第四頁



 私がまたたいた刹那せつな、今度は大食堂のような場所に場面は移り変わっておりました。

 恐らく、今は使われていない棟にある大広間なのでしょう。天井には見事な神と天使の絵画が描かれていましたが、灰色の世界の中で見るそれはひどくおどろおどろしく、不安ばかりが増すものでした。


 王子は上座に一人座り、その左右の席はいずれも空席で、王子の孤高さと孤独を浮き彫りにしておりました。また、反対に末席にす、肥えた御仁の周囲にはきらびやかに飾った方々が並び、どのお方も含みのある視線を王子へと向けておられました。

 御仁がにこやかに談笑しながら切り分けた肉を噛みしめると、まるで血の滴りのような肉汁がぼたぼたとテーブルクロスを汚しました。

 その様子にあからさまに眉をしかめた王子は、手元に注がれた葡萄酒をさらうように取ると、その色合いに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、杯を一気に飲み干されました。

 王子の煽りかたに手を叩いて称賛の言葉を贈る、御仁の取り巻きたち。私は何とも言えぬ気持ちで王子と御仁とを見ておりましたが、王子がごほごほと咳を零し、胸をおさえたことで周囲の空気は一変いたしました。固唾かたずむような、シンとした場内。誰ひとり、王子へと声をかけるものはいませんでした。

 その異様さと言ったら……。私は動悸のする胸を押さえて御仁をキッと見やりました。

 御仁は――、おおよそ人とは思えない程の醜悪な笑みをにいっと浮かべて、苦しむ王子を見ておりました。


 息を乱し、苦しげにうめく王子が崩れ落ちて、滑り落ちた食器が派手な音を立たました。その音に扉の外に控えていた兵士が飛び込んだところで、耐え切れず私の目からは涙がこぼれました。



 ぼやけた視界が涙と一緒に落ちると、今度は鏡の前で立ち尽くす王子の場面となりました。

 色の抜けた自らの髪へ恐る恐る手を伸ばし、確かめるように毛先を目の前にかざします。震える手が何度も何度も髪に触れ、その度に強く握りしめては髪を掻き乱しました。ぶちぶちっと嫌な音がして、王子の真っ白な髪が床へと散りました。

 徐々に力が抜け、その場にへたり込んだ王子でしたが、小刻みに震えだした体を抱いて大きな声で、声にならない声を叫んでおりました。何を言っているのか、それは分かりませんが、それでも身を裂くほどの悲壮と憎悪が突き抜ける、そんな叫びでした。


 王子はふらふらと立ち上がると、部屋にかけてあった額を掴んで引っ張り落し、ぐちゃぐちゃに踏み抜き絵を破り始めました。わあわあと喚きながら、次の額へ手をかけ、今度はそのまま自らの爪で絵画を引き裂いていきました。途中、爪が割れ、欠片が私の方へと飛んできましたが、王子は止めませんでした。

 部屋の絵を破き終わると、肌蹴はだけたローブを直しもせずに、ふらふらと部屋の外へと出て行き、廊下の方から重たいものが落ちる鈍く大きな音と、布の破れる音が響きました。

 私は王子の後を追って廊下へ飛び出すと、ちょうど王子がこちらへとゆっくり振り向いたところでした。

 びくりと肩を揺らした私は両手に、あの大叔母から渡された肖像画を持っていることに気が付きました。「どうして?なぜ?」混乱する私に王子は歯を剥いて、うなりました。

「赤い色は見たくない……」


 唸るように呟いて、王子は私の持つ肖像画に手をかけました。王子のひび割れた爪がかつての王子の顔に食い込み、私は悲鳴を上げました。


 遠くより慌てた足音がいくつも聞こえ、ガチャガチャと鎧の鳴る音が近づいてきました。現れた城の者へ素早く目を走らせた王子の、幽鬼のような姿にみな小さく悲鳴をあげましたが、王子の咆哮ほうこうがそれらを掻き消し、そのまま皆の姿は溶けるように崩れてゆきました。



 息を吸って、目を開けば、そこは王子の寝室でした。

 ベッドに寝転がり、頭の下で腕を組んで天井を睨む王子は疲れているようにも見えました。

 バリンとガラスの割れる音がし、続いてガラスの擦れあう音と床を踏む大勢の足音と共に、黒装束をまとった仮面の者たちが部屋に雪崩込んできました。

 ――暗殺、と思い至った私でしたが、体を動かすことはおろか、声も出せませんでした。王子に向かい振り下ろされる刃がやけに光を反射して、私の目にはとても眩しく見えました。その眩い中に、黒い閃光が走り抜けました。

 刃を握った暗殺者は王子の間に割って入った影にもたれかかるように倒れ込み、額から血を噴き出しながら床に転がりました。何が起こっているか分からない内に、二人、三人と、同様に倒れ、床は深い色に染まってゆきました。


「――守れて良かった」

 そう呟いた男は真白い服を血で染め、その濃い色の髪は血に濡れた所為か、より暗く深い色に染まっておりました。

 王子へと穏やかな笑みを浮かべてみせた男の背を見て、私は彼が何者であるかを悟りました。

 その男の背には、この世に存在するどんなものよりも純白に輝く翼があったのです。




「天使様……」

 初めて見る、神の奇跡のひとつ。私は驚きと畏敬とで目をみはりました。

 王子の元には守護天使が居た。本当に居たんだわ、と思わず両の手で口元を押さえ、これ以上声を漏らさない代わりに涙を静かに落としました。


 私の零れた涙は、床に落ち、小さな染みをつけました。

 その時、その染みとは到底、比べ物にならない質量と大きさのものが、黒く薄っぺらな腕が螺旋らせんを描くように現れ、それは幾重にも重なって床から私の首を締め上げました。

 あまりの苦しさに涙がぼろぼろと零れ、床に次々と涙が染みを作っては、そこからまるで草花のように黒い腕が生えてくるのでした。


 喉以外にも腕から胴から、あらゆるところを締め上げじられ、私の体はあっという間に悲鳴をあげました。みしみし、めりめりと聞いたこともない音が自らの体からするのは恐怖しかありませんでした。胸囲を覆う黒く長い腕が力を篭めると、ゴキリと嫌な音が鳴りました。


いやだ、いやだ……助けて、助けて……」

 声にはならず、はくはくと唇を震わせた私の胸元から何かが零れ出る感じがありました。床に落ちた音に最後の力を振り絞って視線を動かせば、それは大叔母からもらった小さなガラス瓶でした。

 床に落ちたガラスの小瓶は、誰にも触れていないのにカタカタと震えておりました。震えが一層大きくなったその瞬間、ガラス瓶は盛大な音をたてて砕け散りました。

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