巡り廻るはボロスの尾

誠澄セイル

第一幕「ウェルカム・トゥ・ボロス・ワールド」

 夕暮れ――濃いフォグ(霧)が立ち込めた深く薄暗い森林。

木々の隙間をかい潜った光源が茜色の線を引き、ちらちらと小さな塵が揺らいでいる。大きく深呼吸すると針葉樹特有のツンとした香りに鼻腔が刺激されて、肺に送り込んだ冷気が血管を収縮させた。この《現実》よりも《現実らしい世界》をあの叔父が創り出したとは、未だ信じることができない。深々した静寂、圧倒的なリアリティ、まさにパーフェクトワールド。


 ユビキタス・シミュレーテッドリアリティ――仮想現実ボロスシステム。


 日本が世界に先駆けて開発した技術であり、量子コンピューターによって擬似的に国土を拡張し、経済効果を促すために創り出された仮想領土だ。つまりはコンピューター上にもう一つの日本があると考えれば理解しやすい。

 そして、ユビキタス《どこにでも存在する》という意味の通り、ボロスは専用端末さえあれば、そこが富士山の山頂であっても一瞬で日本の好きな場所へ行くことができる。


 そして遊馬あすまは今、ヘッドマウントディスプレイ――ボロスグラスに描画された映像とフレームに埋め込まれた四つの電極から脳に送られる信号によって、もう一つの現実へと誘われている。

 だが……遊馬が今いるは他と大きく異なる点が一つある。それは現実にも仮想世界の中にも《存在しない場所》ということだ。これを目にすれば誰もが足を止めることだろう。遊馬は眼前にそびえる《NO DATA》と記された黒いノイズの壁を見上げると、


「まったく、いつになったらコレ直すんだよ。行政ってのは民草から税金を搾るだけ搾って仕事はいい加減。せしめた金を研修と称して慰安旅行とかに使い込んでるんだから、本当にあくどい。あ~、俺も早く卒業して公務員になりてぇよ~」


 つい本音まじりの愚痴を漏らした。


 とにかく楽をしたい、平穏な人生を全うしたい、誰にだって怠惰たいだな願望くらいあるだろうと自身を肯定してみたものの、それを非難する声や賛美する声はどこにもない。ここを知る者は限られているのだから当然と言えば当然だ。


「はぁ、帰ろ帰ろう。面倒くさい現実に戻るとするよっと」


 ため息を吐いて薄気味悪い壁を見上げる……と。

 壁の中で反響する女性の声が遊馬の耳に留まる。しかも声は一つではない。

 それは奇声と叫び声が入り交じったものでだんだんとこちらに迫っていた。


「何てこった、こいつはマズイぞ……来る、が来る!」


 草が擦れ合う音、地面を踏み揺らす振動、一刻も早くここを離れなければ。

 遊馬は禍々しい気配に気圧されて額から頬へ大粒の汗が伝うと、後ずさりしながらきびすを返そうとした……が、すでに手遅れだった。


 《ソレ》は突然、黒壁の中から現れる。

 振り向いた遊馬の側面からだ。


 見開いた遊馬の眼球――焦点を揺らしながらその動きを追う。


 白くしなやかな爪先つまさきが黒壁の膜から抜けると、次に足首からふくらはぎ、肉付きの良い太ももが続く。さらに大きな二つの山が隆起して豊満な乳房を形作り、最後に顔の輪郭が伸びるように突き出した。


「キャっほ~い!」


 黒壁から現れたのは、栗毛のセミロングに赤いメガネ、全裸でグラマラスな成人女性。彼女は悦びに満ち満ちた表情を浮かべて妖精の如く高く舞い上がり、遊馬の横っ面を蹴飛ばした。


「ぐふぉ……!」


 ――誤解なきよう説明しておこう、これは決して世に言う《ご褒美》などではない。


 地面に顔面を擦りながら二回転し、エビ反りになった体を起こす。

 ところが立て続けに飛び出してきた七人のお姉さんに揉みくちゃにされ、遊馬は何度も顔を踏み潰されてしまった。


 ――大事なことなので二度言おう、これは決して世に言う《ご褒美》などではない。


「あら? 今、何か蹴っ飛ばしたかしら?」


 最初に遊馬の横顔へ強烈な前蹴りを喰らわせた女性が足を止め、くの字に横たわった遊馬の前に立つ。遊馬は顔を振ってグラマラスなシルエットを見上げると、彼女の浮ついた声が頭上に降り注いだ。


「ウェル、ウェル、ウェ~ル。これは驚いた、遊馬くんじゃないの~? こんな所で何してたのかな。さぁ、お姉さんに話してご覧なさい」

「イテテテテ……。何してる、じゃないっスよロロ子さん、それはこっちのセリフっす」


 ここは仮想世界。本来なら痛みを感じることはないが《この場所》だけは違う。

 現実と仮想現実のはざまなので怪我をすることはないまでも、受けたダメージに近しい痛みが伴う。それに全てが作りモノと言えど、眼前に立ち並ぶのは女性の裸体。思春期真っ盛りの遊馬はほとばしる欲情をしずめるように、股間のテントを畳んだ。


 そんな遊馬の有様を眺めていたロロ子はニヤニヤと口元を吊り上げ、初心な青年の心を弄ぶと、腕組みしていた左手を頬に当てて楽しそうに首をかしげる。


「何って言われても……私たちは自然をこの上なく愛する森ガール部。《眠れる森》の集会(サバト)に興じていただけじゃない。あらあら~? もしかしてキミも入会したいのかな、縹遊馬はなだあすまくん。18歳以下の雄の子ならいつでも大歓迎よ! ムフフフ……」


 ロロ子は頬を赤らめると口元から溢れそうになったおつゆを拭う。

 せっかくの美人もこうなってしまっては台無しだった。それに遊馬はこの怪しげな集団に加わりたいなど、微塵も思ったことはいない。ろくでもない目に遭わされることを本能が告げていたからだ。

 できることなら一生相手にしたくないロロ子に、遊馬は敢えて正論を唱えてみせる。


「そういうことではなくてですね、山吹ロロ子さん。お役人、しかもエリート官僚の貴女が、何故に真っ裸で山中をマラソンしてるかって話です。どっからどう見ても、ただの変質者じゃないっすか!」


 するとロロ子を筆頭に背後からクスクスと笑いが湧く。

 そして、暗がりで無数に反射する猛禽類の眼光、もとい、お姉様方の熱い眼差しに気圧されて遊馬は子鹿のように足を震わせた。


「あらあら、今さら、何を言っているのかしら遊馬くん。ここがどういう場所なのか、今の蹴りで忘れてしまったの? アナタの叔父様、縹荒木はなだあらき先生が創り出した仮初めの世界、《仮想現実ボロスシステム》。そして、アナタが慣れ親しんだ白雨村の半分がダムに水没し、現実と仮想現実の不一致によって生じた不良セクタ。つまり、世に存在するいかなる法も適用されない最後のフロンティア。それがここ、聖域サンクチュアリよ。それに私たちが全裸でいることを、誰が咎めると言うのかしら? 神? そう、神よ! 私たちは日夜この身を大地ボロスに捧げ、精霊たちと言葉を交わし、ウィッチクラフト(魔女術)の秘術によって、世に蔓延はびこる無能で忌々しい中年親父共に神の制裁を――!」


 次第に熱がこもり、ロロ子の語りは私怨へと変わっていく。女の恨みや執念ほど恐ろしいモノはこの世には存在しない……と、遊馬は彼女の言葉を淡々と聞き流した。

 それによくよく見直すと、怪しげなこの一団は単に全裸という訳ではなかった。頭には枝や草花で編んだ髪飾り、顔には何かの文様がペイントされている。


 そう、彼女たち森ガール部と称する《眠れる森》とは、決し森歩きを楽しむ淑女の集いなどではない。言うなれば、現世では絶滅しているであろう《ケルト魔術信仰》の復権を目論むOL……いや魔女? もとい、腐女子と称される彼氏がいない寂しい女子たちであり、週末にここに集まっては憂さ晴らしをしている反社会的グループなのだ。


 中でも主宰者である山吹ロロ子は、26歳。経済産業省仮想電算課、課長補佐という仮想現実内で起きた不正や不具合を監査するエリート官僚だった。が、こともあろうか彼女は職権を乱用。偶発的に現れたこの《空白エリア》を隠蔽、私物化してしまったのだ。


 一方、遊馬はというと、全国各市町村で《仮想経済活性法案》が施行された際、コンピューターにうとい長年林業を営んでいた祖父に替わって、《仮想白雨村》にある山林の管理を任されていた。

 もちろん遊馬は未成年であり、まだ義務教育中の身であるため、正式な役職を持ってはいない。だが、行く行くはこの地味で楽な仕事を引き継ぎ、国の金で安易な人生を真っ当することこそ、遊馬が思い描く未来像であった。


 はずだったのに――ロロ子という恐怖の圧制者の出現により、その夢は呆気なく打ち砕かれた。


 そして、今では彼女と冗談を言い合える程度には親しくなったのだが、遊馬にはどうしても譲れないことが一つだけあった。それも今、急を要する案件についてだ。


「あのう……俺も思春期真っ盛りの男子なんで何とかなりませんかね? その格好……」


 すると、呪詛の如く恨み辛みを呟き続けていたロロ子の口がピタリと止まり、右頬に人差し指を当て、可愛らしく首を傾げて見せる。


「あら~、勿体ないこと言うのねぇ。まぁいいわ」


 遊馬の申し入れを聞き入れた彼女が胸元を軽く手を添える。

 途端、微細な粒子のエフェクトが彼女の周囲を波打って墨色のマントが体を包み、肩幅よりも大きな帽子が頭をすっぽりと覆って、つばがロロ子の顔に暗い影を落とした。

 遊馬はまるで本当の魔法みたいだと、つい見蕩れてしまうと続けて周囲を取り囲んでいた他のメンバーもロロ子と似た装いになる。


「ンフ、これでいいかしら?」


 唇に指を当てたロロ子に顔を覗き込まれて、遊馬はその妖艶な魅力を秘めた笑みに一瞬ドキリとする。赤らめた顔を誤魔化しつつロロ子に返事を返した。


「あ、ありがとうございました、いろんな意味で。それにしても、いいんスか? 仕事ほっぽり出して、山ん中で怪しげな……いえ、素敵なご趣味に没頭していても。こんなことが発覚したら、ロロ子さんの立場が危うくなるのでは?」

「まぁ、私の心配をしてくれるなんて、遊馬くんは優しいのね。けれど大丈夫、バレやしないわ。それに書類上ここは存在しないことになっているし、役所なんて形式さえ整っていれば何の疑問も抱きもしない。所詮、公務員なんてそんなものよ」


 当事者の言葉は生々しく、リアリティな響きを秘めていた。


「それに明日からまた忙しくなるから、サバトもしばらく開けなくなるのよねぇ。今週末には、日本がインフラ事業として海外輸出したボロスが《全世界同時リンク》されるもんだから、職場はてんてこ舞いなの。あ~もうっ、やってられないわ。人手をよこせ、セクハラ親父共! 吊せネクタイ、爆ぜろハゲ頭、呪うわよ!」


 ――おっかねぇ……と、遊馬は思わず後ろへたじろぐ。


 遊馬とロロ子は現実で何度か顔を合わせたことがある。見た目は活発で、誰もがその笑顔に吸い込まれてしまいそうな美人。気さくで話しやすく優しいお姉さんだった。


 しかしここ、仮想現実においては《裏の顔》が鎌首をもたげる。普段、押し殺しているドス黒い感情を解放して、人に言えないご趣味や実験に没頭している危険人物である。

 それとロロ子の呪いに効果があるか分からないが、実際に彼女の上司が二人、横領と未成年に対する売春容疑で訴えられ、懲戒免職になったというのだから笑えない。


『トゥルルル……』


 そこへ突然、悪態をつく彼女の目前に《CALL》の文字と着信マークが浮かび上がり、小刻みに振動した。ロロ子はピクリと片方の眉を動かして、右手の小指と親指を立てると受話器のように耳に当てる――。


「はい、山吹でございます。あら、これは部長~っ! はい、はい、例の件についてですね。全て用意は調っております~。ええ、はい――」


 どうやら電話の相手はさっきまで呪い殺す勢いで罵っていた上司、その人だったようだ。

 ロロ子は別人のように、愛想が良く、心地良いトーンの声色で話し、大人な雰囲気を醸し出していた。が、声とは裏腹にまったく笑わない無表情な顔を目の当たりにして、遊馬は社会の厳しさと荒んだ大人心を悟ってしまった。


 その後、ロロ子と上司の通話は5分ほど交わされる。


「はぁ、今から省庁へ出向かないと……。残念、サバトの続きはまた来週ね」


 彼女はとてもガッカリした表情を浮かべる。


「ご苦労様っす」


 まったく関係のない遊馬が適当な返事を返すと、続けてロロ子が少し言葉を濁らせながらこう付け加えた。


「あ、そうそう、遊馬くん――」

「はい?」

「さっきかかってきた電話に関することなのだけれど――白雨村にね、近々外資系企業の立地調査が入るそうなのよ。上が勝手に認可しちゃってね。だからくれぐれも聖域のことはバレないようにしておいて。使い方によってはいくらでも悪用できちゃう、だから」

「大丈夫っすよ、ロロ子さん。集落から随分と離れた場所にありますし、山歩きに馴れたヤツでも、そうそうここに辿り着くことはできませんって」

「それなら良いけれど。あの《噂》もあることだし、宜しく頼むわね。あー、あと近いうちにそっちへ顔出すから、お姉さんに会えるのを楽しみにしていなさい。ウ~ン、ムっ」

「……は、はいっス」


 遊馬が首を傾けて投げキッスを躱す仕草をすると、彼女は陽気な笑顔を残して聖域からログアウトする。続けて、他の魔女たちも口々に別れを言い合い現実世界へと戻っていった。


 緊張から解放された遊馬は霧が立ち込めた森林に一人残され、大きなため息を吐く。しばらく頭上に降り注ぐ木漏れ日を見上げると……頬を引きつらせて破顔した。


「マジかよぉおおおおおおおおおおお~っ!」


 明日の終業式を終えれば、待ちに待った夏休みだというのに。

 昼寝三昧の日々が待っていたというのに。


 ロロ子という厄災の襲来を知らされ、蒼天だった遊馬の心に分厚い積乱雲が立ち込めて土砂降りの雨を降らせた。


「――帰ろう、夢も希望もないリアルという名の現実へ」


 遊馬は大きく肩を落とすと、失意の中、右端にあったログアウトボタンを押した。

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