第五頁


 四方八方に飛び散るガラス片が黒い腕を切り裂き、ひるんだ黒い腕は力を緩めました。そして砕け散ったその勢いでなのか、一枚の純白の羽根が天井に舞い上がっておりました。


 ふわふわと遊ぶように落下する一枚の羽根が、急に意志を持ったかのように、ヒュッと鋭く吹き矢のように、まるではさみで布を断つような鮮やかさで稲妻のようにジグザグに走り抜けると、その軌道に沿うように空間に切れ目が走り、ぼろぼろと灰色の世界が崩れてゆきました。


 切り崩されるモノクロの光景の向こうに、セピアに滲んだ光景が幾つも私の視界に見えました。


 =====


 荘厳な造りの教会の中、頭上には幾人もの天使が翼を広げ、喇叭ラッパを吹く。

 歓声の中、一際大きく赤子の泣く声が響く。

「……綺麗だな」

 そう呟いた一人の天使がそっと赤子の傍へ舞い降りる。

「今日から俺がおまえを守護しよう」

 そう言って天使は、小さな揺りかごの中で力の限りに泣く命の小さな小さな額に祝福の接吻を落とした。



 ====


「天使、天使!みて!これ天使をかいたんだよ」

 そう言って紙を天使に見えるよう、頭上に掲げてぴょんぴょん飛び跳ねる男の子。

「そうか……王子は、絵が上手いな」

 顔を近づけ、満足そうに囁く天使の顔は誰よりも優しい。

「天使は、いつも僕をまもってくれてるから、お礼だよ」

 そう言って幼子は自分の描いた絵を天使に差し出す。

「……いつまでも、必ず王子を守ってやる」

 絵を受け取りながら天使は、幼い王子へひざまずき、頭を垂れた。

 王子はきょとんとした顔でそんな天使を見つめていたが、やがて花が綻ぶように笑った。



 ===


「なんで……俺は、王子の守護天使になれと言われたから……!」

「だぁから、その任は終わったんだってえの」

「は?! なに莫迦ばかなこと……王子はまだ幼えだろ。それに大人になったって危険がなくなる訳じゃねえし……。いや、今よりずっと……」

「だぁあかぁらぁぁ! 何度も言わすなよ、いいか、端的に言うぜ? アイツはお役御免。神の威光と恩恵は今度から他の奴に与えられんの」

「は……?」

 教会内で激しく言い争う青紫の髪をした天使と金髪の髪を一括りにした天使。

「っだああ、馬鹿が! 見棄てられたんだよ! だっからお前もアイツのことはとっとと忘れて、さっさと天界戻ってこい! 大体守護天使なんて退屈な任務、おまえも嫌がってただろーが、願ったり叶ったりだろ?!」

「そ、れは……」

「いいから早く戻ってこいよ。それに……あのガキの傍に居たら、闇に染められるぞ」

 そう言って金髪の天使は姿を消す。残された青紫の天使は苦渋の表情を浮かべ立ち尽くしていた。

「……神が、王子ヴィーザルを見放したとしても、俺は――!」

 やり切れぬ思いと共に拳を柱へと打ち付けた天使は、強い色を瞳に滲ませた。



 ――セピア色の風景はだんだんと色彩が豊かになり、淡く柔らかな色合いから徐々に鮮やかな色へと変わっておりました。

 それと同時に、空間を切り裂く純白の羽根がじわりと黒ずんでいくのが私の目の端に映りました。

 世界に色がつくほどに、私を拘束していた黒い腕たちは力を無くし、まるでしなびた花のように力なく項垂れてゆきました。



 ==


「天使……天使どこにいる?」

 周囲を油断なく見回すのは既によどんだ眼をした少年の王子だった。

「ここだ」

 傍らに立つ天使はじっと王子を見つめていたが、二人の視線が交わされることは無い。

「天使…ッ! なんで、どうして返事をしない…!」

「王子、俺は傍にずっといるから」

 苛立つ王子が急に眉を下げ、怯えたような表情を見せる。

「天使っ、俺、きらいなんて言ったの嘘だから……、だから」

「わかってる、王子」

「いなくならないで……お願いだから、かえってこいよ……」

「おうじ……」

「さみしいよ、てんし、どうして……う、あ、あああ……」

 さみしい、とうずくまり膝を抱え一人で泣く少年の頭に天使は手を伸ばしたが、その伸ばした手とは逆の手で無理やり押さえこむ。

「王子……俺のことが見えなくても、聞こえなくても、俺はずっと傍にいる……。もう、なんの力もねえけど、ずっといるから……」

 自分の腕を止める力で爪が食い込み、ぷつりと血が流れるのも構わずに王子の傍らに立ち続ける天使の足元には、黒いおりまとわりついている。

「こんなことになるなら、早くおまえに触れてれば良かった……ごめん王子、守ってやれなくて……」

「天使…あ、う、どうじて……? ゆるさない……ぜっだい……」

 王子が口を開く度に、王子の体から黒いおりがどろりと流れ出る。

 天使は嫌がることもなく、そのおりに触れてそれを抱きしめる。王子の代わりに、この苦しみを抱くのだ。それは王子も天使も巻き込んでじわじわと闇を広げていた。



 =


 寝台で青白い顔をした王子を天使は表情なく見つめる。

 血の気の失せた顔、こけた頬、ひび割れた唇、そしてなにより――この白い髪。

「――王子」

 半狂乱で目につく赤を壊し、過去の自分を破り捨てた可哀想な俺の王子。

「俺の目の前で、おまえが血を吐いた時、俺は……自分の無力を呪った。呪うだけじゃ足んねえ。殺したかった。力が欲しかった。なんでもいい、どんな力でもいい。王子、ああ俺の、俺だけの王子……」

 天使は血走った目で眠る王子の顔を覗き込む。

「王子……俺を求めろ。欲しがれ……なあ、なあ……」

 すがるように王子へと囁いて、天使はそっと赤を失くした髪に触れる。ぎこちなく幾度も触れ、その事実を確かめるようにそっと掬い上げ、懇願こんがんするように小さく口づける。

「さわれる……」

 赤をも取り上げられ、王子に与えらえた神の加護は、遂にひとつもなくなった。

「触れる……っなあ王子…っ!」

 声を抑えながら、歓喜に声が上擦うわずる天使だが、唇を結んで王子の額にそっと接吻を落とす。

「……てん、し……?」

 熱に浮かされた王子の混濁こんだくした小さい呟きに、天使は久々に笑みを浮かべた。それは随分長く笑ってないせいでぎこちないものだった。



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