第三頁



 ふと意識の浮上する感覚に、随分眠ってしまった、と私はゆっくり目をまたたかせました。

 起きたばかりの寝ぼけ眼では、一面真っ黒にしか映らず、私は次第に目が闇に慣れるのを待ちました。しかし、待てども待てども、闇が薄れることはありません。

 さすがにおかしく思い、手探りでベッドの縁に置いてあるランプへ手を伸ばしましたが、ランプはおろか、柔らかな枕にも触れることは無く、私は急いで身を起こしました。

 そこはいつもの見慣れた私の部屋ではなく、ただ広い広い空間のように思えました。

 見渡しても見えるものは闇しかなく、もしかしたら狭い箱の中に閉じ込められているのやも知れないとも思えました。

 手探りで壁を探しますが、手に触れるものはありません。伸ばせども伸ばせども、闇の中に伸びるのは頼りなげな私の細い腕のみです。

 そこで、ようやく私は、暗闇の中にいるにも関わらず、自分の腕が目視できる不思議さに気付きました。闇の中で私だけが光を得ているようでした。

「誰か」と震える声で呼びかけても、応える声はありません。


 突如私の頭からつま先までの全てを恐怖が包みました。恐怖に支配された私は、立ち上がり無我夢中で駆け出しておりました。臆病な私のことですから、その場にうずくまり動けなくなるものだとばかり思っておりましたが、この時ばかりは、じっとその場に居ることの方が恐ろしかったのです。


 どこへ駆けているのか、果たして真っ直ぐに駆けているのか、実は真っ逆さまに落ちているだけではないのか。私はただただこの真っ黒な色が恐ろしかった。

 小さく嗚咽おえつを零しながら、なんでもいいからこの黒以外のものへ辿りつきたい。そう強く願いながら駆ける私の視界の先に、ぼうっと灯る光のようなものが見えました。私はその光へすがるように足を早め、転びそうになりながらも近づいていきました。

 近づけば、その光がみどりがかった色合いであることが分かりました。そう、みどりの……。


 そう気づいた私はいやだいやだ、と首を力なく振りました。だけどもめちゃくちゃに動く足を、私には止めることができません。


「ああ、あれはいやだ……」

 近づけば近づくほど、その光は凶悪な光を放ち、こちらを見ていました。見開かれた二つのまなじりの中でギラギラと禍々まがまがしく、翡翠ひすいの瞳が燃え盛っておりました。

 その目の周りからは睫毛の代わりに無数の黒い腕が生え、私を掴もうと手を伸ばしておりました。見るだけで気が狂いそうな、おぞましい光景に私はようやく叫び声をあげ、無理やり体をじって別の方向へと死に物狂いで走りました。

 恐ろしくて背後を振り返ることなどできません。見えないはずの背後に、あの目と黒い手が追ってくるのが分かりました。

 ぎゅっと目を瞑って「誰か助けて」と私は必死に祈りました。

 呼吸が苦しくて、目を開くと眼前には大叔母から渡された、少年の日の王子の肖像画が無数の蝋燭ろうそくに照らされ、暗闇の中に浮かんでおりました。

 私が手にした肖像画よりも数倍も大きく、立派な額に飾られた肖像画。この絵の持つ、異様な迫力に私の背筋が強張ったところで、こちらに笑みを向ける王子の色のない目が突如ぐるんと動き、私と視線をぶつけました。

 あまりの恐怖に情けない悲鳴を漏らした私は、その拍子に足を絡ませ、大きく前へと、王子の肖像画へと倒れ込みました。






 ぶつかる感覚が一向に訪れず、いつの間にか閉じていた目を開けると、私は豪奢ごうしゃなカーペットの敷かれた床にうつ伏せに倒れ込んでいました。

 驚いて身を起こし周囲を見渡すと、先ほどの真っ黒な空間はどこにもなく、大きな窓に下げられた光を透かすレースのカーテンが風にそよぎ、大きな天蓋てんがい付きのベッドとシャンデリア、そして床に散らばったビリビリに破かれたスケッチブックが見て取れました。

 備えや、おもむきに違いはあれど、ここが城の中の一室であることに私は気付きました。

 ただ、見える光景はすべて灰色で、全ての色がないモノクロのものでありました。足元の豪奢ごうしゃなカーペットは本来であれば素晴らしい肌触りなのでしょうが、私にはなんの感触もありませんでした。

 少し歩を進めれば、ベッドの影となっていたところにうずくまる一人の少年の姿がありました。

 膝を抱いて顔を伏せた少年は、白と黒の世界に染まっていましたが、私にはその頭が、真紅のものであろうと思えました。

 癇癪かんしゃくを起して、暴れた後なのでしょう。乱暴に扱われ破けてしまった枕からは羽毛が飛び出し、そこかしこに散っておりました。脚の折れた椅子が窓ガラスを割り、そこから時折風が吹き込んで少年の――小さな王子の髪を揺らしていました。

 破かれた用紙の断片には王子と同じ色の髪を持った威厳ある男性の顔が。そして白い服をまとった青年に、純白の翼。


 私は先ほどまでのことを一瞬忘れ、ただこの小さく震える子どもの背中に手を伸ばしました。


「さわるな」

 はっきりとした声が少年からして、私は素早く手を引っ込めました。

「誰も僕にさわるな」


 再度告げられた言葉に私は為す術なく唇を噛みました。


「誰も僕に触れない、触れさせない。誰のあたたかさも要らない。みんなが僕を捨てるのなら、僕も捨ててやる」

 すっと立ち上がった少年の姿に青年の姿が重なります。たくましく、険しく成長した身体。長く伸びた赤い髪。

 奥からかすみのようにぼやけた姿の兵士が駆けてきて王子の腕を取ろうとしました。


「俺に触れんなって言ってんだろうが!」


 王子は近寄ってきた兵の手を振り払い、吼えました。まるで手負いの獣のように。

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