を吐き口をパクパクさせて方向転換する。《中の人》はかなり動揺しているらしく巨大な眼球が小刻みに震えていて、ふとした瞬間、遊馬はデメキンと目を合わせてしまった。
いや実際、何処に焦点が向ているかなど分かりようもないが何となくそんな気がした。
「では自己紹介、何か面白いこと言ってね」
「えっ、面白いこと? あ、あの……その、ごめんなさい……私……やっぱり帰ります」
「こらこら、待ちなさ~い」
鳴子は、逃亡を図ろうとしたデメキンの尾ひれを鷲掴みにする。
――デメキン、お前は何をしに来たのだと遊馬は胸の内で呟く。
「あ……う……」
「シャイな子ねぇ、代わりに先生が紹介します。彼女は
光の速度で転校生を置き去りにした鳴子はイタリア(妄想)へと恋の逃避行をしてしまい、しばらくエーゲ海から戻ってきそうになかった。こんなクラスへ編入してしまったデメキン、いや転校生は不幸と言う以外ない。頬杖をした遊馬がチラリと視線を移すと、億劫な転校生はいつの間にか姿を消してしまっていた――。
一体、何をしにやってきたのか?
そこで終業を知らせるチャイムが鳴る。周囲から歓喜の声が上がってクラスメイトが席から立ち上がると、鳴子はようやく日本に戻ってきた。
「あら、何の話だったかしら~? まぁいいわ、では皆さん夏休み中、くれぐれも知らない男の人に付いて行かないようにねぇ~!」
『――お前がな』
クラス全員が口を揃えてそう吐露すると、転校生の一件は無かったことにされてしまい、この瞬間を待ちわびていたクラスメイトは次々とログアウトしていった。ただ一人、席に腰を下ろしたままの遊馬がぼんやり黒いデメキンのことを思い返していると、テッドが肩を叩いてきた。
「それじゃあ、明日ダヨ。ユーに会えるのを楽しみにしてるネっ!」
「……はっ?」
「はっ? じゃないヨ、ミーがアメリカからユーのハウスへ泊まりに行くって話サ!」
「エ~……そうだっけ?」
「ソ・ウ・ダ・ヨ! アメリカだと規制が厳しくてアクセスできないから、ユーの家から通販グッズサイトに繋げさせてくれるって約束したじゃナイカー!」
「そういや、そんな話もした気がするな。興味ないから聞き流してたけど。でも、数日まで待てば世界中のボロスが一つに繋がるんだろ? どうしてわざわざ家まで来るかねぇ」
「ノー! ユーは分かってないねぇ、ベストフレンドの遊馬に会いたいからじゃあナイカ。それに明後日には日本限定、マジカル・モモカルたんのスペシャルコンプリートBOXがネット販売される日。一分一秒を争うカーニバルなんだダヨ!」
拳を強く握りしめ爛々と目を輝かせるテッド。来日の目的はそっちが本命らしい。
それに遊馬は今、叔父の生家で一人暮らしをしているから一人や二人増えたところでどうということもない。
「で、何時に、何処へ迎えに行けばいいんだ?」
「え~っと、午前7時に関西国際空港に到着して、乗り換えに少し待たされるから……そっちの空港には10時くらいダネ」
「オーケー、寝坊しなかったら行ってやるよ」
「頼むヨ、見知らぬ国でボッチは嫌ダヨ。じゃあまた明日ネ――アディオス、アミーゴ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます