第二頁


 その日の夜は怖くて怖くて眠ることができませんでした。

 目を閉じるとあの宝石のようにギラギラと輝く翡翠ひすいが、真っ暗な闇の中でこちらを見ているのです。私は襲いくる眠気と闘い、震えながら朝が来るのをひたすらに待ちました。

 幸いなことに翌日は買い出しの当番でありましたので、私は朝支度を終えると逃げるように城から飛び出しました。そしてそのまま、この街のはずれに住む、大叔母の元へと駆けこんだのです。

 大叔母に涙ながらに城での出来事を話すと、大叔母は大きく鼻から息を吐きだし、目を閉じたまま、とある昔話を聞かせてくれました。


「おまえが生まれるまだ少しだけ、昔。この国に生まれた王子は神の祝福を受けた聖なる神子みことして王と妃に、家臣に、国民に、すべての者から愛され、すくすくと健やかに、賢く、優しく成長しておった……」


ある時、王子は言った。

「天使が僕を守ってる」と。王子には――神の御使いが見えておったそうな。

その言葉は大いに皆を歓ばせ……、また同時に畏怖いふの念を抱かせた。

程なくして、王子に妹御が誕生なすった。この話はお前も知っているかいねえ。妹御の誕生を、王子は誰よりも喜んだ。ただ……皮肉なことに、その妹御が王子の何もかもを変えてしまった。運命は、神は時にひどく残酷よの……。

王子は神に見捨てられ、その恩恵はすべて妹御に向けられてしまった。そして神だけでなく、その周囲も――、王子を取り囲んでいたものは何ひとつ彼の元には残りはせなんだったのよ……。


 もうひとつ、大きく息を吸って吐きだした大叔母の眉間には、苦しそうにしかめられたせいでできた皺。大叔母は涙で潤んだ小さな瞳を私に向けて、こう続けました。


  ――そんな周りの変化にまだ幼くもさとかった王子はひどく心を痛めておいでだった。それでも王子は「傍に天使が居てくれるから」と必死に耐えてらした。

 それがある日、王子は半狂乱になって泣き叫びながら城の中を駆け回った。母君が自らお命を絶たれた時でさえ、王子は取り乱さなかったというのに。

 手の付けられない暴れように、ついには城の兵士達が王子を取り押さえた。王子は獣のように唸りながら、ひたすらに恨みと怒りの、聞くにえない呪詛じゅそを叫んでおった。

 あたしは、もう……胸が痛くてねえ。あの素直でいじらしかった可愛らしい王子は消え、あたしの前に映るのはこの世に深く絶望し、吼え暴れるただの獣だった。

 やがて王子の声はすすり泣くか細いものに代わり、腫れものを扱うような周りの家臣たちに引き立て連れていかれたよ。

 そして私たち、当時の使用人は、徐々に暇を出され、追いやられるようにしてみな城を追い出されたのよ……。


「その後の王子の、あの子がどうなったかは噂で聞いたけれど……ひどいものだねえ。信じられないよ。ただ、あたしが最後に聞いた王子の声はずっと耳にこびりついたままさ……」


 私が恐る恐る、大叔母に一体なにを聞いたのかを尋ねると、大叔母は糸のように細いまぶたの隙間から大粒の涙を零してこう言いました。


『天使、どこにいるの…どうしていなくなってしまったの…』

『僕のことを嫌いになってしまったの? ごめんなさい、あれは嘘だから、どうかゆるして天使……。ねえ、一人にしないでよぉ……やだよぉ……天使…、天使……』


 か細く震える少年の声は、次の瞬間、ぞっとするほどくらく闇色に染まり。

『ああ…天使、僕を見棄てたこと、絶対にゆるさない…』



 大叔母の目から溢れる涙を拭ってやりながら、私たちはしばらくぎゅっと互いに抱き締めあって気持ちを落ち着けました。

 それから大叔母はゆっくりと椅子から腰を上げ、部屋の奥から小さな包みを持って戻ってきました。ハンカチに包まれたそれを大事に大事に開くと、中から小さな一枚の肖像画が現れました。

 それはまだ幼い少年を描いたもので、燃えるような真紅の髪に、やけに白い瞳を利発に輝かせ、こちらに向かい無垢に微笑んでおりました。

 言わずとも、この少年が誰であるかを私は理解していましたし、大叔母も黙って見つめていました。

 大叔母は「今の王子は悪魔憑きだと言われておるが、おまえが見たものが悪魔のなのか、何なのか……。心配するでないよ、さあこれをおまえにあげよう」と言って私に小さなガラスの小瓶を握らせました。


「これは昔、天使様から授かった天使の羽根さ。眉唾まゆつばなんかじゃあないよ、この羽根があったから、おまえの名前もこれにあやかって決めたようなもんだ、ガブリエラ。絶対におまえを守ってくれるだろう」

 そして大事に包見直した肖像画を差し出しました。

「おまえが持つべきだ」そう言って大叔母は深く頷くので私も断ることができず、黙ってそれを受け取りました。



 買い出しを終え城に戻っても、私の意識は大叔母の話してくれた昔話の中にありました。大叔母の話を思い返せば、その情景がありありと浮かぶようでした。

 父も母も失い、失意の中に堕ちて行った小さな王子を思うと、気の毒で胸が張り裂ける思いでした。そうしてあの方は、心を閉ざし、私たち使用人などにお姿を見せることもないのだと、改めてその事実に悲しみを覚えました。

 いまや、彼を守護していた天使も消え――、あの方の傍らには得体の知れない闇ばかりがまとわりついているのです。あの黒い手のように。


 朝の仕込みを終え、割り当てられた小さな使用人部屋に戻った私は、質素な寝間着に着替え、倒れ込むようにしてベッドに身を預け深い眠りへと落ちていきました。



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